なだらかな後円部の裾から浅く幅の広い周溝と周堤が確認出来る。
近寄れない古墳である。周囲を住宅に取り囲まれているからだ。名は体を表わすというがこの古墳は残念ながらそうではない。
封土は既になく石材が露出しているのみである。その名がつけられたころは素晴しい古墳だったに違いない。
6世紀初めに周堤までの長さを考慮すると100m超になる。その後庄屋塚(90m)、6世紀末には黒添夫婦塚(40m)徳永丸山(40m)橘塚(方墳40m)7世紀初頭綾塚(30m×38m 楕円形 本来は円墳なんだろうが)。
こうしてみるとこの地域は八雷、庄屋塚などは大和政権の息がかかるようだが、それをピークとして7世紀半ばが来る前にはもう地域の個性が出てくるのではないかとおもわれる。