『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

御裳川公園の長州砲

2016年01月16日 | 旅行


先に紹介している火の山山頂の砲台跡や戦艦大和の弾丸などは近代戦争の遺構や遺物であるが、関門トンネル人道入口の道路向かいにある御裳川公園には幕末期攘夷戦に使用された長州砲の複製品が設置されている。この付近には壇の浦砲台や前田砲台が設置されていたようである。
看板表示によると上画像は長州藩の大砲鋳造していた安尾家に伝わる模型から復製された長州砲で、下画像は攘夷戦戦利品として持ち帰られたものがフランスの軍事博物館に保管されておりこれを複製したようである。

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戦艦大和の弾丸

2016年01月15日 | 旅行


火の山山頂の砲台跡は公園化されておりその一角になぜか戦艦大和の弾丸が設置されていた。看板表示によると昭和33年(1958)に開催された下関博覧会にこの弾丸が出品され火の山ローブウェイーが開通したことにより下関市に寄贈されたようである。
この弾丸は戦艦大和の主砲用として使用されていた徹甲弾で砲弾の全長は1.95m、重量1.74t、最大射程42kmのようである。

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火の山砲台跡

2016年01月14日 | 旅行


はるか昔、下関市の火の山から関門海峡を眺めたことはあるが山頂の砲台跡を見たことがなかったので探訪してみた。
明治期、本州と九州との連絡路を防護するためとともに敵艦船の海峡通行を阻止するために下関要塞が設定され火の山砲台などが設置された。火の山には第1~第4砲台があったようであるがロープウエー駅舎や展望台などで第1、第2砲台跡はほとんど消滅している。第3砲台跡は消滅不部分もあるが一部遺構が残っており第4砲台跡は比較的よく遺構が残されている。

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伊崎浦厳島神社

2016年01月13日 | 廿日市関連


昨日、孫達が帰る車に便乗して下関市で下車し上新地町の厳島神社に参詣した。社伝では壇の浦合戦で平家に関連して安芸厳島神社を勧請し創建されたようである。社殿は平成4年(1992)に焼失したようであるが社殿は再建されている。
参道にある一の鳥居は道路上にある石鳥居で上部の笠木・島木・貫など民有地のマンションに食い込んでいる珍しいものである。

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ミニミニとんど

2016年01月12日 | その他


今年は町内会で行っている恒例のとんど祭りが中止となったので、孫たちが揃った一昨日に小さなちいさなとんどを行った。
小さなとんどだったので孫たちの習字の数の方が多くなったが、竹の破裂する音もしてとんどの雰囲気を味わさせることができ、残り火で餅を焼いてぜんざいにして食した。

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速谷神社に木遣り奉納

2016年01月11日 | 「廿日市地区」ぶらり


昨日、平良地区の木遣り保存会の人達15名により氏神である速谷神社に木遣りを奉納した。木遣り保存会は秋祭りに奉納される俵みこし音頭の保存継承活動をしている。
♪ イヤー 天神七代 神々五代 おさまる民代こそ 目出たけれ 神代の昔をたづぬれば いざなぎ いざなみの 御神 天より天下らせ さかほこおろさせ たまへつつ ヨイ ♪

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椎茸栽培用ホダ木

2016年01月10日 | その他


先日山にウラジロが繁茂していることを紹介したが、腰まであるウラジロを刈り払って作業がしやすくなったので椎茸栽培用にドングリの木(クヌギか)を伐採した。
椎茸栽培用にホダ木を毎年少しずつ補充していたが去年はなぜか補充を怠っていた。年数が経つと腐食や白アリに喰われて廃棄するので補充は欠かせないのである。春頃に植菌して2年後くらいに椎茸が生えてくるようになるのである。

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手無観音さん

2016年01月09日 | 「廿日市地区」ぶらり


極楽寺廿日市参道の26丁碑脇にある手無観音さんで当ブログ主が若い頃には木造手無観音像が安置されていたが盗難に遭って現在の石仏が安置された。
昭和59年(1984)頃(下画像)観音堂は朽ち始めており現在の堂は平成17年(2005)5月に新築されたものである。

