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最近の市政のビジョンについて話をしてほしい、という依頼を受けて、「良いですよ」と言っていたら、今日は講話が昼と夜の二回になっていました。
お昼は北ロータリークラブで40分間のお話で、夜は商工会議所女性会で一時間というご依頼。
講演や講話をする際の資料として、最近はよくパワーポイントで映像を見せたり、そのスライドをそのまま印刷して配ったりするものですが、いろいろやった上で「やっぱりこれかな」と思うのが、A4一枚にキーワードを羅列するレジメを配布するやり方。
これって掛川市の榛村市長がたどりついた一つの様式美ですが、三年間一緒に榛村さんと仕事をする中でやり方を真似て真似て、ようやく身についたものです。
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レジメづくりの中で榛村さんから得たものは、「必ず一枚の資料を持ち帰ってもらうこと」、「資料は自分の言葉から作ること」でした。
政治家が演説の内容を資料として持ち帰ってもらう、というのを聞いて、「もしできなかったことを考えると危険ではありませんか?」と訊いてみたことがありましたが、その答えは、「政治家がそうやって言葉を空気に乗せて終わりにしてしまって、自分の言葉に責任を取らなくなったから政治が世間から馬鹿にされるようになったんだ。僕は自分の言葉で市民に対して手形を切っているつもりなんだよ」というものでした。
「もし聴衆が昔の証文を持ってきて、『なぜこのときに言ったとおりになっていないのか』と訊いてきたらどうするのですか?」
「はっはっは、僕の資料をそんなに後生大事に持っていてくれて、おまけにその時と違うのはなぜか、なんて説明を求めるくらいになれば立派なものだよ。もちろん、何がどう変わったのかをちゃんと説明しますがね」
『政治家が言葉に責任を持たなくなったから政治がダメになった』という言葉は重いものがあります。ましてそれを配って形に残すというのは勇気がいることです。政治家は、言葉への責任と説明する勇気を持ち合わせなくてはならない、という言葉に感心したものです。
また、形にして持ち帰ることで、単に「なんだかいい話を聞いたような気がする」というふわふわした記憶ではなく、レジメを見返しさえすればあの時何を言っていたかを思い出してもらえるし、身内や家族にも話したことのいくばくかが伝わるかもしれない、とも言われたことも印象的でした。
言葉は形にしておかないと消えてしまいますが、その分量が多すぎてもいけません。ぎりぎりの分量がA4一枚と言う分量なのです。
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また「資料は自分の言葉で作らなくてはならない」という哲学も立派なものでした。
榛村さんは、一日三回の講演会があれば、全部少しずつ違った表現や言い方のレジメを作りました。聴衆の顔を思い浮かべながら、あるいはその後に思いついたことをすぐにレジメに盛り込んで常にその時点で最新の情報内容にすることに心を配っていたのです。
榛村さんの場合は、レジメの中に使う言葉に独特の表現美学があって、一見「ん?どういう意味だ?」と思わせるようなものが多くありました。
たとえば「一世紀一週間人生を目指せ」などと書かれると、読んだ人は「これはどういう意味だ?」と関心を寄せるようになります。そこに話を聞いてくれようとする動きが起きるのだ、という哲学でした。
「ははは、これを称して『あれはなんだ効果』と呼んでいるんだよ」 聴衆の心理もつかみながらの講演は随分面白く聞いたものです。
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レジメにキーワードさえ書いておけば後は時間との兼ね合いで、その話題で記憶の引き出しをいくつ開けるかということだけが問題になり、だから時間の調整に苦しむということもありません。
与えられた時間の範囲で伝えたい話題を縦横無尽に詰め合わせにしてお届けする榛村流のレジメ作成術。
今ではもうこれも私しかやらなくなったのかもしれませんが、この姿を見て誰かが真似たりしてくれるでしょうか。
パワーポイント全盛時代の中で、レジメによって聴衆を寝させない講演をする一つの様式美はどこまで通じるでしょうか。
さて、次のご依頼をお待ちしています。