かぶれの世界(新)

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

田舎暮らし雑感2020(9)

2020-08-16 12:03:18 | 日記・エッセイ・コラム
1週間前に今年大洲市で最も暑い日だと思うと投稿したが、天気予報によれば今日が一番暑い日になりそうだ。温度計的にはそうだろう。だが、体感的には暑さ慣れして来た感じがしている。毎年お盆が過ぎた頃にそういう感覚が生まれる。今年も何とか暑さを乗り越えた、生き残れそうな気になる。

先週火曜日に帰郷後2週間以上たって、地元クラブのバドミントン練習に参加し楽しい時間を過ごした。コロナ感染対策で換気のため体育館の窓を開け風を通すが、それでもコートを目一杯動き回ると汗だらけになった。同じ時間でもバドミントン練習は遊歩道を1万歩歩くよりもはるかにハードな運動だ。だが、意外にも練習後に疲労感よりむしろ爽やかな汗をかいたと感じた。

副次効果があった。週二回バドミントン練習をして血圧が下がり始めた。寝起き直後に感じた体の熱がなくなり(体温は変わらない)、通常複数回測る血圧が安定した。今朝は1回目129-81、2回目が130-80だった。散歩やジョギングでは起こらなかった血圧の正常化のように感じる。

昨日の夕方散歩中に軽トラを運転中の古い友人に出会った。退職後バドミントンクラブで出会った中学時代の同窓生だ。当時は市の運動施設でカヌーの指導員をやっており、誘われてカヌーに乗せてもらい川下りをしたことがある。前方の空き地に止め車から降りた彼の姿は腰をかがめ見る影もなかった。

1-2歳年下なのだが彼によると右肩の筋を3本切り、2か月入院して筋をつないだそうだ。手術はひどく痛かったと言うが、私には腰痛で車にもたれかかって立つ彼の姿が痛々しかった。この年になるとケガや病気で一旦劣化した運動能力の回復するのは難しい。お互い頑張ろうと言って別れたが、正直こうはなりたくないなと思った。でも、農業を頑張ってやっているらしい。

その後も散歩を続け実家に戻る途中、なじみの元地区長に会った。今日も暑いねと月並みな挨拶の後、彼は朝5時頃から早朝散歩していると言った。彼は現役バリバリの農夫だがさすがにこの暑さでは仕事にならない。彼によれば5時過ぎ頃に散歩する人は沢山いるという。

私は興味があったが5時と言えばまだベッドの中だ。特にNHKの番組「試してガッテン」で教わった頻尿対策の効果で、朝方の涼しい時間帯の気持ちいい睡眠は大事だ。若いおネーチャンでもいれば話は別だが、そんな期待はあり得ないと言って笑って別れた。■
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワークマンにはまる

2020-08-15 16:20:04 | 日記・エッセイ・コラム
衣料品といえば前世紀(!)から家族からの贈り物やお下がりで済ませて来た私が、去年頃から少ない小遣いで衣類を買っている。それは何度か投稿したワークマンだ。実家のある田舎にも数年前に進出してきて以来、散歩のついでに時々覗いてそのうち小物を買うようになった。

最初に買ったのは西日本豪雨後の晩秋に裏起毛の温かいストレッチパンツと作業用ジャンパーだった。正にワークマン得意の分野だった。見かけ悪いと酷評されたが着心地は悪くなかった。それから時折お店を覗いて品揃え(WORKMAN+)と客筋の変化を実感していた。

私が買うのは数百円から2-3千円の商品、だが使ってみるとただ安価なだけでなく機能性に優れ実用的だとすっかりファンになった。単に実用的だけでなく昨年頃からデザインが垢抜けた(ファッションブランドとまでは言えないが)新製品が出て、明らかに店内の女性客も増えた。

私は農作業をする訳ではなく山道や遊歩道の散歩をする為だ。母がまだ元気な早期退職直後は二人で畑に出て農作業したこともあるが、当時はサラリーマン時代の使い古しのシャツやズボンだった。だが酷暑が続く近年は朝夕でも30度を超え、麦わら帽子だけで直射日光下の外出は厳しかった。

散歩で時折出会う忍者みたいな黒ずくめの女性に聞くと、全身UVカットと速乾性の服で被い涼しいという。同じような評判を何人かに聞きワークマンのお店をチェック、「吸汗速乾とUVcut」が謳い文句のスポーツウェアを2種類、サファリハット、スニーカー等一揃い買った。

早速その格好で往復5㎞のショッピングセンターに買い物に歩いて行き効果を確かめた。相変わらず暑くてサファリハットの頭から汗がしたたり落ちたが、特にランニング用シャツは速乾性能が優れてかつて汗だらけになった綿のTシャツに比べて着心地が良かった。

年齢とともに下半身の汗腺が劣化し頭や胸のあたりからに発汗が集中するという。私も例外ではなかったが、そのシャツを着て激しい運動をすると下肢からも多少の発汗が認められた。つまり、激しい運動も出来たのもシャツの効果の一つだと思った。若ければどうと言うことはないだろうが。

蛇足だが、最寄りのお店の隣はユニクロだ。西日本豪雨で冠水した後ユニクロが復旧に手間取っている間に、ワークマンは短時間でお店を復旧させた。ユニクロの隣に店を構えさっさと復旧させたのを見て、私はワークマンの挑戦する姿勢を感じた。そういうの私は好きだ。■
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寺巡り後の新展開

2020-08-13 21:29:15 | 日記・エッセイ・コラム
回覧板に挟まれたパンフレットを見て偶然始めた故郷の寺巡りは、新しい形に発展した。最後に行ったお寺の先に続く道を辿ると徳森地区に着いた。そこは見たこともない風景で興味が湧き、そこに住む人たちは何をしているか新たな疑問が湧き、次へ次へと歩き続けることになった。

お寺の先にあったのは新興住宅地だった。実家のある日本一小さい城下町の大洲市新谷から、盆地の穀倉地帯若宮地区まで子供時代は田んぼと畑だけだった。この30-40年の間に田畑の真ん中を通る国道沿いを中心に隙間なくお店が並ぶ新興商店街になった。高速道路も繋がった。

その99%はショッピングセンター、ガソリンスタンド、カーディーラー、レストランなどのフランチャイズ店だ。田舎では広い駐車場が必須条件だった。2年前西日本豪雨のため冠水したが、フランチャイズ店は災害に強かった。復興に苦しむ他所と異なり、1年でほぼ全て復旧した。

新興商店街を取り上げた理由は、最後に訪れた真光寺の西の徳森が新興住宅地に大転換してたからだ。私が子供の時の記憶では徳森は国道232号の両側にポツンポツンと農家があった程度だった。だが、いまや平地は全て宅地になり、両側の山裾にも別荘風のお洒落な家があり様相を変えていた。

殆どの家は昔の農家風の造りではなく、全国どこにでも見られる新工法の住宅だった。何故こんなに沢山の家が出来たか考え、新興商店街で働く人たちの住む家に違いないと思った。専門家によると5年ごとに工法が変わるので、家の造りを見ればいつ頃作られたか分かると教わった。素人の私の目には直近ではなく、住宅の多くは10-20年前頃に作られた家が多いようだった。

徳森の両側の小高い丘を3日かけて歩き結論に到達した。勿論、趣味の山歩きが第一の目的、そこで疑問が湧いて何故か思いながら歩いた結果だ。1日歩き何故こうなのかと疑問が湧き、翌日の山歩きコースが決まる。

最後に偉そうに言うと、米国に単身赴任しレニア山の周りを歩いた頃からの習慣だ。レニア山は富士山と似た形の単独峰で日系人の間ではタコマ富士と呼ばれていた。4000m級で富士山裾野の何倍もある巨大な山なので、夏になるとガイドブックを見て毎週山歩きをした。全コース踏破できる規模の山ではなかった。しかし、その時身に着けたどこでも歩き倒す習慣が未だに残っている。何とか健脚を保ち出来るだけ山歩きを続けたいものだ。■
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

突然の訪問者

2020-08-12 11:31:27 | 日記・エッセイ・コラム
それは若いお坊さんだった。朝食を終わりくつろいでいる時、住職がお盆に檀家回りして盆棚にお経をあげる「棚経」に来た。居間で暑さ凌ぎのパンツに下着姿でテレビを見ていた時、玄関のベルを鳴らして若い和尚さんがずかずかと入ってきた。

