北の心の開拓記  [小松正明ブログ]

 日々の暮らしの中には、きらりと輝く希望の物語があるはず。生涯学習的生き方の実践のつもりです。

外国人に正座はどうみえる?

2009-12-21 23:25:51 | Weblog
 座り方一つでも文化があります。外国から見ると正座はどう見えるのでしょうか?


---------- 【ここから引用】 ----------
【仏国ブログ】フランス人から見た日本の「正座」   2009/12/21(月) 11:05
 http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=1221&f=national_1221_005.shtml





  欧米文化圏で「座る」という行為は、基本的に椅子に座ることを指す。一方、日本での座り方は多彩だ。中でも「正座」は独特で、お茶などの伝統的な日本文化を体験したり、日本料理店で食事をする場合に、多くの外国人が初めて経験することになる。

  旅に関するフランスの情報サイト「Ideoz, Les Cultures du Voyage」では、日本独特の座り方「正座」について紹介している。

  「漢字に直すと、正しく座るという意味になる『正座』は、基本的には儀礼的な座り方とされている。しかし現在の日本では、公の場でも私的な場所でも正座をするようだ」と記している。

  また、正座の歴史については「江戸時代の公式な場で初めて導入されたという。動乱と混乱に満ちた戦国時代が終わったことを民衆に示すためにも、上品で礼儀正しい形の座り方である正座が推奨されたようだ」とつづっている。

  多くのフランス人は、正座を楽な座り方ではないと考えている。「徳川幕府も『正座』を快適な座り方ではないと考えていたのではないか。なぜなら、(正座に慣れていると思われる)日本人でさえも、足がしびれたりするからだ。もしかすると、『正座』を公式の場で用いることで、急襲を避けようとする意図があったのかもしれない」と意見を述べている。(編集担当:山下千名美・山口幸治)

---------- 【引用ここまで】 ----------

 胡座(あぐら)の状態から片足を立てた座り方を立て膝と言います。

 戦国時代の武将などでは胡座や立て膝が普通の座り方だったみたいですね。胡座はすぐに相手に斬りかかれない座り方だったのに対し、立て膝は武具を着装した際の合理的な座り方で、武者座りともいわれたんだとか。

 現代生活はほとんど正座をする機会がなくなりました。法事などで正座をせざるを得ない時に足がしびれないような工夫も覚えておきたいですね。

 
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「分」はなんて読むでしょう?

2009-12-20 23:21:06 | Weblog
 友人から「『分』という漢字の読みをいくつ言える?」と訊かれました。

 ぶん、ふん、ぶ、わ(ける)…などと答えましたが、「多分絶対に思いつかないのが一つあるよ」と意味深な謎をかけられました。

 家に帰ってきてからネットで調べてみると…、あった、ありました。「いた」…?うーん。


---------- 【ここから引用】 ----------
【日経ネットプラス ことばオンライン】「分」 「いた」と読めますか? 2009-01-30
 http://netplus.nikkei.co.jp/nikkei/original/word/word/wor090127.html


 文化審議会は1月29日の総会で、常用漢字について現在の1945字から5字削除する一方、191字を追加する試案を了承しました。この中でいくつかの漢字に新たな読みを追加。「分」という漢字に「いた」という読みも入れました。


 常用漢字表には「分」に(1)ブン(2)フン(3)ブ(4)わける(5)わかれる(6)わかる(7)わかつ——の7種の読みが掲げられていますが、今回の試案で「いた」という訓読みを追加しました。「分」だけ見ても、なぜ「いた」と読むのかわかりにくいのですが、「大分県」といえば納得していただけるのではないでしょうか。

 新常用漢字表(仮称)には、都道府県名に使う漢字(阪・鹿・熊・茨・栃・埼・梨・阜・奈・岡・媛)を優先的に加えたほか、既存の漢字には都道府県に関連する読みを入れることになりました。
 
 この「いた」については、ある日の審議会小委員会でちょっとした論争がありました。大分は「おお+いた」なのか「おおい+た」なのかと。

 大分は「豊後風土記」(732-739年ごろ)に見られる古い語ですが、語源には「大きな+田んぼ」「おお+きだむ(きざむ=分)」など諸説があるため、どちらが正しいのか断定はできません。ならば「大分」をひとまとまりの熟語で「おおいた」と読ませたほうがいいのではないかとの意見も出ました。

 語源はさておき、「大」に「おお」の読みがあり、一般には「おお+いた」と分析するのが現実的だということで議論は落ち着き、「分」の読みは「いた」となりました。常用漢字の改定では追加する文字や字体のことがとかく話題になりがちですが、既存の漢字の読み方についても深く議論がなされています。文化庁国語課の氏原基余司・主任国語調査官によると「漢字表の『いた』の訓は大分に限定した読み方」ということになっています。(函)

---------- 【引用ここまで】 ----------

 なるほど、「大分(おおいた)」の「いた」ですか、それも大分限定のレアな使い方です。

 こうなると確かに中国の「漢」から借りた漢字ではありますが、もはや完全に日本化した漢字文化というわけですね。「大分」なんてまかり間違うと「だいぶ」と読んでしまいそうですし。

 もっとも、これが認められるんだったら、北海道難読地名はどうなるのでしょう?

 「長万部(おしゃまんべ)」の「長」は「おしゃ」と読むのか?とか、「稚内(わっかない)」の「稚」は「わっか」と読むのか?などとちょっと心配になってしまいます。

 私の両親の住む石狩市だけでもこんなに難読地名があるのですから。

 生振(おやふる) 、濃昼(ごきびる)、聚富(しっぷ)、発足(はったり) 、花畔(ばんなぐろ) 

 最後の花畔なんて語源はアイヌ語の「パナ・ウン・クル・ヤソッケ(川下人の漁場)」ですからね。漢字の読みとはちょっとかけ離れた世界かも知れません。 
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都会は友達が消えて行く

2009-12-19 23:40:38 | Weblog
 東京都の港区、中央区、千代田区の三つを差して「中央三区」と呼びます。

 この三つの区は集中が進む東京の中でもさらに、オフィスニーズや居住ニーズが押し寄せていて、開発が盛んな区なのです。

 私の知人のAさんは、この三つの区の中のある地区で生まれ育ち、一度他区へ移ったものの、今ではまた元の実家に戻って生活をしています。そこで聞いたのが「だんだん友達がいなくなるんですよ」ということ。

 そもそも元々東京で生まれ育っているAさんの地区では、地域の同級生などは敢えて他の都市へ行ったりすることもなく、そのまま地元で小中高と勉強をして都内で就職をするというのが普通だったのだそう。その友達がいなくなる?

「友達がいなくなるとはどういうことですか?」
「一度目はバブルの後でしたね。二度目はつい最近そんな波が来ていました」

「バブルの時に売り払って出たとか?」
「いえ、そのときには出ないんです。自分の土地にビルを建て、自分は最上階に住んでビルの床をテナントに貸すんです。そうすれば地域に住んだままでお金がたっぷり入って来るというわけです」

「それなら出ていったりしないのでは?」
「それが、バブルははじけますよね?ビルを建てると言ったって、ある程度の借り手がいることを前提に借金をするわけですからね。バブルが弾けてそれまで入っていたテナントが高い賃料を払えずに出ていく、そうすると自分の借金が払えなくなって、そこを出て行かざるをえないという構図なんです」

「ええ?そんなことになっているんですか?」
「全部が全部そうやっていなくなるわけではないし、私の身の回りの出来事として聞いて頂ければよいと思うんですが、よくよく友人達の話をそれも数多く聞いていると、どうやらそう言う事例が実に多いんです」

