西田幾多郎氏生誕150年。
政策を創るにあたっても哲学的な柱を一本通すことも大切と考え、この機に勉強しています。
その学びのひとつの参考となる切り口が書かれている記事です。
******東京新聞*****************
あの人に迫る 浅見 洋 石川県西田幾多郎記念哲学館館長 非常時の今こそ深く遠く考える
2020.11.07 インタビュ 11頁 朝刊 (全3,452字)
日本最初の本格的な哲学書といわれる「善の研究」を著した哲学者の西田幾多郎(一八七〇~一九四五年)が、生誕百五十年を迎えた。ふるさとの石川県かほく市にある哲学専門の博物館「同県西田幾多郎記念哲学館」は、書籍の刊行などの記念事業に取り組んでいる。西田研究を続けている浅見洋館長(69)に、私たちがいま西田哲学にふれる意義を尋ねた。 (小佐野慧太)
西田幾多郎が生誕百五十年を迎えました。
西田に関係する本や評論が相次いで刊行されて、書店に並んでいますね。
西田幾多郎記念哲学館も九月に一冊の本を出しました。二〇一五年に発見された西田の直筆ノートを活字化し、岩波書店の「西田幾多郎全集」の別巻として刊行しました。西田が京都大の学生に向け、倫理学と宗教学の講義をするための下準備として書いたものです。
ノートが見つかった経緯は。
西田のご遺族が引っ越しをする際、自宅を整理していて見つかったそうです。ノート五十冊のほか、メモなど大量の紙資料が哲学館に寄託されました。水にぬれてページがくっつき、開くことすら難しかった。中もカビが生えていたり、インクがにじんだりして、なかなか読めません。寄託は大変うれしかった半面、「どうしたものかな」と頭を抱えました。
出版までの道のりは。
国内では古文書など和紙を修復する技術は高いのですが、洋紙についてはまだまだ。それでも、東日本大震災で水没した資料の修復を続けている奈良文化財研究所の協力で、ほとんどの資料を開いて見られるようになりました。哲学館を中心に内容を読み解き、五年がかりでようやく活字化できました。
ノートからはどんなことが分かる?
西田が「善の研究」の思想を、どう深めようとしていたかがうかがえます。
「善の研究」は、金沢の第四高等学校の教授だった三十代の頃までの思索をまとめたものです。森の中でふと湖を目にして見とれるような、主観と客観の区別がつかない「純粋経験」という概念を軸に、独自の哲学を展開しました。
一方で、このノートは京大に赴任したばかりの四十代前半に書かれました。その後、西田は四十七歳のときの著書「自覚に於(お)ける直観と反省」で、純粋経験を成立させる私たちの内なる働きとして「自覚」という概念を前面に打ち出しました。新発見のノートからは、西田の思想が「純粋経験」から「自覚」へと深まっていく跡をたどれます。
具体的には?
西田が「自覚」の概念に至るまでには、私たちの認識の在り方を合理的に解明しようとした新カント派の思想との対話がありました。「自覚に於ける直観と反省」で、「リッケルトなどの新カント学派を研究するに及んで、この派に対して何処(どこ)までも自己の立場を維持しようとした」と言っている通りです。
しかし、今回活字化した四十歳のときのノートには、リッケルトの名前は見られず、ベルグソンをはじめ、非合理的とも言える私たちの「生」の解明を目指した「生の哲学」の哲学者の名前が数多く見られます。西田は当初、ベルグソンらに「善の研究」の思想を発展させる可能性を見ていたのでしょう。対して、三年後に書かれた別のノートにはリッケルトの名前が見え、新カント派との対話が始まったことが分かります。
そのほか、ノートから読み取れることは?
