神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

小林麻央さんが・・・・・

2017年06月23日 12時26分50秒 | ニュースネタ

パソコン開いたら「小林麻央さん死去34歳」って

今まで彼女のことは何も考えたことも無かったが、住む世界も違うし

だけどガン闘病中で悪化していることは知っていたが

・・・・・なんか寂しい  こんな人は早く亡くなっちゃダメだ

そう思った   なぜなんだろう?

 


台湾2017.6(4)

2017年06月23日 08時11分26秒 | 韓国.北朝鮮.台湾.中国

九分から再び下ると海岸線の国道に出た

右手に海を見ながら走る、毎日毎日海を見て働いている私にとって

この景色は本当にホッとする、海は全てのわだかまりを解決してくれる

行けども行けども海、途中町並みもぽつりぽつりと過ぎる、台湾では木造の家は作らないとか

台湾にも地震が起きるし大きな被害もあった、とか台湾では北朝鮮に拉致された人はいないとか

台湾の原発は4基で一基だけ停止中だとか

山の上の建物は、テレサテンのお墓(メモリアル?)ですよとか、結構、張さんや呉さんのガイドで楽しませて

もらった。

そのうちに大きな施設が見えて鉄条網が張り巡らされている、「これは何ですか?」と聞いたら

原発だった、それで鉄条網かと思ったが、過日見学してきた日本最大の刈羽原発のセキュリティとは

全く比較にならないほど緩く見えた、立地も崩れかけている古い地層の山の中にあるし、安全性は

どうなのかな・・・。

そんなことを話しながら一時間ほどようやく漁港らしい町並みをいくつか過ぎて、ついに目的地の富基漁港に

到着、ここは台湾本島の最北端に位置しているらしい、だから海の向こうはセンガク諸島や沖縄列島と言うことになる

魚売り場には10数店舗が軒を連ねている、魚や貝を活かしたまま販売する

原発をイメージしているのだろうか

ウィークディのせいか、立地のせいか、お客の数は数えるほどしかいなくて、店員はたいがい暇そうで眠そうな顔を

していた、韓国のソウルのノリャンジン市場や釜山のチャガルチ市場などの賑わいとは比べようもない

だが魚屋で買って、魚屋直営か提携店の食堂で調理して食べる方式は同じだ、できたてのアツアツというのが

魅力、イカの刺身を食べたかったが呉さんがいきなり交渉を始めた店にはなかった

もう少し、あちこちの店を品定めしてからのほうが良かったのだが、もう2時みんな腹を空かしているから仕方

ない、アサリ、シャコ、大正えび、ガザミ(かに)などを買って、さしみは無難にカジキとマグロ

あまりパッとしない取り合わせだが、出てきた料理はなかなか美味そう、サービス品だと言って野菜料理なども

3品ほど出てきた。

私にとってはこれはみんな酒のつまみ、ビールを飲んでいるときが一番旅行気分だね

さて、食べ終わってまた一時間、台北までのドライブ開始だ

 

 

 


台湾2017.6(3)

2017年06月22日 08時19分38秒 | 韓国.北朝鮮.台湾.中国

本道から少しだけ登ると、そこは鉄道の跡かと思われる枕木状の一直線の歩道をはさんで

両側に土産物店が30店以上並んでいる

その店先には、色とりどりのパラシュートをたたんだ様なものが無造作に並んでいる

高さは150cmほどの紙製、まずそれを買うと墨と筆を持ってくる、4面あってそこに一人ずつ

願い事を書くのだ、さっそく我々も購入して書いた

店員がその天燈を支えている我々を一面毎に記念撮影してくれる、それが終わると点灯する

この紙が熱気球となって空に上がって行く。  まわりが森林の山になっている場所で毎日

数百個の、火がついた大きな紙風船を飛ばすなど日本なら消防署が許可しないだろうな

まあヤボは言わないで、「3.2.1.点火!」手を離すとゆっくりと我々の願いは浮き上がった

数百メートルの高さまで上がって、先に行く天燈を追いかけて多分北の方に飛んでいった

それにしても今日も暑いなあ、でもジメジメした湿気は今日は無い、汗が噴き出す暑さだけだ

十分の次は「九分」へ行くのだそうだ、因みに「八分や七分もあるか」と聞いたら無いそうだ

十分から、数十分箱根に登っていく様な道路で、ぐんぐん高度を上げていくと眼下に海が広がった

入り江もあるけれど多分、太平洋だろう、車の数が多い、観光バスもやってくる

賑やかな場所で張さんの車が止まって降りる、そこは展望台

下は海の風景、上は段々になって上まで登っていく町並み

一番上に住宅がいくつも見えるけれど、あれは全て昔のお墓だそうだ、今はあんなお墓は建てないそうだ

ちょっと沖縄っぽい感じもしますね

道路を渡ると狭い小路に入った、緩い坂が果てしなく続き、左右は土産物屋、食堂、食べ物を売る店、雑貨屋

色とりどりの小さな店が数百軒続いている、観光客が多いが、休日はこんなものではないのだそうだ

確かに肩が触れるほどでは無い、まあ狭いアメ横の雰囲気、アイスコーヒーを買って飲みながら歩いた。

一度見たかった台湾ラーメンの店もいくつかあった、やっぱり全然日本ラーメンと違う(見た目)

