石川啄木没後百年記念実行委員会が主催する一人芝居「SETSU-KO」が釧路図書館のホールで公演されました。
この一人芝居は、石川啄木の妻だった節子が啄木のローマ字で書かれた日記を読んで回想に浸るということを軸にして、啄木の心情や彼を取り巻く人たちの思い出を語るというもの。
演ずるのは、盛岡を拠点としてフリーアナウンサーとして活躍される畑中美耶子さんで、1997年からもう15年にもわたってこの物語を演じ続けられています。
釧路市図書館のホールには釧路啄木会で良く見かける皆さんを中心に約百名の方が観覧に参加されました。
※ ※ ※ ※ ※
舞台には裸電球の演出と、ゴザに啄木の位牌が飾られ、会場には既に線香の香りが漂っています。
物語は啄木のお葬式を終え、啄木生前の親友だった金田一京助らを送り出した喪服の節子の一人語りから。
節子は一冊の書物を手に取ると、「自分が死んだら処分してくれ、と言われたけれどやっぱりできない」と、啄木の日記を読み始めます。
背景には最初の一ページがスライドで投影されましたが、端正なアルファベットによるローマ字が並んでいます。
石川啄木が釧路を去ったのは明治41年4月のことですが、ちょうど一年後の明治42年4月7日から約2か月間にわたる日記をローマ字によってつけていました。
演者の畑中さんは、節子が読むときは女声で読みますが、突然男声で啄木自らが語り始めたりもします。
畑中さんが演じるのは啄木と妻節子、それに妹の光子に母カツ、函館での思い出の女、橘智恵子の五役。
それぞれを演じ分けながら、妻を愛していたという啄木の思いを中心に、ローマ字日記の世界を大きく膨らませています。
※ ※ ※ ※ ※
実はこのローマ字日記には、この中に浅草芸者と過ごした夜のことをおよそ『未成年絶対お断り』レベルのエロチックな表現で書いており、昔は墨塗りで発行されていたと言います。
釧路啄木会の北畠先生も、「ええ、私が始めに読んだ頃はみんな伏字になっていたものです」とのこと。
畑中さんはその問題の個所も朗々と読み上げ、浮気性だった夫啄木に対するいら立ちをちょっとした仕草で表現して会場を笑わせます。
※(ちなみに、未成年お断りの部分が読みたい方はこちらへ。啄木4月10日の日記で、”強き刺激を求るイライラした心は…”というくだりです。→ http://bit.ly/QvJVMq )
4月15日の日記には、こんなくだりが出てきます。
「予は節子以外の女を恋しいと思ったことはある。他の女と寝てみたいと思ったこともある。現に節子と寝ていながらそう思ったこともある。そして予は寝た――他の女と寝た。しかしそれは節子と何の関係がある? 予は節子に不満足だったのではない。人の欲望が単一でないだけだ。」
男性陣はこれに賛同するでしょうか?
※ ※ ※ ※ ※
また、こんなことを堂々と書く啄木ですから、後の世の人が放蕩の女たらしと嘲り虫が好かないと言うのも無理はないかもしれません。
しかし日記全体には小説家としての思いを捨てがたく上京しながら、なかなか思うように書けず金もない自分にいらだつような弱い面を赤裸々に描きます。
畑中さんは、5月8日の日記を読み上げます。
「ある晩、どうすればいいのか、急に眼の前が真っ暗になった。社に出たところで仕様がなく、社を休んでいたところでどうもならぬ。
予は金田一君から借りて来てる剃刀で胸に傷をつけ、それを口実に社を一ヶ月も休んで、そして自分の一切をよく考えようと思った。そして左の乳の下を斬ろうと思ったが、痛くて斬れぬ。
微かな傷が二つか三つ付いた。金田一君は驚いて剃刀を取り上げ、無理矢理に予を引っ張って、インバネスを質に入れ、例の天ぷら屋に行った。飲んだ。笑った。そして十二時ごろに帰って来たが、頭は重かった。
明りを消しさえすれば目の前に恐ろしいものがいるような気がした」
なんとも女々しい啄木の一面が表され、それもまた芝居の中では既に亡くなった夫への思慕として表現されてゆきます。
※ ※ ※ ※ ※
実は今回の上演に先立って、畑中さんと盛岡市からのメンバーお二人が昨日市役所の私の部屋へ表敬訪問をしてくださいました。
その際に既に畑中さんの口からは、「この形での一人芝居を15年間やってきましたが、明日の釧路公演で最後にしようと思っている」というお話が飛び出しました。
これまで全国各地で上演してこられ、北海道では函館で一度、札幌で二度開催したものの、釧路にはとうとう来られずにいたものが、没後百年事業の一環で釧路へやっとの思いで来ることができたのだそう。
「正座で座って立ち上がったりというのが体力的になかなか大変なので、今回の釧路で最後にするんです」
まだまだお若いのですから、勿体ないような気がします。
※ ※ ※ ※ ※
上演後には後援者から花束の贈呈があり、啄木会の北畠先生からの感想と、私も発言を求められて、啄木とのご縁を誇りにしている釧路市民の幸せについてご挨拶をしました。
さて、この啄木のローマ字日記、我が国指折りの日記文学と言う人もいれば、日記という形を借りた彼一流の文学作品だ、という人もいます。
なぜローマ字で書き表したかについても、妻節子に読まれたくなかったから、という説が一般的。
しかし三行短歌という新しい表現を作り出した啄木のこと、あらゆる創造性を駆使した彼なりのチャレンジだったと考えることも可能ではないでしょうか。
改めて啄木について勉強するきっかけを与えてくださった、畑中さんとそのスタッフの皆さんに心から感謝申し上げます。
この一人芝居は、石川啄木の妻だった節子が啄木のローマ字で書かれた日記を読んで回想に浸るということを軸にして、啄木の心情や彼を取り巻く人たちの思い出を語るというもの。