西田が貪欲に欧米の最新の哲学を吸収していた姿が浮かびあがりました。
欧米では現在、日本とは比較にならないほど、著作権が切れた本のデジタルアーカイブ化が進んでいます。例えば西田のノートの中の欧文の記述をインターネットで検索すれば、どの本からの引用なのかがすぐに分かる。そうして調べてみると、研究者の私から見て驚くほど、膨大な量の本を彼が読んでいたことが分かりました。
このノートに基づく講義は、久松真一、西谷啓治、木村素衛といった「京都学派」を代表する思想家が受けています。彼らは、世界的に見て最先端の哲学を西田から学んでいたのです。
京都学派といえば戦争協力のイメージがあります。
確かに、京都学派には、西谷のように太平洋戦争を肯定的に意義づけ、戦後に公職追放を受けた人物もいます。一方でマルクス主義に近づき、治安維持法違反で逮捕され獄死した三木清、戸坂潤も西田に師事しました。右にせよ左にせよ、西田は当時のさまざまな思想が流れ出てくる源流だったと言えます。
西田自身は、戦争の賛成論者とも、反対論者とも単純に言えないというのが私の見方です。ただし、いま西田の本を開くと「国体」や「八紘一宇(はっこういちう)」といった戦前・戦中に特有な言葉が使われていますし、西田の哲学体系に現実社会を根底から批判する傾向が弱いのも確かです。西田哲学が戦争を押しとどめるような力を持たなかったという問題は、これからも深く考えていく意味があると思います。
西田哲学に興味を持ったきっかけは?
私は大学一年生のころ、語学を学ぶ目的で神学校の門をたたきました。死を超える世界があるという宣教師の話に引かれ、熱心なクリスチャンになりました。西田に近づいたきっかけも、その宗教観に興味を持ったからです。博士論文では、西田がキリスト教とどう対話したかを研究しました。
西田哲学は禅を中心に仏教からの影響も強く、死を深く見つめた哲学です。二〇三〇年代には団塊の世代が八十代前半に突入し、「多死社会」が到来すると言われていますが、西田哲学は私たち一人一人が死を見つめるヒントを与えてくれるはずです。
西田哲学はいまも古びていないのですね。
私は、「純粋経験」から「自覚」へと思索を深めた西田が、最後に到達した「場所の論理」という考えに引かれます。この考えについて、西田は著書「働くものから見るものへ」の中で、「有るものは何かに於いてある」と説明しています。
私たちは、周りの環境に限定(制限)されて生きています。さきほどの言葉を言い換えれば、「私たちはこの世界に於いてある」のです。例えば、新型コロナウイルスが流行してから、私たちの行為は限定され、日常でマスクを着けたり、三密を避けたりと、しなくてはいけないことや、してはいけないことが増えました。
しかし、西田は一方で、人間を「創造的世界の創造的要素」だと言っています。私たちは、この世界からさまざまな限定を受けているけれど、私たちの存在こそ、この世界を創造していく力なのだと言うのです。
なんだか勇気づけられます。
私は石川県立看護大の特任教授をしています。コロナ禍で看護師たちがこれまでのように患者に寄り添うことが難しくなっていますが、私は学生たちに「患者に寄り添う努力を続けてほしい」と話しています。私たちは、もがきながら未来をつくっていくのです。
西田は「非常時なればなるほど、我々は一面において落ちついて深く遠く考えねばならぬと思う」と語っています。コロナ禍という「非常時」だからこそ、よりいっそう哲学の価値は増すのだと思います。
あさみ・ひろし 1951年、石川県能登町生まれ。秋田大鉱山学部に進み、哲学・思想を学ぶため教育学部に転部。金沢大大学院文学研究科哲学専攻を修了後、石川工業高等専門学校に倫理・哲学担当教官として勤務するかたわら、筑波大で博士号を取得。2000年から石川県立看護大教授。論文「西田における生命論の宗教的背景とその展開」で比較思想学会研究奨励賞。16年、石川県西田幾多郎記念哲学館の館長に就任した。17年から同大名誉教授・特任教授。著書に、西田と仏教学者の鈴木大拙、哲学者の西谷啓治の思想を比較した「二人称の死-西田・大拙・西谷の思想をめぐって」、哲学者高橋ふみの評伝「おふみさんに続け! 女性哲学者のフロンティア」など。
あなたに伝えたい
私は学生たちに「患者に寄り添う努力を続けてほしい」と話しています。私たちは、もがきながら未来をつくっていくのです。
インタビューを終えて
「善の研究」以上に重要な西田の著述として、浅見洋館長は「場所的論理と宗教的世界観」を紹介してくれた。「場所の論理」の立場からつづった宗教論。西田の絶筆となった論文だ。
難解な箇所につまずきながらも読み通した。「人生の悲哀、(略)多くの人は深く此(こ)の事実を見詰めて居ない」という西田の言葉に、ハッとさせられた。
この論文の成立には、仏教学者の鈴木大拙の影響があったという。二人は第四高等学校の前身の第四高等中学校の同級生で、西田の死まで親交は続いた。
今年は大拙も生誕百五十年を迎える。コロナ禍の今、二人の本を家でじっくり読み比べてみるのも面白い。