   

 

そして一番上までたどり着くと、そこは海を眺める展望台だった(下の写真よりもっと上からの景色になりますです)

そこから別の道を下る、ここは伊香保温泉の様な急なまっすぐな階段が続く

私は知らなかったが「千と千尋の神隠し」の場面に出てくる有名な場所なんだって

映画名は知ってたが、見ていないし、台湾も舞台だって全然知らなかった

そこで写真を一枚撮ってもらった

   

どちらの写真も私ではありません、念のため

さあ、もうお昼をとっくに過ぎています、これから海鮮市場へ行って昼飯です

「どのくらいで到着しますか?」「一時間くらいです、我慢できますか?」

我慢するしかありません  でもビール飲みたい  ビール飲むとおしっこ我慢できない

だからビールも我慢します

 

 

 


台湾2017.6(2)

2017年06月21日 18時56分44秒 | 韓国.北朝鮮.台湾.中国

第2日目は、呉さんにお任せでどこに行くのかさっぱりわかりません

希望は台北市内の観光は以前も多分見ているので、チャータージャンボタクシーで郊外観光に

行って見たいというのが唯一の希望

いいえ、唯二の希望もありまして、それは昼食は海鮮市場で魚料理を食べるということ

と、その二つが叶えられれば、あとはお任せ

とりあえずはホテルでバイキング朝食、しかし私はいつも食欲テンションが2日目から落ちる

クセがある、やっぱり今回もダメだ!  生野菜とパンとジュース、それと目玉焼き

目玉焼きさえ気持ち悪い気分

旅行中はほとんど呑んでいるのだが、今日はワゴン車での移動、飲物を入れていく余裕なし

幸い、天気は回復傾向しかも昨日ほど蒸し暑くも無いし

ワゴンの観光ドライバーさんは張さんと言います、年齢は60歳前位かな、日本語も堪能

さて高速で車はどんどん山の方へ進んで行きます、途中台湾一の建物509mの台北101が

見えました、ここは行きたかったけど雨降りでは何も見えないのであきらめました

台北市から南に向かって進んでいるものだと思っていましたが、実は北東に向かっていたのです

基隆の表示が見えています、これから行くのは十分(人偏に分)という観光地らしい

一時間くらい経ったかな、いよいよ谷間に集落が見えてきました、何があるのか何も無いみたいだけど、

でも鉄道みたいなのが見える

国道から離れて下っていくと、「10分瀑布」という看板のところで下車、そこから食堂の間を抜けて

下っていく。 食堂にも痩せた犬がいる、台湾へ来て気づいたのはやたら犬が多いこと

町中にはいないが、不思議と店先に多い、それも日本の様な血統書付きのお座敷犬ではなく

昔の日本でも自由に歩き回っていた雑種ばかり

さて吊り橋を渡っていくと、枕木が石畳の様に続いて、左右には馬などの置物、そしてタイだかの

南無阿弥陀仏の金色の多面仏などもある

    

いよいよ滝の音が大きくなってきて見えましたよ、だがまだまだ下へ歩いて行きます

真正面に着きました、滝のしぶきがびゅんびゅんと顔に飛んできてひんやりと気持ちが良い

 数日、雨続きでたきの水量も多いそうです、良かった!

   

10分瀑布を10分ほど見たらもう十分になって、また急な道を上まで上ります

暑いし、くたびれます

でも杖をついたおばあちゃんさえ歩いているのですから泣き言はいえません

 

簡単な造りの食堂街の上をジーゼルカーが走っていきます、これも観光用みたいです、台北から

ずっと来ているのかも

この食堂で一休みしてビールを飲みます「う~~~うまい」

さて道路まで戻って、次は「天燈」を見に行くそうです、なんなんだろうか?

