コンラート・ローレンツ 日高敏隆・久保和彦訳 1970年(1985年新装) みすず書房
副題は、「悪の自然誌」。きのうの「森林がサルを生んだ」の副題「原罪の自然誌」は、これへのオマージュ。
持ってるのは1994年の新装第9刷、学生のころ図書館で(当時ちょっと高かったんだ、この本)借りて読んだ記憶があるけど、後年また読みたくなって買ったのかな。
というか、最初読んだときは、面白さがいまひとつ分かんなかったし、なんか読むのに骨が折れた。いま思うと、もとがドイツ語で書かれた科学の本なんで、パラグラフとかのつくりがガッチリしてて、一方で私は当時すでに、だいぶスカスカした感じのものを読むことを好むようになってからぢゃないかという気がする。
村上龍いわく、>ローレンツに一番感動したのは『攻撃』。何回読んでも泣きそうになってくるんだよね。結局人間というのは動物だなと思うわけでしょう。今、書かれている小説の九五パーセントぐらいはそれを認識したら書かなくてすむようなことと思うよ。(EV.Cafe Stage0)
ということですが、このフレーズが、私が「攻撃」を手にとった直接の誘因だと思います。
で、タイトルにもなっている攻撃というのは、主に種内攻撃のことです。
冒頭、色鮮やかな熱帯魚の観察が記されていますが、同じ種類のサカナ同士が攻撃しあい、違う種類のあいだでの闘いは基本的に起きない。もしかすると、普通のひとは、違う種類の生き物同士が争って、勝ったほうが繁栄して負けたほうは滅びていく、みたいな自然界の法則を幻想するかもしれませんが、そうぢゃなくて、同種同士が攻撃しあうことで、空間内にその種が均一に分布するような働きがあるってこととかが述べられてます。
種の内部のもの同士の攻撃は、べつに悪いことぢゃなくて、種を保つための仕組みです。
>すべての系統樹を育ててきた突然変異と淘汰というふたりの大園芸家は、まさに種内攻撃という荒っぽい技を選んで、これに個人的友情と愛の花を咲かせているのだということだ。(第三章 悪の役割) とかサラッとかっこいい表現が出てくるのがいいですね。

最初のうちのサカナの話とかよりも、第五章「習慣、儀式、魔法」ぐらいから、ぐっと面白くなってくる。
ムダな攻撃しあいのないように、ある動作が攻撃を回避するための象徴的な「儀式」として発達するというところが、生物にプログラミングされているものなのか、考えさせられて、すごくいい。
あと第十章の「ネズミたち」のところが衝撃的ですね。
ネズミどおしのなわばり争いで、すごい咬みつきあいが行われ、ひと組のつがいが勝ち残る。
そのつがいから、短期間のうちに、子孫が増え、社会ができあがると、その大家族のなかでは本気の闘争は起こらない。しかし、よそものネズミが迷い込むと、群れ全体が殺気立って、同じ種に属する仲間を攻撃する。
なんか人間見てるみたい。
それと、有名なシチメンチョウの話は、第七章「道徳類似の行動様式」にある。
シチメンチョウは、巣の近くで動くものには、なんでも突っつきかかるんだけど、ある一羽の雌の内耳を手術して、耳を聞こえなくしたら、卵からかえった自分の雛を即座に突っついて攻撃したという。
攻撃を抑制するのは、雛の鳴き声だけであって、特定の鳴き声しないものには攻撃をしかけちゃう。逆に、模型を近づけてもテープで音声をしかけてあれば、母親らしく接する。
“母性本能”なんてものは無いんだ、あるのは攻撃と、その抑制の仕組みだけ、って話。生き物の真理として、すごい。
副題は、「悪の自然誌」。きのうの「森林がサルを生んだ」の副題「原罪の自然誌」は、これへのオマージュ。
持ってるのは1994年の新装第9刷、学生のころ図書館で(当時ちょっと高かったんだ、この本)借りて読んだ記憶があるけど、後年また読みたくなって買ったのかな。
というか、最初読んだときは、面白さがいまひとつ分かんなかったし、なんか読むのに骨が折れた。いま思うと、もとがドイツ語で書かれた科学の本なんで、パラグラフとかのつくりがガッチリしてて、一方で私は当時すでに、だいぶスカスカした感じのものを読むことを好むようになってからぢゃないかという気がする。
村上龍いわく、>ローレンツに一番感動したのは『攻撃』。何回読んでも泣きそうになってくるんだよね。結局人間というのは動物だなと思うわけでしょう。今、書かれている小説の九五パーセントぐらいはそれを認識したら書かなくてすむようなことと思うよ。(EV.Cafe Stage0)
ということですが、このフレーズが、私が「攻撃」を手にとった直接の誘因だと思います。
で、タイトルにもなっている攻撃というのは、主に種内攻撃のことです。
冒頭、色鮮やかな熱帯魚の観察が記されていますが、同じ種類のサカナ同士が攻撃しあい、違う種類のあいだでの闘いは基本的に起きない。もしかすると、普通のひとは、違う種類の生き物同士が争って、勝ったほうが繁栄して負けたほうは滅びていく、みたいな自然界の法則を幻想するかもしれませんが、そうぢゃなくて、同種同士が攻撃しあうことで、空間内にその種が均一に分布するような働きがあるってこととかが述べられてます。
種の内部のもの同士の攻撃は、べつに悪いことぢゃなくて、種を保つための仕組みです。
>すべての系統樹を育ててきた突然変異と淘汰というふたりの大園芸家は、まさに種内攻撃という荒っぽい技を選んで、これに個人的友情と愛の花を咲かせているのだということだ。(第三章 悪の役割) とかサラッとかっこいい表現が出てくるのがいいですね。

最初のうちのサカナの話とかよりも、第五章「習慣、儀式、魔法」ぐらいから、ぐっと面白くなってくる。
ムダな攻撃しあいのないように、ある動作が攻撃を回避するための象徴的な「儀式」として発達するというところが、生物にプログラミングされているものなのか、考えさせられて、すごくいい。
あと第十章の「ネズミたち」のところが衝撃的ですね。
ネズミどおしのなわばり争いで、すごい咬みつきあいが行われ、ひと組のつがいが勝ち残る。
そのつがいから、短期間のうちに、子孫が増え、社会ができあがると、その大家族のなかでは本気の闘争は起こらない。しかし、よそものネズミが迷い込むと、群れ全体が殺気立って、同じ種に属する仲間を攻撃する。
なんか人間見てるみたい。
それと、有名なシチメンチョウの話は、第七章「道徳類似の行動様式」にある。
シチメンチョウは、巣の近くで動くものには、なんでも突っつきかかるんだけど、ある一羽の雌の内耳を手術して、耳を聞こえなくしたら、卵からかえった自分の雛を即座に突っついて攻撃したという。
攻撃を抑制するのは、雛の鳴き声だけであって、特定の鳴き声しないものには攻撃をしかけちゃう。逆に、模型を近づけてもテープで音声をしかけてあれば、母親らしく接する。
“母性本能”なんてものは無いんだ、あるのは攻撃と、その抑制の仕組みだけ、って話。生き物の真理として、すごい。