まだ近江八幡が続くのか。そう思っている方は多いであろう。そうその通り。
構えはそんなに立派だとは思えないのだが、どっしりと落ち着いた構えである。
派手さは無い。金に飽かしていかにもと言う造りではない。慎ましやかな構えではあるのだが、木が、造り自体が、込んでいるのである。唸らさせられること請け合いである。しかし残念なことに洒落が無い。その様な時代ではなかったのかもしれないが。この近辺には西川姓が多い。それもそのはず、かの有名な寝具店ふとんの西川本宅があったからである。
構えはそんなに立派だとは思えないのだが、どっしりと落ち着いた構えである。
派手さは無い。金に飽かしていかにもと言う造りではない。慎ましやかな構えではあるのだが、木が、造り自体が、込んでいるのである。唸らさせられること請け合いである。しかし残念なことに洒落が無い。その様な時代ではなかったのかもしれないが。この近辺には西川姓が多い。それもそのはず、かの有名な寝具店ふとんの西川本宅があったからである。
八幡堀に架かる橋に立つ。正面は日牟禮八幡宮(ひむれ)左手は堀に沿ってごつごつとした石畳が100メートルも続くだろうか。そして右手には堀に降りる石段がある。ご存知のように堀に降りると時代劇さながらの場面である。この時ばかりはここが江戸になるのだなと思う。それほどにこの風景は江戸時代なのだ。
ごつごつとした石畳を久しぶりに歩く。歩きにくいのは五年前と変わりはしない。更に進んで自転車でやって来た場所に着いた。ここで一休み。当時の元気なさまを母に説明をした。母も以前弟に連れてこられた記憶があり、当時元気だった弟を偲んでいるかのようであった。気を取り直して近江八幡を二人で垣間見ることにした。ここを歩いてみたが、何故かほっとした気分にならん。以前阿武郡を歩いたときは心が安らぐのを感じたのであるが、そうでもない。何か違和感がある。
それは人が多すぎ(これは如何ともし難い)るし、とんでもないことに車が我が物顔で駆け抜けていくからだ。危なくて仕様が無い。街並みに沿って堂々と真ん中を歩けないのだ。これではせっかくの街並みもだいなしである。ちょっと路地に入ればいいのではあるが、訪れる人々は大抵が歩いているのだから何らかの規制が欲しい。そう思いつつも母を引き連れ小一時間も歩いたか。母も限界である。(写真:五年前休んだ場所 紅葉が始まっている 当時は晩春)
ごつごつとした石畳を久しぶりに歩く。歩きにくいのは五年前と変わりはしない。更に進んで自転車でやって来た場所に着いた。ここで一休み。当時の元気なさまを母に説明をした。母も以前弟に連れてこられた記憶があり、当時元気だった弟を偲んでいるかのようであった。気を取り直して近江八幡を二人で垣間見ることにした。ここを歩いてみたが、何故かほっとした気分にならん。以前阿武郡を歩いたときは心が安らぐのを感じたのであるが、そうでもない。何か違和感がある。
それは人が多すぎ(これは如何ともし難い)るし、とんでもないことに車が我が物顔で駆け抜けていくからだ。危なくて仕様が無い。街並みに沿って堂々と真ん中を歩けないのだ。これではせっかくの街並みもだいなしである。ちょっと路地に入ればいいのではあるが、訪れる人々は大抵が歩いているのだから何らかの規制が欲しい。そう思いつつも母を引き連れ小一時間も歩いたか。母も限界である。(写真:五年前休んだ場所 紅葉が始まっている 当時は晩春)
滋賀県と言えば、かの時代にあっては何を思い出すのであろうか。
有名と言うよりは、まず思い浮かぶのは安土の人、そう織田信長であろう。近江の原形はこの人が作ったと言っても過言ではなかろう。本来は豊臣秀次ではあるのだが。商人がそこに住み、長年をかけて築きあげた町である。経済好きな徳川家康もここを天領としている。そして今では住民の皆さんがこれから先も引き続き街並みを保存していくことになる。おかげでその姿を我々は目の当たりにすることができるのである。
バスは目的地に着いた。運転手は、こう行けばいいですよと降りる間際に教えてくれた。知ってはいたが礼を言って降りた。丁度日牟禮八幡宮の入口に降り立つのである。五年半ぶりで、そのときと少し違うのは堀を遊覧船が巡っているだけである。時代劇のロケ地によくなるが、いつまでも残しておきたい風景である。