観光バスもどんどん来ています、韓国人客が一番多いみたい、次は中国人、そして日本人が少し

あっ、何かが空に浮かんでいます、気球みたいに、それも次々と

 

 

 

 

 


台湾2017.6(1)

2017年06月21日 13時19分42秒 | 韓国.北朝鮮.台湾.中国

35年ぶりに訪れた台湾、連日の雨続き入梅、松山空港に下りた途端ジメ~っとした

梅雨独特の蒸し暑さ、やはりこの国も海洋国家だ

ガイドを頼んだ呉さんがお出迎え、50歳間近のおばちゃんだがバイタリティ溢れた

いかにも台湾のおばちゃんだ

台湾はどこもかしこも禁煙と聞いていたが、タクシー待ち場でも喫煙用のスタンド灰皿があるし

吸っている人も何人もいる

まずはホテルへ荷物を置きに行くことだが、雨降りでタクシーは長蛇の列、それでモノレールで

行くことにした。 台北にモノレールがあるのは知らなかった

 

    

ルーレットのチップみたいなのがICチップの乗車券

ホテルは首都大飯店(キャピタルホテルタイペイ) 中堅クラスのホテルかな?

ソウルでもキャピタルに泊まったことがあった・・・と思い出した

飛行機はビジネスクラスといきたいところだが、今の経済力ではエコノミーの格安航空券が精一杯

到着時間は同じだから、良いとするか

ANAのおかげで機内食はGoodだった、これから3日間は日本食とお別れ

ちらし寿司が絶妙にうまかった

8000mでようやく雲の向こうから太陽現る

 

晩飯は町の食堂で食べたいとお願いして、大衆食堂へ行く、現地の家族連れなどが

次々に入ってくる。  何か買っては出て行く人がいるので聞いてみたら、弁当販売もしていて

人気があるんだそうだ

思い思いに10種類ほど頼んでみる、いずれも初めて食べる味付けなり

美味いものもあれば、そうでないものもある

私は中華風に茹でたシジミがあるのでそれを頼んだ、食べてみたらナメクジ食ったみたい

「?」聞いてみたら「ナメクジだって」なわけないだろ! 実は生のシジミを辛いタレに漬け込んだもの

3粒食ったけど「ごめんなさい」だった、同席ガイドの呉さんは美味しそうにそれをむしゃむしゃ食べてました。

ビールは台湾ビール  味は炭酸の足りないノンアルコールビールみたい

いくらでも飲めそうだし、飲んでも酔わない様な気がする

左は現在のもので、右はクラシックビール  キリンのラガーにそっくり

      

店内

食べた後は、いつもお決まりの「マッサージ」、全身90分コースを頼んだら、オプションが歩いてきて

「足裏いかがですか」上半身をマッサージしながらもう一人は足裏マッサージ、省エネ方法で90分以内に

2つのコースをやってしまう、・・・なるほど  「トゥシャオチェ~ん?」 「はい日本円なら5300円なり」

「謝々」「今日は朝からバタバタ劇場の連続でツカレマシタ、ホテルカエッテ、フロハイッテ、ネルヨロシノコトネ」

 

 なぜか氷いっぱい&送風扇の男子トイレ、涼しさの演出はわかるけど・・・

 帰る前にコンビニでビール買おうと来るとき見たコンビニを記憶を頼りに行って見た

ありましたが、玄関が閉まっています閉店です、まだ10時過ぎです

よく見たら裏口でした、ぐるーっと大回りして表から

買ったのはアイス最中とハイネッケンビール1本

だけどビールは飲む前に寝てしまいました・・・・お疲れ様の歳になったんですねえ・・・~

 


上杉謙信、上杉景勝の存在はなんだったのか?

2017年06月19日 10時55分16秒 | 戦国時代

日本の戦国時代後半(1550年~1615年)全国に芽生えた数多の武将群も
いよいよ強力な10数家の大名に集約された。
 いずれも弱肉強食の理にて隣接する弱者を強者が襲い、根こそぎ奪い去り、また
強者と強者が手を結んで手強い弱者を襲って分け合った、そんな動物的な戦国武将の中に上杉謙信という唯一無欲で清廉な武将がいた、ところが謙信、100戦100勝の敗戦を知らぬ強者でもあった。
 信州川中島の5度にわたる武田信玄との戦は、まさに決勝に相応しい組み合わせがベスト16でぶつかってしまった様な強豪同士の決戦であった。
 しかし戦の動機は全く異なる、甲斐の虎と呼ばれた武田信玄は父を追放し、長男を殺し信州に攻め込み片っ端から領地や住民をさらって自分の土地を増やしていった。
攻め殺した領主の妹を妾にして子を成したりもした(諏訪勝頼)
 一方謙信の方は、武田信玄に追われて逃げてきた信濃豪族を受け入れ、懇願されて奪われた土地を取り返して信濃豪族をもとの土地に返してやろうという、無償の戦であった。

 このように上杉謙信という人は戦国時代には珍しい風変わりな武将である
あまりにも清廉潔白でしかも一本気だからワンマンである、ワンマンをカリスマ性で補っている、織田信長も同じワンマン+カリスマ

