以前、「下河原線を走った101系・・・半世紀前の歴史をたどる」と題した投稿の中で、下河原線の営業最終日に走った5両編成の列車の中にクモハ100+クモハ101とみられるユニットが含まれていたことをご紹介しました。
より正確に申し上げるならば、Mc+M'cのユニットではなく、M+M'cの「M」すなわちモハ101をクモハ101に差し替えたものではないかというニュアンスの文章を書いていました。当該の編成は次の写真です。国分寺駅へ戻ってゆく列車を後追いで撮影されたものです。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)
これについて読者の方より、「クモハ100+クモハ101は『クモハ100-1+クモハ101-1』ではないかと思います。」との情報をいただきました。ご教示いただいたzyusai様ありがとうございます。101系のユニットに関する子細な考証から導き出されたとのことで、「量産車第1陣で中央線初期の組み換えの嵐をくぐり抜け最期まで離れずにいた、のではないかと思っております。」とのコメントに、この頃まで2連ユニットが残っていたのか!と驚きました。全文はこのリンク先にある記事のコメント欄をご参照ください。
検証のため引用元の写真の車番部分を拡大してみました。最後尾のクモハ100です。画質が荒いですがハイフンの後は確実に一桁で、ほぼ「1」と読んで間違いないようです。残念ながら2両目のクモハ101は角度の関係で読み取れませんが、クモハ100-1+クモハ101-1のトップナンバーどうしのユニットであった可能性はかなり高いといえます。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」より部分拡大)
ところでこのトプナン・ユニットですが、どうして後年まで生き残ったのでしょうか。ふつう考えられるのは基本または付属編成のユニットが定期検査に入る時に代わって組み込まれるものですが、ユニットの分解で検査時期が揃っていないユニットも多かったでしょうし、「付属編成がTc+Mc+M'Cだった!!」などという目撃談も聞かないので、代打で組み込まれる時は離れ離れになっていたのかも知れません。
あるいは、ふだんから下河原線の運用に優先的に入っていたのかも知れません。前回の記事に書いたように停止位置目標に「2」は無いので2連単独ではなく、例えば付属の3連と組み合わせた5連がデフォルトだった、とか。
競馬開催時の東京駅からの直通7連は、「下河原23」編成(ストレート5連)とこのトプナン・ユニットを連結した7連で運転されたこともある・・・などという話がもしあったとしたらタイムマシンを買ってでも見に行きたいと思います。笑
また話が脱線してしまいましたが、下河原線の最終日はモールで奇麗に飾られたクモハ40の陰で、101系の栄光のトップナンバー・ユニットもささやかな華を添えていた可能性が高いことが分かりました。貴重な情報をお届けいただいたzyusai様に改めて御礼申し上げます。
ということで、「まあ中間にクモハを入れない普通の5連でもいいかな、、」と安易な方向に傾きかけていた心に喝!を入れ、既に仕入れてあるホビーモデルのキットのうち2両をクモハ100-1+クモハ101-1として組み、残りの3両は番号が不明ながら、変則5両スタイルの最終日編成を目指したいと思います。
より正確に申し上げるならば、Mc+M'cのユニットではなく、M+M'cの「M」すなわちモハ101をクモハ101に差し替えたものではないかというニュアンスの文章を書いていました。当該の編成は次の写真です。国分寺駅へ戻ってゆく列車を後追いで撮影されたものです。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」)
これについて読者の方より、「クモハ100+クモハ101は『クモハ100-1+クモハ101-1』ではないかと思います。」との情報をいただきました。ご教示いただいたzyusai様ありがとうございます。101系のユニットに関する子細な考証から導き出されたとのことで、「量産車第1陣で中央線初期の組み換えの嵐をくぐり抜け最期まで離れずにいた、のではないかと思っております。」とのコメントに、この頃まで2連ユニットが残っていたのか!と驚きました。全文はこのリンク先にある記事のコメント欄をご参照ください。
検証のため引用元の写真の車番部分を拡大してみました。最後尾のクモハ100です。画質が荒いですがハイフンの後は確実に一桁で、ほぼ「1」と読んで間違いないようです。残念ながら2両目のクモハ101は角度の関係で読み取れませんが、クモハ100-1+クモハ101-1のトップナンバーどうしのユニットであった可能性はかなり高いといえます。
(出典:-70年代の追憶- 鉄道ファンだった頃「在りし日の下河原線」より部分拡大)
ところでこのトプナン・ユニットですが、どうして後年まで生き残ったのでしょうか。ふつう考えられるのは基本または付属編成のユニットが定期検査に入る時に代わって組み込まれるものですが、ユニットの分解で検査時期が揃っていないユニットも多かったでしょうし、「付属編成がTc+Mc+M'Cだった!!」などという目撃談も聞かないので、代打で組み込まれる時は離れ離れになっていたのかも知れません。
あるいは、ふだんから下河原線の運用に優先的に入っていたのかも知れません。前回の記事に書いたように停止位置目標に「2」は無いので2連単独ではなく、例えば付属の3連と組み合わせた5連がデフォルトだった、とか。
競馬開催時の東京駅からの直通7連は、「下河原23」編成(ストレート5連)とこのトプナン・ユニットを連結した7連で運転されたこともある・・・などという話がもしあったとしたらタイムマシンを買ってでも見に行きたいと思います。笑
また話が脱線してしまいましたが、下河原線の最終日はモールで奇麗に飾られたクモハ40の陰で、101系の栄光のトップナンバー・ユニットもささやかな華を添えていた可能性が高いことが分かりました。貴重な情報をお届けいただいたzyusai様に改めて御礼申し上げます。
ということで、「まあ中間にクモハを入れない普通の5連でもいいかな、、」と安易な方向に傾きかけていた心に喝!を入れ、既に仕入れてあるホビーモデルのキットのうち2両をクモハ100-1+クモハ101-1として組み、残りの3両は番号が不明ながら、変則5両スタイルの最終日編成を目指したいと思います。
私が調べた限りはクモハ101-1+クモハ100-1のユニット構成は、モハ90としての落成時には存在していないです。
ただ、当時の組成はサハが入り始めた段階で訳分からず状態なので、どういう組成になってもおかしくは無いと思います。
資料は
https://tetsu100percent.blog.ss-blog.jp/2016-09-04-2
です。
落成当初は8連の両端に組成されていて、どこかの段階で背中合わせになったのではないか・・・ということですね。
編成単位の概念がまだ薄かった当時としては、ユニットとは「組み合わせれば走る」以上のものではなかったのかも知れません。そのような中で1番どうしのペアを敢えて残したのだとすれば、国鉄というか武蔵小金井区の気概、美学のようなものも感じられます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
クモハ101-1+クモハ100-1 1982.6.21ムコにて同日廃車となってますので多分ユニットを組んでいたのではないかと。
また、1973.1.29撮影の東京競馬場前に停車しているクモハ100-1の写真が掲載されてます(何連かは不明)
以上、鉄ピク874(2013.4)「特集101系電車」より
・・でした^^
蛇足ということはないですよ。当該ユニットがわりと定常的に下河原線に入っていた可能性を示す写真かも知れません。
調べたら1973年1月29日は月曜日でした。競馬もなかったようなので通勤対応の5連かも知れませんね。
ウチにある鉄ピクの101系特集は2002年のNo.724なので新たな情報助かります。