政策を創るにあたっても哲学的な柱を一本通すことも大切と考え、この機に勉強しています。
その学びのひとつの参考となる切り口が書かれている記事です。
******東京新聞*****************
あの人に迫る 浅見 洋 石川県西田幾多郎記念哲学館館長 非常時の今こそ深く遠く考える
2020.11.07 インタビュ 11頁 朝刊 (全3,452字)
日本最初の本格的な哲学書といわれる「善の研究」を著した哲学者の西田幾多郎(一八七〇~一九四五年)が、生誕百五十年を迎えた。ふるさとの石川県かほく市にある哲学専門の博物館「同県西田幾多郎記念哲学館」は、書籍の刊行などの記念事業に取り組んでいる。西田研究を続けている浅見洋館長(69)に、私たちがいま西田哲学にふれる意義を尋ねた。 (小佐野慧太)
西田幾多郎が生誕百五十年を迎えました。
西田に関係する本や評論が相次いで刊行されて、書店に並んでいますね。
西田幾多郎記念哲学館も九月に一冊の本を出しました。二〇一五年に発見された西田の直筆ノートを活字化し、岩波書店の「西田幾多郎全集」の別巻として刊行しました。西田が京都大の学生に向け、倫理学と宗教学の講義をするための下準備として書いたものです。
ノートが見つかった経緯は。
西田のご遺族が引っ越しをする際、自宅を整理していて見つかったそうです。ノート五十冊のほか、メモなど大量の紙資料が哲学館に寄託されました。水にぬれてページがくっつき、開くことすら難しかった。中もカビが生えていたり、インクがにじんだりして、なかなか読めません。寄託は大変うれしかった半面、「どうしたものかな」と頭を抱えました。
出版までの道のりは。
国内では古文書など和紙を修復する技術は高いのですが、洋紙についてはまだまだ。それでも、東日本大震災で水没した資料の修復を続けている奈良文化財研究所の協力で、ほとんどの資料を開いて見られるようになりました。哲学館を中心に内容を読み解き、五年がかりでようやく活字化できました。
ノートからはどんなことが分かる?
西田が「善の研究」の思想を、どう深めようとしていたかがうかがえます。
「善の研究」は、金沢の第四高等学校の教授だった三十代の頃までの思索をまとめたものです。森の中でふと湖を目にして見とれるような、主観と客観の区別がつかない「純粋経験」という概念を軸に、独自の哲学を展開しました。
一方で、このノートは京大に赴任したばかりの四十代前半に書かれました。その後、西田は四十七歳のときの著書「自覚に於(お)ける直観と反省」で、純粋経験を成立させる私たちの内なる働きとして「自覚」という概念を前面に打ち出しました。新発見のノートからは、西田の思想が「純粋経験」から「自覚」へと深まっていく跡をたどれます。
具体的には?
西田が「自覚」の概念に至るまでには、私たちの認識の在り方を合理的に解明しようとした新カント派の思想との対話がありました。「自覚に於ける直観と反省」で、「リッケルトなどの新カント学派を研究するに及んで、この派に対して何処(どこ)までも自己の立場を維持しようとした」と言っている通りです。
しかし、今回活字化した四十歳のときのノートには、リッケルトの名前は見られず、ベルグソンをはじめ、非合理的とも言える私たちの「生」の解明を目指した「生の哲学」の哲学者の名前が数多く見られます。西田は当初、ベルグソンらに「善の研究」の思想を発展させる可能性を見ていたのでしょう。対して、三年後に書かれた別のノートにはリッケルトの名前が見え、新カント派との対話が始まったことが分かります。
そのほか、ノートから読み取れることは?
西田が貪欲に欧米の最新の哲学を吸収していた姿が浮かびあがりました。
欧米では現在、日本とは比較にならないほど、著作権が切れた本のデジタルアーカイブ化が進んでいます。例えば西田のノートの中の欧文の記述をインターネットで検索すれば、どの本からの引用なのかがすぐに分かる。そうして調べてみると、研究者の私から見て驚くほど、膨大な量の本を彼が読んでいたことが分かりました。
このノートに基づく講義は、久松真一、西谷啓治、木村素衛といった「京都学派」を代表する思想家が受けています。彼らは、世界的に見て最先端の哲学を西田から学んでいたのです。
京都学派といえば戦争協力のイメージがあります。
確かに、京都学派には、西谷のように太平洋戦争を肯定的に意義づけ、戦後に公職追放を受けた人物もいます。一方でマルクス主義に近づき、治安維持法違反で逮捕され獄死した三木清、戸坂潤も西田に師事しました。右にせよ左にせよ、西田は当時のさまざまな思想が流れ出てくる源流だったと言えます。
西田自身は、戦争の賛成論者とも、反対論者とも単純に言えないというのが私の見方です。ただし、いま西田の本を開くと「国体」や「八紘一宇(はっこういちう)」といった戦前・戦中に特有な言葉が使われていますし、西田の哲学体系に現実社会を根底から批判する傾向が弱いのも確かです。西田哲学が戦争を押しとどめるような力を持たなかったという問題は、これからも深く考えていく意味があると思います。
西田哲学に興味を持ったきっかけは?