 戦国時代は領土の獲得ゲームだ、なぜ領土がいるのかそれは頻繁に戦争があるからだ
戦争に勝つ度に、活躍した家来に土地や奪ってきた捕虜などを褒美に与える
ところが上杉謙信の戦争はいつも頼まれてやっている様なところがある、領土を拡大するための戦争では無く、弱きを助け強きをくじく正義の聖戦だ。
奪われた土地を取り返しても、自分の物にせず元の持ち主に返す、関東に出陣して次々と敵の城を落城させても、そこに家臣をとどまらせず越後へ引き上げるから、逃げた敵はまた戻ってきてそこを奪い返す、遠いから容易に引き返すこともできずいたちごっこだ。

 それでも戦争だから死者も出る、戦に勝っても土地が増えるわけでは無い、しかし謙信は義を果たしたことに幸福感を感じている、家臣もそうだと一方的に思っている、だから感状の紙一枚で家臣を報償する、家臣は自前の食料や家来の戦死、負傷という被害を受けているのに紙一枚ではそのまた家臣に何もやれない。
 だから大きな越後では不満を持った与力の豪族たちが離反する、織田や伊達の甘言に誘われて謙信を裏切る、特に越後北方の豪族にその傾向が多い、何しろ200kmも離れた土地なのだ。
 それでも謙信は成敗に出陣する、そして謀反軍を降参させる、信長なら逆さ磔か、一族共々焼き殺すだろう、ところが謙信は「二度と謀反を起こすな」などと言って春日山に引き上げる、領地も奪わず、地位も奪わず帰って行く、何しに来たのかわからない。
 そこが謙信の不思議さである。

 

   謙信の魅力というか、なぜこうなるの?と思うことがある
まわり中が油断できない敵ばかりの戦国時代、謙信と竜虎と言われた強者武田信玄も
雅やかな今川義元も中国の覇者毛利元就も京に上洛したことが無い。
 できるわけが無い、そもそも今川も武田も京に旗を立てるため、4万の軍を率いて行っても、とうとうたどり着けなかった。
 今川義元は僅かな信長軍に討ち取られ、信玄は病死したという。
毛利は京に行こうとも思わなかったのだろう遠すぎるし、背後の九州や山陰の尼子という敵が狙っている。
 
 ところが、京から400kmのド田舎越後に住む謙信は、なんと2度も京の地を踏んでいる、それも数千、数万の軍団など引き連れず、僅かな家臣と京に上り帝や公家と面談し、お言葉をいただき、名僧や文化人と交わり越後に難なく戻っている。
 朝廷に無礼を働く三好、松永の近畿侍を僅かな家来と懲らしめ、足利将軍から篤い信頼を得た、上級公家の一人は謙信に惚れ込んで越後まで同行して住み着いたほどだ。

 なぜ謙信は敵と戦うこと無く京まで行くことができたのだろうか?
越中富山は敵ばかり、加賀の一揆も敵だ、その先の越前朝倉家は一揆を敵としている、言わば敵の敵は味方で朝倉は謙信に好意を持っている。
それで船に乗って越前まで行ったと思われる、そこから朝倉の同盟浅井氏ともよしみを結び、浅井の旧主六角とも侵略の意思がなければ戦う理由も無く、京まで無事についたのだろう、そして京に巣くう三好、松永は謙信の威風堂々とした姿に恐れを成したと思われる
まさに謙信の無欲無心仏心とカリスマ性がこのような奇跡を二度も起こしたのだ。
 関東の味方が、北条の大軍に包囲され救援を求めてきたときも急いで越後から出陣、
そして味方の軍が揃うまで待てば落城の恐れ有りと、謙信は僅かな軍勢を伴って軍旗を先頭に、数万の北条の包囲軍の真ん中を堂々と、しかも粛々と通っていく、北条の軍勢はあっけにとられて誰一人手を出せずに入場を見送ったという伝説さえある、謙信が軍神と言われる所以だ。
 あの魔王信長さえ初めて京に入ったときは将軍足利義昭を戴いて、大軍を率いて入洛したのだった、信長さえ謙信の大胆さはまねできない、唯一秀吉が陽気バージョンで似た様な行動を度々行っている。
 家康との小牧の戦で敵味方の真ん中に一人出て行って尻を徳川型に向けて尻まくりしたとか、家康と連れションをしたとか、母親と妹を人質に出したとか、敵方の前田利家の城門前に一人で出て行って「又左(前田利家)儂じゃ藤吉郎じゃ、茶を一杯所望!門を開けよ!」というパフォーマンスは全て太閤記の読みどころだ。
戦国武将の大胆な人柄となると謙信と秀吉が東西の横綱だ。 