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変形樹木

2016年01月08日 | 登山


極楽寺への廿日市参道脇に変わった形の樹木があったが今まで何度も通っているのに気が付かなかった。
斜めになった部分の主幹が途中で折れて裂けたようで折れ部分より下側に空洞ができている。折れた後に両側の枝が成長して斜めの主幹を呑みこんで一体化しており斜めの主幹下部は枯れ死しているが上部は生きているのであろうか。葉が出てくる頃に探訪してみよう。

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極楽寺初参り

2016年01月07日 | 登山


昨日、極楽寺山に初登りをして極楽寺初参りをした。一昨年、昨年と初参りには雪があったが今年は暖冬で雪のかけらもみられなかった。暖冬の影響であろうか極楽寺参道の21丁目付近では4月頃に咲く山ツツジの花が咲いていた。
午後から登ったので下る人は10数人出会ったが登る人は他に1人のみであった。宮島SA脇から廿日市参道を登り帰りは廿日市参道から荒れた上平良参道を下って河野原大歳神社に初参りをした。

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紺屋地獄-泥湯

2016年01月06日 | 旅行


別府には何度も行ったことがありホテル・旅館の温泉に何度も入浴したことがあるが、先日今まで体験したことのない別府温泉保養ランドの泥湯に入浴した。露天の浴槽底には足首まで埋まるような鉱泥があり体験したことのない感触であった。
建物や渡り廊下、休憩所、脱衣室、浴室など古き良き温泉の面影を残しているが潔癖症の人には敬遠されそうな施設である。奈良時代初期に編纂された豊後風土記に記されているほどの古くから湧出している鉱泥と硫黄を含む鉱泉のようでその効用は多種多様にわたり医学的価値の高い温泉のようである。  ※浴室内は撮影禁止なので当施設のHP画像を拝借しました。

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唐戸レトロ建築探訪

2016年01月05日 | 旅行


門司港レトロ散策後に関門海峡を始めて関門橋を見ながら連絡船で対岸の下関唐戸に向かった。孫達はお目当ての「はい!からっと横町」に、ブログ主はいつも車中から見ていた唐戸のレトロ建物を探訪した。
左画像は明治33年(1900)建築の現役下関南部町郵便局、右画像は大正4年(1915)建築の旧秋田商会ビル(現下関市観光情報センターであるが年始休み)、中画像は明治39年(1906)建築の旧下関英国領事館で2階のカフェ&パブ英国館にてコーヒーを!

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門司港駅駅舎は工事中

2016年01月04日 | 旅行


門司港レトロの町並みではいつもの徘徊癖が疼きだし町並みを散策した。以前訪れた門司港駅駅舎は現在保存修理工事中であり、平成30年(2018)3月まで工期のようである。
ホームの方に廻ってみると仮設の駅舎で運行されており、上屋の鉄骨骨組みなどをみると現在では見られないようなデザインを兼ねた接合部分などがみられた。

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高塚愛宕地蔵尊参詣

2016年01月03日 | 旅行

昨日、子供孫達と大分県の高塚愛宕地蔵尊に参詣した。鳥居、拝殿、本殿、社務所があるが地蔵尊がびっしりと並んでおり、梵鐘、常香炉があり見たことのない参詣所であった。神仏集合時代の名残りなのであろうか。ホテルよりタブレットから送信しています。

 

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申(猿)年に因んで

2016年01月02日 | 「廿日市地区」ぶらり


原長野地区の集落を過ぎてほどなく長野川支流に架かる国道433号線の「さるわたり橋」があり、橋の袂に橋名の石碑が建立されている。平成11年(1999)の水害で被害を受けたものとみられ平成13年(2001)1月に架橋されている。
猿が川を渡っていたので橋名となったのかと思われたが、江戸期の地誌に原村と葛原村境に猿渡りという地名がみられるので地名から付けられた橋名である。

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