かねやんの亜細亜探訪

さすらうサラリーマンが、亜細亜のこと、ロックのこと、その他いろいろ書いてみたいと思ってますが、どうなることやら。

教科書問題

2006年06月01日 | Topics

最初に確認しておかなければいけないのは、私は、右翼でも左翼でもない”仲良く”派(仮面ライダーの藤岡氏のワーディングによる)だ。
今日は、教科書問題の第一人者である藤岡信勝氏の話を聞いた。
教科書問題については、中国、韓国が騒いでいる程度で(1年前大問題に発展した)、真の問題がどこにあるのかという議論は、マスコミで、あまりなされていないように思う。

冒頭、日本人の祖先の話があったが、我々の親は二人、じいちゃん、ばあちゃんは、四人という風に遡っていくと、鎌倉時代には、当時の人口である数百万人を上回る祖先がいることになるという話があった。ということは、その頃まで、遡ると、日本人は皆共通の祖先を持つ可能性が高まるということだ。ということは、日本の歴史=我々の歴史なのだ。

というわけで、面白いと思った話を2-3。

徳太子が、遣隋使を送った話は有名。最初の手紙で、自ら天子と名乗ったことに対し、隋の煬帝の反感をかったことはよく知られている。これは、東アジアで、唯一中国と対等の関係を持とうとした太子の意図的な手紙と考えられている。
そして2回目の手紙では、太子は天皇という言葉を使った。この天皇という言葉は、極めて巧みな言葉で、天子や、皇帝と名乗ると隋の反感を買い、王と名乗ると、邪馬台国の卑弥呼と同様、中国の属国に見られてしまう。天皇という言葉は、その中間にある造語で、その後の独特の日中関係の基礎となったという。その言葉は、今でも使われている。というわけで、近代においても、聖徳太子は、日本の歴史の中で、一番重要な人物と考えられてきた。

江戸時代の鎖国というワーディングは、後世につけられたもので、実態は決して鎖国ではなく、政治=宗教的に海外の征服欲に屈することなく、商業的な関係を維持し、西欧の知識を入手し続ける最適な方法だった(当時のキリスト教は、一神教的な色彩が今より強く、植民地政策にも利用されていた)。

明治維新は革命ではなく、武士が自ら集団自殺を遂げ、新たな日本を作り(刀を捨て、ちょんまげを切り、廃藩置県をやり=武士の特権を自ら捨て)、まさに武士道(Samurai Spirit)を日本国民全体のものとして根付かせた変革だった。西欧の革命は、階級の低い階層が、高い階層を倒し、政権を握ることをいい、明治維新のように自ら改革したのとは、根本的に異なる。

いろんな話があったが、要は、戦後の教科書が、階級闘争社会を強調し、それ故に日本はだめだったとする歴史観を教育してきたというところに行き着く。ディベートを聞いたわけではないので、その正否については何とも言えないが、言われてみると確かにそう思うところもある。洗脳というほどのレベルではないが、自然にそういう基礎的な考え方が身に染みてしまったということだろう。

最後の最後に、パラオの話が出た。パラオはご存知のように、もともとドイツに属していたが、第一次世界大戦後日本の統治領となり、第二次世界大戦後アメリカの統治下になった。1994年に独立したが、そのパラオの国旗は、一般公募により決まったが、日本の国旗をベースにしたものだ。中央の○が黄色い月を、背景は、青い海を表している。中心がちょっとずれているのは、日本に遠慮したものという。それだけ、親日感情が強い国だ。それは、それで、結構なことだが、それをあまり強調しすぎると、列強による植民地政策を肯定することになるので、要注意。
ちなみに、シンガポールは、イギリスを、よい支配者、日本を、悪い支配者と呼んでいる。
日本の近代史についての議論を重ねる必要がある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする