ジェンダーの考え方からみた性差別の定義:
「性に基づく区別、排除又は制限であって、政治的、経済的、社会的、文化的、市民的その他のいかなる分野においても、女子(婚姻をしているかいないかを問わない。)が男女の平等を基礎として人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを害し又は無効にする効果又は目的を有するものをいう。」(「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」1979年国連の第1条)
「両性いずれかの劣等性若しくは優越性の観念又は男女の定型化された役割に基づく偏見及び慣習その他あらゆる慣行の撤廃を実現するため、男女の社会的及び文化的な行動様式を修正すること。」(同条約5条)
そのように久しく言われる中、司法の現場では、まだまだ、ジェンダーの考え方からかけ離れた性差別の意識が残っていることが否定できない事実があります。
そして、この司法の現場に性差別が残るということは、たいへん問題と言わざるを得ません。
なんといっても、国家がジェンダー秩序をどう見なすかとイコール関係でつながり、
誤った形で、ジェンダー秩序が形成・維持されることは、
直接的・間接的に、私たちに影響が及ぶことが考えられるからです。
司法の現場、特に、犯罪に対する裁判で、どのような判決が下されるかで、ジェンダーの考え方の一端が分かります。
昨日、ある判決を知ったのですが、ジェンダー・バイアスの残った日本の司法の状況に驚きを感じました。
その判決とは、強制わいせつ罪を争った東京地裁H6.12.16判決です。
この判決は、よくない意味での判決例として有名です。
強制わいせつ罪が争われた事案で、被害者は強姦、加害者は和姦を主張しました。
判決は、被害者女性の供述が信用性がないとして、加害者の和姦という主張をとりいれ、加害者を無罪としました。
(検察側は、上告せず、無罪が確定。)
その判決では、以下、問題点があると考えられます。(以下、解説書もご参照ください。)
1)被害者の人物像で、それもジェンダー・バイアスでその人物像を評価し、被害者の供述の信用性を判断。一方、加害者の方は、人物像を判断していない。
本来、供述の信用性は、客観的証拠との整合性、供述の内容の迫真性・合理性・一貫性などで判断すべきもの。
2)被害者適格要件なるものを持ち出し、どういう人を保護すべきで、どういう人は保護すべきでないか(落ち度のある被害者女性は保護しない)を、ジェンダー・バイアスのかかった評価の下、判決につなげている。
3)法廷に傍聴に来るひとは、被害者ではないと、ジェンダー・バイアスのかかった見方でステレオ・タイプに判断し、判決につなげている。
17年前であり、状況が改まっていることを祈るのみです。
ジェンダー・バイアスが未だに残っている場合は、なくしていかねばなりません。
司法がどう考えるかは、国がどう考えるかと同視しうるのですから。
*******解説書 抜粋******
強姦罪に関しては、被害者と加害者に一定の関係性がある場合、強姦ではなく、同意の上の性行為である、という主張がなされることが多い。その場合、本件のように、被害者の受傷しか客観的な証拠がなく、被害者・加害者の供述によってしか、犯罪の成立を証明できない場合には、それぞれの供述の信用性が問題となる。
本件は、被害者の供述の信用性を判断するにあたって、証言自体ではなく、証言を行った被害者に焦点を当てている。しかも、被害者の言動から、被害者が「慎重で貞操観念がある人物」であるかを判断しようとしている。
東京地裁が指摘するように、被害者はコンパニオン等の「一般人から見ればかなり派手な経歴の持ち主」であったり、告訴しようかと悩んでいた時期にアダルトビデオを借りたり、見たりした事実があったことや、初対面の被告人らと夜中の3時過ぎまで飲み、ゲームをしてセックスの話をしたり、野球拳で負けてパンストまで脱ぎ、同店を出るときに被告人の車に1人で乗ったという行動があったことで、「慎重で貞操観念がある人物」とはいえないかもしれない。けれども、だからといって、被害者の証言を、そのことを理由として信用性がないと判断することは、適切とは言えない。
このことは、被告人の証言の信用判断においては、被告人の過去の経歴は問題とされず、さらには、夜中に初対面の被害者らに声をかけ、夜中の3時過ぎまで飲んだり、野球拳をしたり、女性を車に乗せたことで「慎重で貞操観念がある人物」かどうかが問題とされていないことと対比すると、その問題性は明らかである。
本件では、被告人の強姦罪の成否が焦点化されるのではく、被害者が強姦罪の被害者として保護すべき存在かという被害者適格要件を問題としている。被害者がどのような女性であれ、暴行・脅迫による性行為は強姦罪を成立させるはずであるが、本件は、被害者に落ち度がないかどうか、「慎重で貞操観念」があるかどうかを問題とし、結局東京地裁が落ち度のない被害者や、確固たる貞操観念を有する女性のみを強姦罪の保護の対象としていることがうかがわれる。
被告人の「貞操観念」は問わない一方で、被害者の「貞操観念」のみを信用性判断の基準としている本件は、ジェンダー・バイアスに満ちた最判例であるといえよう。
被告人の場合には、黙秘権や自己免罪拒否特権があることを考えれば、被告人に関してこそ、信用性を判断するために個人に焦点化した情報を収集し、それを前提として信用性を判断すべきである。
本件が強姦罪を適用して保護すべきだと考えている被害者は、「強姦神話」に基づいた被害者であり、強姦罪が保護すべきは「貞操観念」を持つ女性の貞操である。この論理は、強姦罪の成立範囲を極めて限定するものであり、ここからは、成功同意義務をもつ夫婦間の強姦も、性的サービスを提供する性産業における強姦も成立しないという結論が導かれる可能性は高い。
さらに、ここでは、「強姦の被害者」に関するステレオ・タイプを読みとることができる。強姦の被害者は、被害後冷静に証拠を保存するために病院に行く一方で、ショックと恥ずかしさのあまり、法廷には傍聴に来ない。そこには、ショックと恥ずかしさのあまり、病院にすぐに行けない被害者や、冷静に自分に起きたことを裁判で見つめようとする被害者は存在しない。このような被害者像の一方的な押し付けが、強姦の被害のリアリティをねじまげ、犯罪成立による被害者の必要な保護から遠ざけるのである。
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