 謙信という人は全く殺気が無い人だったのだろう、殺気は無いのに恐ろしさを与える人
悪鬼を踏みつけ、善人には慈悲を与える、毘沙門天の生まれ変わりと言われる謙信の面目である。
 いつも春日山城の堂にこもって瞑想を続けていたという、生涯妻帯せず子も成さず
姉の息子を養子にしたが、敵だった関東北条氏との和睦の印に人質としてやってきた北条の息子までも養子として可愛がった、それなのに後継者を決めること無く突然卒中で死んだという、これが仇となって二人の養子が越後を二分して戦い、上杉景勝が勝利したが無敵の越後軍団は半分の力に衰えてしまった。

 織田信長の急激な版図拡大に危機を持って、親の代の仇敵、武田と上杉が同盟したが既に遅く1582年武田氏は滅びた、それは四方から織田軍が越後上杉を次のターゲットにした瞬間だった。

 越中から佐々軍団、信州から森軍団、上州からは滝川軍団、その後には北条家も狙っている
 北からは奥州の伊達が越後を伺い、上杉の家臣団に反旗を翻させた、
山形の最上も漁夫の利を狙う、まさに風前の灯火。

 しかし凡将と言われる上杉景勝だが運の良さでは謙信を上回っていた
織田信長が家臣の明智に殺されたのだ、これによって地方の織田軍団は総崩れ
景勝も北信濃と上州の一部を取り返した。
 さらに良いことが続く、織田軍団の内戦で勝ち上がったのは羽柴秀吉だった
この人殺しが嫌いで調略戦が得意で陽気な秀吉は、越中の敵佐々成政を降伏させるために越後側にいる上杉と手を結ぼうと動いた、景勝の参謀直江兼続も用心しながらもこの話乗るべきと進めたのでは無いだろうか。
そして佐々降伏の後、越中越後国境にそびえる上杉の最前線勝山城で秀吉と景勝は同盟を結んだ、このときまだ安定していなかった秀吉と越後一国の老舗上杉とは互角の同盟だっただろう、表情を表さず、無口だったという景勝はともかく、直江兼続は秀吉に会って安心したのでは無いだろうか、しかも秀吉の小姓兼秘書の切れ者、石田三成とは知恵者同士気が合った様だ。
 
 こうして秀吉との出会いは景勝の運気を上げた、秀吉の急速な権力上昇で家臣とはなったが、越後時代の50万石弱の領地も120万石にふくれあがり会津に移った。
これは秀吉家臣では徳川家康に次ぎ、毛利輝元と並ぶ全国二位の大きな領土を得た
しかも秀吉内閣の一級閣僚5名の一人に指名されて、まさに秀吉は景勝の福の神だった。

 しかしそれも秀吉の死と共に反転する
家康に臣従するか、石田三成に加担するか、1600年の関ヶ原の大戦はそういう選択に迫られた、日本を二つに割ってのいわば決勝戦だ
 景勝にはプライドがある、何を考えているかわからない徳川家康は虫が好かない、石田三成はどうか?  生真面目で豊臣政権に忠義を貫き、小身の大名ながら20倍もの領土を持つ最高権力者に「忠」と「真」は無いのかと詰め寄る勇気、一本気な性格は景勝にも通じる、何より三成には上杉謙信と同じ「義」の心がある。
上杉は石田三成に賭けた。

 そして敗れた、東北の地にあって、小競り合いはあったがろくな戦もしないで上杉家は敗者になった、首謀者の三成たちは捕らえられ打ち首の上さらされた。
景勝も覚悟を決めた、だが誰ぞの口添えなのか領地75%を没収されたが米沢に30万石を与えられて存続を許された。
30万石なら上位の大名の体面は保てる、ところが江戸時代がもっとも安定した元禄に赤穂浪士の事件が起こった、討たれたのは上杉家の殿様の実父吉良上野介だった。
 上杉の男子が途絶えて、上杉の姫と吉良の間にできた子を上杉家に養子縁組して入れて
上杉家を存続させたのだった。
 ところがその時、上杉家では跡継問題でごたごたがおきた、それが原因で30万石を半分幕府に召し上げられ、15万石に減らされたばかりだった、そこに赤穂浪士の事件。

 江戸にいた上杉の殿様は、実父の危機なので家来を引き連れて吉良邸に救援に行くと馬にまたがった、しかし上杉家に代々使えている家老が立ちはだかって、それを止めたのは
忠臣蔵の映画でよくある場面だ、上杉代々の家臣にとって「吉良家の私恨でお家断絶になってたまるか」という心境だったろう、こうして幕末まで上杉家は15万石の身代で存続した。
 幕府の末期には密貿易で潤った薩摩など僅かな大名以外は、ほとんど財政が逼迫していた、徳川家本体も消失した本丸の新築もできない有様だった。
上杉家も同様に大きな借金を抱えて四苦八苦していたが、養子で上杉の殿様になった上杉鷹山は名君であった、質素を軸に経済を立て直して借金を解消、しかも数万両の貯金まで作ったのだった。