演ずるのは、盛岡を拠点としてフリーアナウンサーとして活躍される畑中美耶子さんで、1997年からもう15年にもわたってこの物語を演じ続けられています。
釧路市図書館のホールには釧路啄木会で良く見かける皆さんを中心に約百名の方が観覧に参加されました。
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舞台には裸電球の演出と、ゴザに啄木の位牌が飾られ、会場には既に線香の香りが漂っています。
物語は啄木のお葬式を終え、啄木生前の親友だった金田一京助らを送り出した喪服の節子の一人語りから。
節子は一冊の書物を手に取ると、「自分が死んだら処分してくれ、と言われたけれどやっぱりできない」と、啄木の日記を読み始めます。
背景には最初の一ページがスライドで投影されましたが、端正なアルファベットによるローマ字が並んでいます。
石川啄木が釧路を去ったのは明治41年4月のことですが、ちょうど一年後の明治42年4月7日から約2か月間にわたる日記をローマ字によってつけていました。
演者の畑中さんは、節子が読むときは女声で読みますが、突然男声で啄木自らが語り始めたりもします。
畑中さんが演じるのは啄木と妻節子、それに妹の光子に母カツ、函館での思い出の女、橘智恵子の五役。
それぞれを演じ分けながら、妻を愛していたという啄木の思いを中心に、ローマ字日記の世界を大きく膨らませています。
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実はこのローマ字日記には、この中に浅草芸者と過ごした夜のことをおよそ『未成年絶対お断り』レベルのエロチックな表現で書いており、昔は墨塗りで発行されていたと言います。
釧路啄木会の北畠先生も、「ええ、私が始めに読んだ頃はみんな伏字になっていたものです」とのこと。
畑中さんはその問題の個所も朗々と読み上げ、浮気性だった夫啄木に対するいら立ちをちょっとした仕草で表現して会場を笑わせます。
※(ちなみに、未成年お断りの部分が読みたい方はこちらへ。啄木4月10日の日記で、”強き刺激を求るイライラした心は…”というくだりです。→ http://bit.ly/QvJVMq )
4月15日の日記には、こんなくだりが出てきます。
「予は節子以外の女を恋しいと思ったことはある。他の女と寝てみたいと思ったこともある。現に節子と寝ていながらそう思ったこともある。そして予は寝た――他の女と寝た。しかしそれは節子と何の関係がある? 予は節子に不満足だったのではない。人の欲望が単一でないだけだ。」
男性陣はこれに賛同するでしょうか?
※ ※ ※ ※ ※
また、こんなことを堂々と書く啄木ですから、後の世の人が放蕩の女たらしと嘲り虫が好かないと言うのも無理はないかもしれません。
しかし日記全体には小説家としての思いを捨てがたく上京しながら、なかなか思うように書けず金もない自分にいらだつような弱い面を赤裸々に描きます。
畑中さんは、5月8日の日記を読み上げます。
「ある晩、どうすればいいのか、急に眼の前が真っ暗になった。社に出たところで仕様がなく、社を休んでいたところでどうもならぬ。
予は金田一君から借りて来てる剃刀で胸に傷をつけ、それを口実に社を一ヶ月も休んで、そして自分の一切をよく考えようと思った。そして左の乳の下を斬ろうと思ったが、痛くて斬れぬ。
微かな傷が二つか三つ付いた。金田一君は驚いて剃刀を取り上げ、無理矢理に予を引っ張って、インバネスを質に入れ、例の天ぷら屋に行った。飲んだ。笑った。そして十二時ごろに帰って来たが、頭は重かった。
明りを消しさえすれば目の前に恐ろしいものがいるような気がした」
なんとも女々しい啄木の一面が表され、それもまた芝居の中では既に亡くなった夫への思慕として表現されてゆきます。
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実は今回の上演に先立って、畑中さんと盛岡市からのメンバーお二人が昨日市役所の私の部屋へ表敬訪問をしてくださいました。
その際に既に畑中さんの口からは、「この形での一人芝居を15年間やってきましたが、明日の釧路公演で最後にしようと思っている」というお話が飛び出しました。
これまで全国各地で上演してこられ、北海道では函館で一度、札幌で二度開催したものの、釧路にはとうとう来られずにいたものが、没後百年事業の一環で釧路へやっとの思いで来ることができたのだそう。
「正座で座って立ち上がったりというのが体力的になかなか大変なので、今回の釧路で最後にするんです」
まだまだお若いのですから、勿体ないような気がします。
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上演後には後援者から花束の贈呈があり、啄木会の北畠先生からの感想と、私も発言を求められて、啄木とのご縁を誇りにしている釧路市民の幸せについてご挨拶をしました。
さて、この啄木のローマ字日記、我が国指折りの日記文学と言う人もいれば、日記という形を借りた彼一流の文学作品だ、という人もいます。
なぜローマ字で書き表したかについても、妻節子に読まれたくなかったから、という説が一般的。
しかし三行短歌という新しい表現を作り出した啄木のこと、あらゆる創造性を駆使した彼なりのチャレンジだったと考えることも可能ではないでしょうか。
改めて啄木について勉強するきっかけを与えてくださった、畑中さんとそのスタッフの皆さんに心から感謝申し上げます。