有名と言うよりは、まず思い浮かぶのは安土の人、そう織田信長であろう。近江の原形はこの人が作ったと言っても過言ではなかろう。本来は豊臣秀次ではあるのだが。商人がそこに住み、長年をかけて築きあげた町である。経済好きな徳川家康もここを天領としている。そして今では住民の皆さんがこれから先も引き続き街並みを保存していくことになる。おかげでその姿を我々は目の当たりにすることができるのである。
バスは目的地に着いた。運転手は、こう行けばいいですよと降りる間際に教えてくれた。知ってはいたが礼を言って降りた。丁度日牟禮八幡宮の入口に降り立つのである。五年半ぶりで、そのときと少し違うのは堀を遊覧船が巡っているだけである。時代劇のロケ地によくなるが、いつまでも残しておきたい風景である。
近江八幡駅に母と立っている。弟の顔を見るため、母の不安を解消するため滋賀県に来たのである。本来であれば、まだ手前の守山駅に降り立たねばならないのであるが、少し余裕の時間があるのでここまで来た。五年前に自転車で訪れた。そこを訪ねに再訪したのである。駅の正面に立つと、はるか向うにこんもりとした山が見える。そこが目的地である。歩いて行くつもりで300メートルくらいも歩いたか。先は長い。これでは母の足に負担をかけすぎる。母も無理だと言うので、母の足のことを考えるとそうもゆかず、車を探すもタクシーなど一台も見ない。流してないのか。結局駅に戻ることにし、タクシーに乗ろうとしたが、右にバスが待機してあったので、八幡掘に行くかと訪ねると横着そうに返事をした。むっとしたが母もいることだしこらえてバスに乗り込んだ。
地割神楽が始まった。白装束に襷掛け、右手には小刀である。古式神道に由来するもではなく、陰陽道の影響を受けた神楽である。小刀を振り回し、振り回しては地面を切っていくかのようであるし、空(くう)をきる仕草もある。地割と言うからにはその意味があるのであろう。四節四土用の始まりを伝えると言うことから一年を区切りるのである。総てが意味のある舞であることには違いはない。
神楽を舞う手もなく何処かから舞い手を頼むのであろう。既に地元には舞い手はいないのであろう。伝統を引き継ぐことも大変だ。それでも無形文化財に指定されている。近隣の小学生や中学生に引き継ぐことが出来ればまだまだ華やかになるのだろうが。
神楽を舞う手もなく何処かから舞い手を頼むのであろう。既に地元には舞い手はいないのであろう。伝統を引き継ぐことも大変だ。それでも無形文化財に指定されている。近隣の小学生や中学生に引き継ぐことが出来ればまだまだ華やかになるのだろうが。
次の演目が始まった。折居神楽と言う。四人舞で原色の着物を着ている。東西南北を現し、宮廷で舞われていた御神楽に由来するそうだ。一人ずつが交互に同じ舞を舞う。仕草は掃き清めているように見える。それもそのはずで神を招くための舞である。
相撲でもご覧になられたことがあると思うが赤房、白房などといって四方を現している。また、青龍、白虎、朱雀、などと聞かれたことがあると思う。
相撲でもご覧になられたことがあると思うが赤房、白房などといって四方を現している。また、青龍、白虎、朱雀、などと聞かれたことがあると思う。
順序が逆になるが神楽開催お知らせポスターを見ていただこう。小学生が作成した版画をポスターにしている。これに目を惹かれたのである。なかなかの出来で、恐らく須佐之男命か手力男命ではないかと思っている。神楽といえばご存知のように高千穂の岩戸神楽、出雲大社の出雲神楽であろうが、この地にも綿々として引き継がれている。10月は出雲以外は神無月、11月になって各地にその地の神が戻ってこられるので11月に舞われるのかなと思ったりもする。のんびりとして気持ちがいい。ポスターに引かれてお神楽参りとなった。ではそのポスターを見ていただこう。
目の前で散米神楽が舞われている。五穀豊穣を願い、収穫に感謝する舞である。観客は五十人ほどであろうか。年配の方が多いのは如何ともしがたいのであろう。 正面に向かって左に白装束を着たお囃子が三人が座って、其々が太鼓、じゃんがら、笛を受け持っている。
舞の所作にはメリハリは無いのだが、のんびりと時間が流れていく様子が窺われて面白い。伝統とは言え、この舞が綿々として受け継がれてきたのかと思うと、舞のわりには凄みを感じざるを得ない。(写真:散米神楽 舞手は赤の装束である)
舞の所作にはメリハリは無いのだが、のんびりと時間が流れていく様子が窺われて面白い。伝統とは言え、この舞が綿々として受け継がれてきたのかと思うと、舞のわりには凄みを感じざるを得ない。(写真:散米神楽 舞手は赤の装束である)