そして、出雲国一宮の熊野大社へ。
出雲大社の方が、有名なのだが、別格ということだろう。
この地域で、大社と名がつくのは、出雲と、熊野だけ。
風土記では、熊野が筆頭にある。
主祭神は、熊野大神。食料を司る神と考えられている。
風土記において、大神とされるは、熊野、杵築、佐太、野城(ぬき)の四神だけというから、この意味でも、すごい神様だった。
これだけ、多くの由緒ある神社がある出雲で、一宮ということは、とんでもない格式なのだろう。
意宇川。
国引きが終わったとき意宇(おう)とおっしゃたことから、この名がある。
八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)という風土記にしか登場しない、地方神の行ったことと考えられている。
いよいよ近づいてきた。
すばらしい注連縄。
拝殿も、流石、立派。
熊野の名は、くまくましき((隈隈しき)、つまり奥まったところの、野(ぬ)、つまり野原という意味から来ているのだという。
谷の奥まったところになる野原の意味ということだ。
今は、結構開けているが。
この鑽火殿は、出雲大社とのつながりを示す、不思議な建物。
新嘗祭は、かつて、熊野大社で行われていたが、戦国時代、毛利vs尼子の戦いで、燃えてしまい、新嘗祭は、神魂神社で行われるようになった。その後、明治に入り、出雲大社で行われるようになったという。
その後、大正天皇ご即位を機に、再び、熊野大社で行われることになった。
その際、この鑽火殿が造営されたのだという。
鑽火祭が毎年10/15に行われるが、これまた不思議な祭りで、出雲大社から、1mほどの神餅が供えられるのだが、これに必ず文句を言うのだという。この苦情を言い終わると、この鑽火殿から、火鑽臼と、火鑽杵が渡され、それが、出雲大社の11/23の古伝新嘗祭に使われる。
この摩訶不思議な神事、出雲と熊野の関係を、説明できる人はこの世にいない。
伊邪那美神社。明治時代に、合祀され、できた神社という。