 戦国から明治まで生き抜いた大名は決して多くない、したたかな者だけが生き抜くことができたのだ。
   津軽、佐竹、織田、上杉、伊達、徳川、真田、前田、池田、蜂須賀、黒田、毛利
山内、島津

 一世を風靡しながら滅び去った者は多い
    南部、芦名、最上、長野、武田、村上、北条、里見、今川、斉藤、浅井、朝倉
    六角、神戸、豊臣、松永、三好、石田、明智、長宗我部、大内、尼子、宇喜多、
    別所、大友、少弐、龍造寺、伊東、小西、菊池、柴田、波多野

   越後上杉家、会津米沢上杉家とは戦国の時代、どんな役割を果たしたのか
 謙信の時代は間違いなく主役であった、天下取りの野望を持たないのに生涯を
戦三昧で過ごした。
謙信は戦をすること自体が生き甲斐だったと思う、戦無しでは生きられない男だったのだろう、その先の天下など眼中に無く、「男だねえ謙信さん」と絶賛されることに興奮し、また嬉しかったのかも、彼はナルシストなのだろう、強い相手も見ると決着をつけたくなる剣豪タイプでもある、ボクサータイプ、とにかく戦闘大好き人間。
 謙信の戦争方法にはほとんど作戦など無かった様だ、狡猾な信玄や信長とは全く違う、自分の感だけで突き進んでいく、相手が作戦どおりの陣形を作る前に突入して破ってしまう、定石を重視する敵は、謙信に意表を突かれて混乱する
作戦がない謙信は相手の弱みを察知する嗅覚がある、そこを一気に攻めるのだ。

 こんな謙信が近くにいて迷惑したのが武田信玄と北条氏康だった、どちらも謙信が越後などにいなければ、信長や家康の台頭を許さなかったかもしれない、信長、秀吉、家康にとって謙信は幸運の神だったのだ、IFで考えれば歴史が変わったかもしれない。
 謙信は死の直前、京へ上る軍を招集していたという、これだって帝に無礼を働く信長を懲らしめる目的だけで、天下に号令しようとなんか思っていなかっただろう
だから死ななかったとしても信長を討ち取らぬ限り歴史に影響は無かっただろう。
 よくよく考えると大物相手の戦争ばかりしていた謙信だが戦に勝っても大物を一人も
殺していない。 信長は僧侶や信徒を数万単位で虐殺、今川義元、浅井、朝倉、武田、
松永などの大名、大物地方豪族を多数殺した。
 秀吉も主君織田信孝、柴田勝家 、明智光秀、北条などを攻め殺している
家康は主家の豊臣親子を責め殺し、関ヶ原で多くの大名を殺した
こう見ると謙信は異色のクリーンな戦国武将ということが立証される、キャッチ&リリース、戦は人殺しでは無くレジャー感覚だったのかね。

 一方、上杉景勝は徳川家康に敵対しながら、結果的には家康に天下を取らせた功労者という見方になっている、豊臣家を潰したい家康にとって石田三成を始めとする反徳川派を立ち上がらせる必要があった、そのために上杉征伐を考えたと言われている。
これにまんまとはまったというわけだ。
 上杉家は明治維新でも結局たいした活躍をしないで降伏している、会津が頼りにしていたにもかかわらずだ。 旧領の越後と庄内では長岡藩牧野氏、庄内藩酒井氏が徹底抗戦、官軍と五分の戦を繰り広げたのだった。

 

海にせり出しているピークが勝山城、ここで秀吉と景勝が会談したという

当時の越後上杉の最前線基地、富山方面からの敵を監視する


女性と吞むのが最高だね

2017年06月18日 12時01分19秒 | 知人・友人

飲食店業界の懇親会は他の宴会とはひと味違う

料亭、割烹、弁当店、寿司や、食堂、旅館、ホテル、中華店、蕎麦や、食品製造業、菓子店

温泉、魚屋、八百屋、食に関する経営者が一堂に会する

スナックのママにマスターも勿論参加、美人ママにグラマーなママ、会話上手なママ

おだて上手なママ、色とりどり華やか40代50代60代、酸いも甘いも知ったその道のプロ

昨日はそんな親睦会なのに、今日の健康診断のためコップ一杯のビールで済ませて、あとは

ノンアルで通した。

酔わない酒席なんてほんとつまらない、こんな時は女性との会話に限る

幸いママ連は同じテーブルに集中していたから、まずは糸口としてスナックには無関係の

事務職員にビールを持ってご挨拶

40代の彼女は関西から嫁に来たしとやかな人、わが店で結婚式をしたのでよく知っている

隣のイスが空いていたので座っていたら小料理屋のママが戻ってきたので立ち上がった

すると「いいわよ、二人で座りましょ」と言うことで一つのイスに二つのお尻

「何吞んでるの?」「今日はノンアル・・・しかじか・・・」すぐにノンアルを持ってきてくれて

注いでくれた

私の同級生の女友達が時々吞みに来るという、それなら誘い合って今度行こうかな

私の父の家から近いのでそこで泊まるときには夕食兼ねて吞みに行こうかな

 