不意を突かれて私は慌てた。檀家の地区まとめ役が先日来宅し寺会費を支払った時、お施餓鬼は限定メンバーで実施、棚経は実施予定だが日程は別途と通知された。その後連絡がないのでてっきり東京帰りの私の実家は万が一を考えてスキップされたと思い、盆棚も準備してなかった。

と言い訳をしながら、別部屋に案内して仏壇の前に来客用の座布団を敷いてお願いした。お経をあげて貰っている間に2階に上がり着替えてお布施を用意し、仏壇の部屋に戻ってかしこまるとお経は終わった。正直言うとこの地の凝った盆棚を準備しなくて済みホッとした。

3段のひな壇に錦の布を敷き四方に若竹を立て、三方に横棒を通し正面に弘法大師や観音様の巻物をぶら下げ、両側にその他の沢山の巻物をぶら下げる。ひな壇の最上段から中央に先祖の位牌や仏像、両側にお飾り下段にお供えを置いてゆく。ひな壇の手前には黒塗りの台に蝋燭や線香を置き、全体の両側に御花や灯篭を配置するといった具合だ。

母が生存時に作った盆棚の写真を確認して、年々一部「手抜き」しながら見よう見まねで作っていた。巻物の横にぶら下げる長豆とか若竹は入手が面倒だ。それも含め年々「手抜き」が酷くなったが、今年は言い訳があるので究極の手抜きになった。何もしなかった。ホントに助かった。

お経が終わると若い和尚さんは文句も言わずに私の話し相手になってくれ、故郷のお寺巡りの話を聞いてくれた。彼は原付のスクーターで檀家回りをしていた。この暑さで一日中檀家回りはできない。高齢の前の和尚さんでは絶対に勧められない重労働、交代は正しかった。■
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天邪鬼の戦後75年 自助無くして誰が助ける

2020-08-11 19:56:31 | 国際・政治
コロナ感染第2波が依然として増加している為、今年の第二次世界大戦終結75年の行事はいささか尻切れトンボに終わった。日本では終戦記念行事とか原爆反対運動が報じられただけだ。天邪鬼の私はこういう時こそ感情的にならず、冷静に国の安全保障を考えることが出来る時だと思う。

当面の議論は終戦と直接関係ないが、突然のイージス・アショア配備停止と、それに代わり「相手領地内の弾道ミサイル等の阻止能力」として敵基地攻撃能力が検討され論議を呼んでいる。今後も続きそうだ。北朝鮮のミサイル開発や中国のミサイル配備状況を考えれば放置できないと私も思う。

だが、国民の声は必ずしもそうではない。その前にコロナ対策をやるべきという声のようだ。では国の安全保障はどうすべきかと聞くと、私には具体的な答えが返ってこないように感じる。なんとか仲良くやって武力対決を避けて欲しいみたいな希望的で曖昧な考えだ。

日本の安全保障は日米安保条約の下で「日本が盾、米国が矛」という役割分担実行される。だが、長らく盾の役割を果たす自衛隊は違憲との主張があった。現在は災害対応などを経て自衛隊の役割を評価する声が増えたが、マスコミや国民の多くは依然自衛隊の武力行使に反対のようだ。

盾の役割がどこまでかコンセンサスができてない。それが敵地攻撃の議論につながっている。ここからが私の考えだが、日本は自国を守る姿勢を明確に示さない限り誰も助けてくれない。日米安保条約の約束事とはいえ、自分で守る気のない日本を米国兵が血を流して守るなんてありえない。

私のこの手の都合のいい日本的平和の解釈は通用しないと思う。別に国と国の関係じゃなくてもいい。子供の頃からの親友がケンカして逃げたのに、私が親友に代わってケンカ相手とやりあうなんて考えられない。似たような話が戦闘機が日本国内で墜落した時、知事が米兵の生命を心配せず墜落を非難する。これを聞いた兵士は日本を守るなんて金輪際勘弁してくれと思うはずだ。

日本人は自ら血を流してでも自らを守る自助の精神を明らかにすべきだ。もちろん法の許す範囲でなければならないが。戦争になるような対応は避けるべきだ。だが、血を流してでも自らを守る姿勢を見せ、逆に許される範囲で国を挙げて支援する意気を見せるべきと思う。■
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする