知っているようで知らないのが身近な歴史です。
北海道に生まれ育ちながら、教科書で教わったほどには北海道、そして蝦夷地の歴史についてよく分かっていませんでした。
その空白を埋めるべく今回手にしたのは、海保嶺夫著『エゾの歴史~北の人びとと「日本」』(講談社学術文庫)です。

そもそも蝦夷地の歴史となると、日本の歴史の教科書のように、縄文→弥生→古墳時代→飛鳥白鳳時代→奈良時代→平安時代…という時代区分が成立していません。
蝦夷地の場合、縄文時代の後には、続縄文文化→擦文文化→アイヌ文化と続き、江戸時代後期から幕藩体制に組み込まれ明治維新を迎えることになります。
縄文文化は紀元前三世紀から七世紀に渡って続いたと考えられていて、これが縄目の土器を使うのに対して、続縄文文化は本州の土師器(はじき)の影響を受けた擦文式土器を自ら作り使用するようになった時代区分で、七世紀頃から十三世紀ころまで続いたと考えられています。
その後十三世紀のあたりからは鉄器が輸入して使われるようになり、それをアイヌ文化と呼ぶようになっています。
この中世から近世における蝦夷地の歴史と文化についてその変容を活写しているのがこの『エゾの歴史』です。
※ ※ ※ ※
この本を読んで印象的なのは、かつての蝦夷地の住人達はかなり広範な交易世界を形成していたようだ、ということで、これが時代が近世を経て現代に近づくに従い国家観念が成熟してくることに伴って、国境という考え方が明確になり、行動が制約されていったということです。
著者は、擦文文化が積極的にアイヌ文化へ自ら積極的に変容していったのは、鉄器が入手しやすくなったために土器を自ら作ることを放棄したためではないか、と考えており、それには交易が技術的進歩や本州との関係の深化によって進んだからだと言います。
十三世紀には大陸は元が隆盛を極め、九州では元の軍隊が日本を攻めました。
しかし逆にこの時期、中国の文献には骨嵬(こつしゅう)と呼ばれる一団が北方のサハリンを北上して、黒竜江を遡上して北方の元を襲い元が守勢に回った戦いが40年以上も続いているという記録があり、この骨嵬とはほぼアイヌ民族に違いなかろうと言われています。
形は中国の朝貢貿易のようで、北海道や北方の毛皮などを持ち込めばシナ服などそれ以上のものを下賜されるという交易の形ですが、それでもそこでもらえたものは蝦夷錦と呼ばれて大変高価な交易品になりました。

【移動範囲がダイナミックです】
狭い北海道に留まらず大陸までも縦横に移動をし、後の山丹貿易というジャンルを形成しました。
なんとダイナミックな蝦夷の人たちであることでしょう。
※ ※ ※ ※
時代が下って江戸時代中期に蝦夷地探検をした最上徳内は、アイヌの人たちが交易という形ながら大陸の山丹人たちに借財を負い、その代償として奴隷として売られるということを知り、痛憤の思いを報告書に書いています。
そしてこのような貿易を平気で見逃している当時の松前藩に対して強い批判を浴びせています。
しかし江戸時代における幕府の蝦夷認識としては、幕府の力が及ぶのは松前周辺のほんの一角であり、そこから先は力も権力も及ばない地域という認識だったのです。
しかしその頃からロシアの南下が目立ち始め、幕府も重い腰を上げて対ロシア政策として蝦夷地の管理を行い始めるようになり、蝦夷地にとっての近世が始まります。
北海道としての歴史は松浦武四郎が蝦夷地を北海道と名付けた時から始まります。
しかしそれより遙か昔から連綿と続く蝦夷地の歴史にも目を向けて、我が故郷の歴史についても学んでみたいものです。
読書の秋、蝦夷地の歴史も面白いですよ。
北海道に生まれ育ちながら、教科書で教わったほどには北海道、そして蝦夷地の歴史についてよく分かっていませんでした。
その空白を埋めるべく今回手にしたのは、海保嶺夫著『エゾの歴史~北の人びとと「日本」』(講談社学術文庫)です。

そもそも蝦夷地の歴史となると、日本の歴史の教科書のように、縄文→弥生→古墳時代→飛鳥白鳳時代→奈良時代→平安時代…という時代区分が成立していません。
蝦夷地の場合、縄文時代の後には、続縄文文化→擦文文化→アイヌ文化と続き、江戸時代後期から幕藩体制に組み込まれ明治維新を迎えることになります。
縄文文化は紀元前三世紀から七世紀に渡って続いたと考えられていて、これが縄目の土器を使うのに対して、続縄文文化は本州の土師器(はじき)の影響を受けた擦文式土器を自ら作り使用するようになった時代区分で、七世紀頃から十三世紀ころまで続いたと考えられています。
その後十三世紀のあたりからは鉄器が輸入して使われるようになり、それをアイヌ文化と呼ぶようになっています。
この中世から近世における蝦夷地の歴史と文化についてその変容を活写しているのがこの『エゾの歴史』です。
※ ※ ※ ※
この本を読んで印象的なのは、かつての蝦夷地の住人達はかなり広範な交易世界を形成していたようだ、ということで、これが時代が近世を経て現代に近づくに従い国家観念が成熟してくることに伴って、国境という考え方が明確になり、行動が制約されていったということです。
著者は、擦文文化が積極的にアイヌ文化へ自ら積極的に変容していったのは、鉄器が入手しやすくなったために土器を自ら作ることを放棄したためではないか、と考えており、それには交易が技術的進歩や本州との関係の深化によって進んだからだと言います。
十三世紀には大陸は元が隆盛を極め、九州では元の軍隊が日本を攻めました。
しかし逆にこの時期、中国の文献には骨嵬(こつしゅう)と呼ばれる一団が北方のサハリンを北上して、黒竜江を遡上して北方の元を襲い元が守勢に回った戦いが40年以上も続いているという記録があり、この骨嵬とはほぼアイヌ民族に違いなかろうと言われています。
形は中国の朝貢貿易のようで、北海道や北方の毛皮などを持ち込めばシナ服などそれ以上のものを下賜されるという交易の形ですが、それでもそこでもらえたものは蝦夷錦と呼ばれて大変高価な交易品になりました。

【移動範囲がダイナミックです】
狭い北海道に留まらず大陸までも縦横に移動をし、後の山丹貿易というジャンルを形成しました。
なんとダイナミックな蝦夷の人たちであることでしょう。
※ ※ ※ ※
時代が下って江戸時代中期に蝦夷地探検をした最上徳内は、アイヌの人たちが交易という形ながら大陸の山丹人たちに借財を負い、その代償として奴隷として売られるということを知り、痛憤の思いを報告書に書いています。
そしてこのような貿易を平気で見逃している当時の松前藩に対して強い批判を浴びせています。
しかし江戸時代における幕府の蝦夷認識としては、幕府の力が及ぶのは松前周辺のほんの一角であり、そこから先は力も権力も及ばない地域という認識だったのです。
しかしその頃からロシアの南下が目立ち始め、幕府も重い腰を上げて対ロシア政策として蝦夷地の管理を行い始めるようになり、蝦夷地にとっての近世が始まります。
北海道としての歴史は松浦武四郎が蝦夷地を北海道と名付けた時から始まります。
しかしそれより遙か昔から連綿と続く蝦夷地の歴史にも目を向けて、我が故郷の歴史についても学んでみたいものです。
読書の秋、蝦夷地の歴史も面白いですよ。