一通り美ママ連に愛想しながら注いでまわる、温泉の総務をしている彼女は吞むほどに色っぽくなり

しかも底なしで男は勝てないとの美しき女傑、若いときの美しさは半端では無かったとの評判

今も面影有り

ライザップやったんじゃないかと思うほど腹回りが痩せたスナックママは、ナイスバディに変身、

凹凸がはっきりしていてUSAだね、スナックママ同士の会話もそこに行く

その向こうの大場久美子似の50前の可愛いママも、わが店で成人したばかりの息子の結婚式をやってくれた

こんな風に紹介すれば切りが無い・・・・・

ともかくこれだけの女性席に特攻したので、酔ってもいないのにハートマークが土星の輪の様に

顔のまわりを巡っている

そこに協会の女事務員が登場、ビール瓶を差し出すから「・・・・・で」とノンアルに替えてもらう

お返しに「どれだけ吞んでも酔わない方法を伝授いただきたい」と行って、コップに熱燗一合

並々と入れて渡したら、ママの一人が「それは無いわよ・・・ねえ、盃ないの?」という間に

事務員の彼女、コップ酒をぐいと三分の一一気に飲んだので、みんなびっくり

この30代の彼女の父親は魚屋で、一緒に旅行で歩いたりする仲なので彼女の酒豪ぶりはとっくに

承知の助なのだった

温泉の酒豪総務嬢も凄いが、こちらはもっと上を行っている

かくして二時間の宴会時間は瞬く間に過ぎ去った、今日のメンバー27名のうち私と他2人を

除いて、ダイナマイトバディママのスナックへ全員2次会でGO!

きっと深夜まで飲み歩く者もいるはず、町も少しは賑やかになるかな?

私は良い子になってお休みしよう。

 

 


認知症が身近になってきた

2017年06月17日 08時28分04秒 | 老人介護

どうした加減か昨日から曜日感覚が一日ずれていた

今朝、魚市場へ行って仲間との会話の中で今日が土曜日だって知った

自分の頭の中では今日が金曜、明日が土曜だった

だから銀行関係は今日済ませば良いと思っていたが、たいしたことで無いが失敗してしまった

だが今なお、今日が17日なんだろうかという疑念が少しある

こうした日にちと曜日のズレがおこるのは喜ばしい状態では無い

 

3日ほど前に、市の広報があって77歳の男性が行方不明とのこと、詳しく聞いたら

不明男性は、「ゴルフ」カテゴリーの4月18日に書いたプライベートコンペ(11名)の

冠になっている大先輩だった。

数年前から認知症が入ってきているが外すことができない大御所、現役時代は

いくつかの会社の会長を兼務していた才人だ

こうした立派な人でも認知症から逃れることができない、そういえば私と関係が深い寿司屋の親父も

若年性の認知症で施設療養中、まだ60過ぎたばかりだ、苦労人で一代で財をなした男

できる人ほど認知になりやすいとか、父はそう言って「おまえはそういう意味で心配ない」と言った

同級生の女子は毎年一緒に旅行に行っていたのだけど、何回目からか少し様子がおかしくなって

その後治療に入ったという話を聞いた、それから急激に悪化して同級生のこともわからなくなった

50代だった、これも若年性アルツハイマーで韓国映画のソンイェジン主演の「私の頭の中の消しゴム」

と同じ症状だ。

私は忘れっぽいのか、アルツハイマー系なのか、この頃は自分の健康状態に少しずつ???がつきだした

60過ぎるとがったり来るよとか70過ぎると急激に衰えるよなどと先輩から聞いてきたが、たしかに

体は気持ちに比例していない様だ

 