「ふーむ」
「最初はなんだか良いことしか言わないんですよ。『そのあたりにも飽きたから緑の多いところに移ったよ』なんてね。そんな連絡が世田谷から来る、やがてそれが多摩川を越えて神奈川県から来る。その友人は静岡からの便りが最後で、そのあとは音信不通になりました。でもそれが一人や二人じゃないんですからねえ。末端にこそなにがしかの真実があるような気もしますよ」

「ははあ」
「それにビルやマンションが出来ると町内会がどんどん細分化されるんです。ちょっとした面積のところに大きなマンションが建つと、そのマンションの住民で新しい町内会ができるんです。人数は増えるかも知れませんが、面積は小さな町内会が増えてもいるんですよ」


    ※    ※    ※    ※

 Aさんは「あくまでも私の周りの出来事だと思って聞いてくださいね」と言っていましたが、まさに数多い事例の中には何かの真実があるのだと思います。

 東京には東京独特の地域社会の変化の仕方があるようです。それが破壊なのか誕生なのか、はたまた破壊することで誕生しているということなのか。

 それが都会なんだ、ということなのかもしれませんが、田舎者で良かったとも思ったのです。 

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障がい者への住まいの支援

2009-12-18 23:55:58 | Weblog
 ある勉強会で軽度知的障がい者のための自立住宅のお話を聞きました。

 お話をしてくれたのはNPO法人ぱれっとの方で、もう20年以上も障がい者が自立出来るような活動を支援してきた団体です。

 これまでも「おかし屋ぱれっと」でクッキーを作って販売したり、Restaurant & Bar Paletteでスリランカカレーを売るお店を経営したりと、知的障がい者が働いてお金を稼げる環境を支援してきたのです。

 名前の「ぱれっと」とは、絵の具を混ぜる時に使うパレットのことで、健常者、障がい者、外国人を色に見立てて、これらが混ざり合うことで新しい色を作り出したいという願いが込められています。

 このNPO法人ぱれっとが今建設を進めているのが、「ぱれっとの新しい家」です。

 これは軽度の障がい者が一人で自立して生活出来るような家を提供したいという思いから、健常者と共にグループホーム的に部屋住まいと共同スペースを併せ持った家をつくり、日常の生活のほんのちょっとした手伝いをすることで生活を支えるという哲学をもった家です。

 この事業に理解のある企業が、社員寮を建て替えようとした際にこの話を聞きつけて、土地を貸してくれて、併せて自ら建設も手がけて8人用の住宅を建設したのです。

 知的障害でも軽度の方であれば、日常生活にほとんど支障はないのですが、たとえば見知らぬ人との関係作りがうまく行かないというような方が、宅急便を受け取ることが出来ない、などということもあるのだとか。

 そんなときに同居人が替わりに受け取ってあげたり一緒にサポートすることで、それ以外は普通の生活が出来るという、そんな気楽な同居を目指した家造りです。

 もうすぐ完成して、その後の入居者を募集しており、健常者5名、障がい者2名がほぼ決まったそうです。

    ※    ※    ※    ※

 障がい者の支援というと、なかには肩肘張った「私が支援するんだ」という気構えで来る方もいるそうですが、そんなに気を張っても長続きするものではなく、親切の延長みたいな感覚で普通に対応できる感覚の方が良いのだそう。

 しかしながら現実にはそうしたちょっとだけ手伝ってくれるだけで一人暮らしが出来る人を受け入れられるような住まいが日本にはほとんどなくて、結局親との同居や施設で暮らさざるを得ないのが現状になっているのだそうです。

 NPOぱれっとでは、「これが正解とも思いませんが、こうした活動を広めるためにもまずは自分たちで前例を作らなくてはと思っています」とのこと。

 国交省も厚労省と協力し合って、来年からこうした家造りに対して地方公共団体が補助するのであればその一部を国として補助する制度を始める準備をしているとか。

 
 そうした障がい者も、欧米では一人暮らしが当たり前なのに日本ではお金を給付して事足れりとする制度が強すぎて、こういった共生に対する理解がまだまだ不足しているのだそうです。

