一公の将棋雑記

将棋に関する雑記です。

大山・羽生連合軍VS中原名人

2021-10-05 23:08:05 | 将棋雑記
大山康晴十五世名人は1992年7月26日に他界された。大山十五世名人は69歳にしてバリバリの現役だったから、不戦局も多数となった。
その一つが第13回JT杯将棋日本シリーズである。この2回戦で大山十五世名人は羽生善治棋王と当たっていた。ふたりの対戦成績(公式戦)は大山3勝、羽生6勝だが、羽生九段にはこのときの不戦勝が含まれているのだ。
さて主催者は8月30日の静岡対局をお好み対局に代え、羽生棋王はそのまま対局、相手は15期目の名人を防衛したばかりの中原誠名人とした。
本局は非公式戦であり、大山十五世名人の追悼という意味を持つ。よってその戦型が注目された。
では、その将棋の序盤の指し手のみを記してみよう。

▲棋王 羽生善治
△名人 中原誠

初手からの指し手。▲7六歩△8四歩▲7八銀△3四歩▲6六歩△6二銀▲6八飛△4二玉▲4八玉△3二玉▲3八銀△5二金右▲3九玉△5四歩(第1図)

先手羽生棋王の▲7六歩に、中原名人は△8四歩。若いころの中原名人は大山十五世名人相手にすぐ飛車先の歩を突くのが常だった。本局において中原名人は、「中原名人役で行く」と宣言したわけだ。
となれば羽生棋王が大山十五世名人役をやらねばならぬ。3手目、大山十五世名人なら▲5六歩か▲7八飛だが、羽生棋王は▲7八銀とまっすぐ立った。矢倉志向なら▲6八銀だから、ここで四間飛車がほぼ確定した。果たしてその4手後、羽生棋王は四間飛車に振った。
△3二玉に▲3八銀。これも大山流で、昭和50年代に連採された。場合によっては▲3九玉型のまま戦ったり、▲3六歩を優先させたりと、もろもろの含みがある。

第1図以下の指し手。▲2八玉△1四歩▲1六歩△4二銀▲6七銀△7四歩▲4六歩△5三銀左▲5六歩△8五歩▲7七角△7三銀▲5八金左△8四銀▲7八飛(第2図)

羽生棋王は▲5八金左を保留し、▲6七銀~▲4六歩。むろん▲7八金の余地を残しているからで、これも大山流だ。
いっぽうの中原名人は、△4二銀と、教科書的な囲い。ここは居飛車穴熊や天守閣美濃に囲う手も有力だから、意外ではある。
さらに△5三銀左~△7三銀。まさに昭和40年代の大山-中原戦の指し手で、中原名人は、往時を思い出していたに違いない。
羽生棋王▲5六歩。四間飛車でこの歩を突くのは△5七角が残るから指しにくいが、大山十五世名人は5筋位取りを嫌い、よくこの歩を突いた。
このあたり、まさに大山十五世名人が乗り移ったかのようである。私は羽生棋王が大山十五世名人の将棋を勉強しているイメージがなかったのだが、棋士を志す者が大山十五世名人の棋譜を並べないはずがない。そう、ここに「大山・羽生連同軍VS中原名人」が現れたのだった。
羽生棋王▲5八金左。ここは羽生色が出たところで、後手が速攻を目論んでいるから、前述の通り▲7八金と上がる手はあった。そして▲4七銀~▲3八飛とし、薄い玉頭を攻めるのである。余人には真似のできない指し方だが、以前羽生棋王は同様の指し方で青野照市九段に快勝したことがある。
本譜は△8四銀▲7八飛となり、ここからは羽生棋王の独自の指し手といえよう。
以下は華麗な攻め合いとなり、109手までで羽生棋王の勝ちとなった。全譜を記したいところだが、そうすると棋譜警察がウルサイので、このあたりで打ち切る。

将棋の指し手で棋士を追悼する。これも将棋ならではと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする