アドラー心理学に基づく勇気づけの研修(外部研修も)とカウンセリング、コンサルティングを行っています。
アドラー心理学による勇気づけ一筋40年 「勇気の伝道師」   ヒューマン・ギルド岩井俊憲の公式ブログ



おはようございます。ヒューマン・ギルドの岩井俊憲です。

「人間アドラー」を巡ってのクイズに対する第5回目の解答です。

クイズの問題は、下記のとおりでした。


5.アドラーは、フロイトの陣営で最後は⒜国際精神分析学協会 ⒝ウィーン精神分析学協会の会長を務めた。


答えは、⒝ウィーン精神分析学協会です。


国際精神分析学協会の初代会長は、カール・グスタフ・ユングです。


ここであえてジークムント・フロイトのこと(1856-1939)を書きます(この部分は、小此木啓吾著『フロイト』講談社学術文庫を参照)。

フロイトは、依存的と言っていいほど人に惚れ込む性癖があり、第1は、ブリュッケ研究室で知り合ったブロイアー(当時のウィーンで高名な開業医)。
フロイトは、彼と特別に親しくなり、かなりの期間、金銭の借財や贈与を受けただけでなく、ヒステリー患者O・アンナに対する催眠を使った治療情報を受けました。

第2の惚れ込みは、親友フリース(フロイトより2歳年下の耳鼻科医)との交流に見られ、フロイトは、フリースに1887年から1900年の間に284通もの手紙を残しています。1年当たり換算すると、約220通。3日に2通近くになります。
また、慢性の副鼻腔炎の手術を受けただけでなく、フロイトの言うノイローゼの治療なども受けています。

第3の惚れ込みは、カール・グスタフ・ユングに対して。
ユングは、1904年、チューリッヒ大学の精神科教授のブロイラーの助手を務めていて、彼らがフロイトの「ドーラ分析」と呼ばれる症例に注目したのがキッカケで、フロイトとユングは、1906年に出会い、以来親密な文通を続け、俊才ユングに魅了されたフロイトは、ユングを「跡継ぎ息子」とまで呼び、1909年、フェレンツィを交えて渡米します。
3人は、ジョージ・ワシントン号の船中でお互いの夢を分析し合うようなこともします。
そればかりではありません。ユングに肩入れしていたフロイトは、第1回の国際精神分析大会をユングの主催下で1908年4月26日にザルツブルグのホテル・プリンストルで開きます。フロイト52歳、ユング33歳(アドラーは38歳)の時でした。
さらに1910年、国際精神分析学協会が設立されると、会長にはフロイトの後押しでユングが就任します。

以下は、『初めてのアドラー心理学』をもとにします。

フロイトのユングへの度を外れた肩入れにウィーンのグループは不満を持ち、国際会議も険悪になります。そこでフロイトは、ウィーン派の代表格アドラーをウィーン精神分析学協会の会長に譲ります。
言わば、フロイトが国際派とウィーン派との棲み分けを図った結果の措置だったのです。


長い長いアドラーのウィーン精神分析学協会会長就任物語でした。

写真は、すぐ下の左がフロイト、右がユング

 

 

(注)問題を見るには、5月22日の「アドラーを読もう(16)アドラー・クイズに答えよう①」(http://blog.goo.ne.jp/iwai-humanguild/d/20080522)をご覧ください。



コメント ( 2 ) | Trackback ( )