イタリア.イタリアン

2017年06月16日 16時42分05秒 | ライフスタイル

ヨーロッパの国々で若いときから親しみを持ったのはイタリア

中学生の頃からカンツォーネの曲が耳に入る様になった

ジリオラ.チンクエッティやボビーソロ、ウィルマ.ゴイックなどのヒット曲が

たまらなく好き

今でもボビーソロの「頬にかかる涙」はスナックで酔うと歌ってしまう

そもそもローマ字と言うくらいで、あいうえお風の発音がしやすいので

英語やフランス語、中国語やドイツ語なんかより親しみやすい

いつかイタリアへ行って、イタリア語でイタリア人と話すのが夢だった

けれどイタリアの現状を聞くにつれ興味は薄れてきた

団体旅行でイタリアへ行ったら、列から5m離れればどうだとか物騒な話しばかり

団体旅行でしか行くことはできないだろうから、ちょっとパスかな

それよりスパゲティって好きじゃ無かったんだけど、このごろやたら食べたくなることがある

特にスープスパゲッティというのを知ってから好きになったみたい

スパゲッティなんてうんちくも本物も知らないので偉そうなことは言えないが

我々の周辺でスパゲッティと言ってる食べ物を今、語っているのです

 

修業時代、えびフライというと、付け合わせはキャベツとハムとトマトとナポリタン

ジャガイモサラダ、一度に100人前とか200人前とか作るので、大鍋で乾麺を茹でてざるにあけ

フライパンで炒める、そこにケチャップを混ぜ込んで出来上がりという荒っぽいスパゲッティ

付け合わせだから何とかだが、覚めたのを皿一人前食べられるような代物では無い

これでスパゲッティが嫌いになったのかも

今はキノコのスパゲッティや、たらこスパゲティが好きだ

マカロニとスパゲティは別物と思っていたら、すべてパスタでパスタの中のスパゲティ種

なんだとか、そうなんですか?

私はスパゲティは、うどんやラーメンの仲間だと思ってましたから

 

イタリアか・・・・・地中海の季候、地中海の風を体験したい

ベニス、ナポリも見てみたい

心は揺れている

陽気なイタリア人か・・・・・女性を見ると反射的に声をかけるというイタリア人だって

前の戦争の時のイタリア見てるとイタリア人が理解できる

 

銀座のイタリアレストランでいただいたコースメニューの一部  *友達が撮った写真を拝借

 

 

 

 

 

 

 


老いた母に大問題発生

2017年06月14日 08時33分47秒 | 老人介護

1ヶ月ぶりに病院にいる母のところに行ってきた

というよりか、担当医師とこれからの対処を話し合うためなのだ

もう母の認知は限界を超えて食事がほとんどとれず、介護施設では無理になって病院生活

になったのだが、田舎の我が町ではそんな対処できる病院が無く、50km先の町にいる

医師との話が終わり、母の病室に行った、6人部屋で母は寝ていた

あきらかに30kgを切った体はやせ衰えて、手は骨と皮とわずかな筋肉

手をさすっていたが皮膚が弱くなっている、それで頭をそっとなで続けた

いっこうに母の目は開かない、だけど頭がだんだん起き上がってくる

ほとんど垂直になったところで、これはきついんじゃないかと思って手を離した

 

こうして衰えた垂乳根の母の姿

不思議にも元気で仕事をしていた母の姿の後は、老いた母の姿に直結していて中間が無い

中間が私の記憶から消えている

きっと障碍と一緒に生まれてきた息子に追われていた20年間、その間の母の姿が消えている

父とは別々の会社で働いていても、つかず離れずだったからその間の姿はある

 

母の一番の問題点は自力で飲食ができなくなったことだ

今は毎日点滴で栄養と水分をとっている、やせ衰えた腕には点滴のあざがいくつもある

それでも医者が言うには、「一日おにぎり2ヶ分の栄養しか獲れないのです」

それで、生きるために必要な栄養をとるには胃瘻の手術をするか、鼻から胃に管を通して

栄養を送り込むの2つの方法・・・だそうだ

どうせなら家に連れて帰ろうかかとも思っていた、自分がおかゆを煮てゆっくり食べさせれば

良いと思った、そのための部屋も準備した

だが現実を見たら、それは無理だった、自分で飲み込む力、咬む力が無い

無理をすれば誤飲で肺炎を引き起こす恐れ、素人が出来ることではない

 

母が望むのはなんなのだろうか?  何も語らない今 会話が成立しない今

長男である自分が判断するしか無い

誰しも「生きたい」のであって「逝きたい」と思うのは少数だろう

だが動けず、何一つ楽しみが無い寝ているだけの母はどちらを望むのか

「逝きたい」という差し迫った姿や表情は見えない、夢の中に楽しさを見ているかもしれない

だが生きるためには、苦しい手術が待っている、やせ衰えた92歳の体が絶えられるか

手術後の生活にも耐えられるか

こんなところまで来て、母を痛めつけることはできない

近年は子供に帰り、過敏症で採血のゴムを巻いただけでパニックになって泣きわめく母

母にはいつも安らぎの中で生きていてほしい