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西田幾多郎生誕150周年~西田幾多郎の哲学とは~

2021-01-10 19:32:51 | 西田幾多郎、哲学

 西田幾多郎氏、生誕150周年とのこと。

 この機に、その哲学に触れてみることにしました。

 その著書、『善の研究』は、ネットで見れるようです。⇒ https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/946.html
 読んでみましたが、実は、難解で、理解できませんでした。

 問題意識として、宗教への哲学的な理解がどうであるか知りたいところです。

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善の研究

西田幾多郎



 この書は余が多年、金沢なる第四高等学校において教鞭を執っていた間に書いたのである。初はこの書の中、特に実在に関する部分を精細に論述して、すぐにも世に出そうという考であったが、病と種々の事情とに妨げられてその志を果すことができなかった。かくして数年を過している中に、いくらか自分の思想も変り来り、従って余が志す所の容易に完成し難きを感ずるようになり、この書はこの書として一先ず世に出して見たいという考になったのである。
 この書は第二編第三編が先ず出来て、第一編第四編という順序に後から附加したものである。第一編は余の思想の根柢である純粋経験の性質を明(あきらか)にしたものであるが、初めて読む人はこれを略する方がよい。第二編は余の哲学的思想を述べたものでこの書の骨子というべきものである。第三編は前編の考を基礎として善を論じた積(つもり)であるが、またこれを独立の倫理学と見ても差支ないと思う。第四編は余が、かねて哲学の終結と考えている宗教について余の考を述べたものである。この編は余が病中の作で不完全の処も多いが、とにかくこれにて余がいおうと思うていることの終まで達したのである。この書を特に「善の研究」と名づけた訳は、哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結であると考えた故である。
 純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有(も)っていた考であった。初はマッハなどを読んで見たが、どうも満足はできなかった。そのうち、個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別より経験が根本的であるという考から独我論を脱することができ、また経験を能動的と考うることに由ってフィヒテ以後の超越哲学とも調和し得るかのように考え、遂にこの書の第二編を書いたのであるが、その不完全なることはいうまでもない。
 思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲(あざけ)らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已(や)むを得ぬことであろう。

明治四十四年一月 京都にて

西田幾多郎




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京大人文学教室

「西田幾多郎生誕150周年~西田幾多郎の哲学とは~」をテーマに、京大人文学教室を全4回シリーズで開催します。
「人間とは何か」という人類の最も根本的な問いに対して、研究が進められている京都大学の人文学。人文学シリーズの初回となる今回は、京都大学の人文学でも最も有名な研究の一つともいえる「京都学派の哲学」の中、西田幾多郎生誕150周年を記念して、「西田哲学」を取り上げます。有名な『善の研究』における「純粋経験」の哲学から後期の「絶対矛盾的自己同一」の思想まで、西田の哲学の変遷を4名の先生方の講義を通して振り返ります。

第1回人文学教室「西田幾多郎の『善の研究』とはどういう書物か」
2021年1月13日(水)
講師:藤田 正勝(京都大学名誉教授)
日本でもっともよく知られた哲学書は西田幾多郎の『善の研究』(1911年)です。それは日本の哲学が自立した歩みを始めたことを示す画期的な著作でした。そこで西田は、われわれはどのような世界観・人生観をもつべきなのかという問題をめぐって真剣に思索しました。それはわれわれに深い感銘を与えます。この書の特徴やそれが後世に与えた影響などについて、またそれは現在海外でも高く評価されていますが、その現代的意義などについて、皆さんと一緒に考えてみたいと思います。『善の研究』(岩波文庫版)に一度目を通されることをお勧めいたします(必須ではありません)。

第2回人文学教室「京大での西田幾多郎講義ノートを開く―全集別巻刊行までの軌跡―」
2021年1月29日(金)
講師:浅見 洋(石川県西田幾多郎記念哲学館館長)
2020年9月23日に刊行された西田幾多郎記念哲学館(代表:浅見洋)編『西田幾多郎全集 別巻』(岩波書店)には、西田幾多郎が京都帝国大学赴任(1910年)直後の講義のために記した「倫理学講義ノート」と「宗教学講義ノート」を収録しました。未公開の水損・汚損したノートを公開するプロセス、意義とともに、『善の研究』刊行(1911年)前後の西田の思索の展開、京大での講義風景を紹介したいと思います。

第3回人文学教室「自由と自然(おのづから)―親鸞と西田」
2021年2月16日(火)
講師:安部 浩(京都大学大学院人間・環境学研究科共生人間学専攻 教授)
人間の自由は自然と融合し、一体的である。そうした考え方の中に、日本人の「自由」概念の独自性があることを九鬼周造は指摘しました。本講義では、親鸞の思想、及び西田幾多郎の親鸞解釈に即して、この特異な自由観の内実を詳らかにしていきたいと思います。その解明を通して、京大時代以後の西田後期哲学の要所を照射することが、本講義の最終目標とするところです。


第4回人文学教室「西田哲学の場所―「極東」と「極西」が重なるところ」
2021年3月10日(水)
講師:杉村 靖彦(京都大学大学院文学研究科思想文化学専攻 教授)
西田哲学は、明治以来の西洋哲学の摂取の中で初めて登場した、日本独自の哲学と目されています。しかし、西田自身が追究したのは、決して「日本」哲学や「東洋」哲学ではなく、形容詞抜きの「哲学」であって、全てのものの「根柢」であるはずの「絶対無の場所」に立ち、「世界的世界」を眺め渡そうとするものでした。この西田哲学という営み自体は、一体どのような「場所」に位置づけられるのでしょうか。この講義では、「極東」と「極西」という地理的・歴史的概念を手引きとして、この問いに迫ってみようと思います。それによって、西田哲学がどこから来て、どこへ行こうとするものなのか、その「世界哲学のフォーラム」(J・W・ハイジック)における独自な位置と可能性を垣間見ることができるでしょう。

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