7時少し前に下に降りて行ったら・・朝食は8時と聞いておりますが・・えっ、そうだっけ。
「あれだったら急がせますが」「いや、8時で良い」
腹減ったな・・朝飯は全部食べることが出来たぞ・・何ぼか調子を取り戻したかな。
支払いを済ませて自転車をキャリアに固定して帰り支度である。寄り道せんで帰ろうかな。
7時少し前に下に降りて行ったら・・朝食は8時と聞いておりますが・・えっ、そうだっけ。
「あれだったら急がせますが」「いや、8時で良い」
腹減ったな・・朝飯は全部食べることが出来たぞ・・何ぼか調子を取り戻したかな。
支払いを済ませて自転車をキャリアに固定して帰り支度である。寄り道せんで帰ろうかな。
なんか話をしてるんだろうが・・ドリトル先生なら判ったかな。
左はどうも子供のようだがな。「食べながらしゃべるんじゃない」と親が躾しているのかな。最近の人間も見習わなければいかんぞ。
この写真は筑後川流域古墳公開時のものである。御覧になってお判りの様に長持形石棺である。然も棺の内側は朱が塗られていると言う。辰砂を手に入れることが出来る人物であり、副葬された武具、馬具、装飾品などは半島系のものが殆どであり、三重の周濠を持った前方後円墳を築造することが出来るなど、大和との繋がりは勿論のこと、百済との繋がりも強かったであろう。それがゆえ大和が頼りにしたものだと思える。当該古墳の埋葬者は倭の五王の讃、珍に仕えたであろう。彼の全盛期だったに違いない。大和も彼を足掛かりにして半島との繋がりを強固なものにすることが出来たであろう。大和が日本を掌握していく力を蓄えたのも心だろうからな。彼はそのことに相当な貢献をしてるものと思う。
そう言えば、あの古市古墳群中にあって初期の段階に築造された(4世紀末)津堂城山古墳(後円部が陵墓参考地になっている)の埋葬施設のことだが、竪穴式石室で、長持形石棺が納められているのは既にご存知ではあろうが・・
長持形石棺は・・そう、王者の棺と言われているからな。それが月岡古墳の埋葬施設で、たかだか全長80m級ではあるがこれらのことを鑑みれば国王の墓であることはもう間違いない。