私は大学一年生のころ、語学を学ぶ目的で神学校の門をたたきました。死を超える世界があるという宣教師の話に引かれ、熱心なクリスチャンになりました。西田に近づいたきっかけも、その宗教観に興味を持ったからです。博士論文では、西田がキリスト教とどう対話したかを研究しました。
西田哲学は禅を中心に仏教からの影響も強く、死を深く見つめた哲学です。二〇三〇年代には団塊の世代が八十代前半に突入し、「多死社会」が到来すると言われていますが、西田哲学は私たち一人一人が死を見つめるヒントを与えてくれるはずです。
西田哲学はいまも古びていないのですね。
私は、「純粋経験」から「自覚」へと思索を深めた西田が、最後に到達した「場所の論理」という考えに引かれます。この考えについて、西田は著書「働くものから見るものへ」の中で、「有るものは何かに於いてある」と説明しています。
私たちは、周りの環境に限定(制限)されて生きています。さきほどの言葉を言い換えれば、「私たちはこの世界に於いてある」のです。例えば、新型コロナウイルスが流行してから、私たちの行為は限定され、日常でマスクを着けたり、三密を避けたりと、しなくてはいけないことや、してはいけないことが増えました。
しかし、西田は一方で、人間を「創造的世界の創造的要素」だと言っています。私たちは、この世界からさまざまな限定を受けているけれど、私たちの存在こそ、この世界を創造していく力なのだと言うのです。
なんだか勇気づけられます。
私は石川県立看護大の特任教授をしています。コロナ禍で看護師たちがこれまでのように患者に寄り添うことが難しくなっていますが、私は学生たちに「患者に寄り添う努力を続けてほしい」と話しています。私たちは、もがきながら未来をつくっていくのです。
西田は「非常時なればなるほど、我々は一面において落ちついて深く遠く考えねばならぬと思う」と語っています。コロナ禍という「非常時」だからこそ、よりいっそう哲学の価値は増すのだと思います。
あさみ・ひろし 1951年、石川県能登町生まれ。秋田大鉱山学部に進み、哲学・思想を学ぶため教育学部に転部。金沢大大学院文学研究科哲学専攻を修了後、石川工業高等専門学校に倫理・哲学担当教官として勤務するかたわら、筑波大で博士号を取得。2000年から石川県立看護大教授。論文「西田における生命論の宗教的背景とその展開」で比較思想学会研究奨励賞。16年、石川県西田幾多郎記念哲学館の館長に就任した。17年から同大名誉教授・特任教授。著書に、西田と仏教学者の鈴木大拙、哲学者の西谷啓治の思想を比較した「二人称の死-西田・大拙・西谷の思想をめぐって」、哲学者高橋ふみの評伝「おふみさんに続け! 女性哲学者のフロンティア」など。
あなたに伝えたい
私は学生たちに「患者に寄り添う努力を続けてほしい」と話しています。私たちは、もがきながら未来をつくっていくのです。
インタビューを終えて
「善の研究」以上に重要な西田の著述として、浅見洋館長は「場所的論理と宗教的世界観」を紹介してくれた。「場所の論理」の立場からつづった宗教論。西田の絶筆となった論文だ。
難解な箇所につまずきながらも読み通した。「人生の悲哀、(略)多くの人は深く此(こ)の事実を見詰めて居ない」という西田の言葉に、ハッとさせられた。
この論文の成立には、仏教学者の鈴木大拙の影響があったという。二人は第四高等学校の前身の第四高等中学校の同級生で、西田の死まで親交は続いた。
今年は大拙も生誕百五十年を迎える。コロナ禍の今、二人の本を家でじっくり読み比べてみるのも面白い。
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