 今回の入居者を選ぶためには、すでに2~3年のワークショップを重ねた人同士の繋がりがあればこそ、とも言っていました。全ては関係性があっての上に成り立つ社会環境です。
 
 お金だけでは解決しない、住民が思いを差し出す社会が望まれています。


【NPO法人ぱれっと】
 http://www.npo-palette.or.jp/ 


 なお、私自身「障がい者」と書くのには抵抗があります。

 漢字で書くと「障害者」となるのですが、これは元々の「障碍者」、あるいは「障礙者」と書いたもので、「害」をもたらすような意味はなく、単に「身体に障りがあって本来の機能を果たさない」という意味だけのことです。電気を絶縁する陶器製の碍子(ガイシ)というのもこの漢字です。

 問題はこの「碍」やその元々の「礙」と言う漢字が常用漢字に入っていないために代用として「害」の時が使われてしまっていることです。

 是非とも「碍」の字を復活させて欲しいと思います。 
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お茶プレッソって何?

2009-12-17 23:38:01 | Weblog
 お茶一杯もコーヒー一杯も、実はほとんど同じ原価でその価格は5円と言われています。

 お抹茶であればちょっとした日本風観光地で和菓子付きで500円くらいは払うでしょうか。しかし多くの人たちはコーヒー1杯に対しては100円~数百円を支払う気持ちがあるのに、心のどこかで(お茶はタダでしょ)と思っています。

 お茶がタダでコーヒーは有料という通年は、長年培われてきた西洋崇拝の歴史もあってなかなか治りそうにありません。

 そんなお茶を改めて見直すきっかけになるでしょうか。 


---------- 【ここから引用】 ----------
「お茶プレッソ」誕生 築地の老舗が1月5日から100円で
2009.12.16 09:35
http://sankei.jp.msn.com/economy/business/091216/biz0912160941007-n1.htm





 東京・築地や銀座で日本茶専門店を営む創業80年の日本茶の小売卸業「うおがし銘茶」が、来年1月5日から同社の運営する喫茶室で新メニュー「お茶プレッソ」を売り出す。高い圧力をかけて抽出するコーヒーのエスプレッソをお茶に応用した“お茶版”。同社は「これをきっかけに日本茶本来のおいしさ、楽しさを広く知ってもらいたい」と期待をかける。

 お茶プレッソは日本茶の新しい楽しみ方を提案するために同社が開発した。煎茶よりも味が濃く、抹茶よりも透明感が高い。喫茶室ではお茶請けをつけて100円での販売を予定している。お茶プレッソ用の茶葉の販売は予定していない。

 同社は東京・銀座に「茶・銀座」、築地に本店と新店である「茶の実倶楽部」などお茶専門店を構える。伝統や格式より、味と手軽さを重視した販売が銀座や築地市場のなじみ客には広く知られ、銀座の有名すし店にも卸している。

 しかし、お茶の消費量は、家庭の日本茶離れや日本茶専門店の高級志向などを背景に減少していることなどから、日本茶本来の価値の見直しにつなげようと、新商品投入を決めた。

 開発当初は「抵抗があった」(岡本直也築地新店店長)というが、試飲を繰り返すうちに味が定まり「また飲みたくなる味に仕上がった」と話している。

 同社の広報、土屋葉さんは「日本茶がもっと気軽でおいしいものであることを知ってほしい」と話している。

---------- 【引用ここまで】 ----------

 最近ではお茶を飲む家庭も減ってきて家に急須がない家が増えて、逆に急須はあってもお茶を葉っぱで入れるのは面倒くさくて、お客様が来てもボトルのお茶をだして事足れりとしている方も多いのだとか。

 農産物としてのお茶は、春先の一番茶が商取引場一番高くて、それが一日経つごとにどんどん収穫量が増えて値段がどんどん下がるという商慣行になっています。

 そして春先のお茶が終わっても、植物としてのお茶はまた葉っぱを出すので夏から秋にかけて二番茶、三番茶が穫れることになりますが、これはもう春先のお茶に比べると格段に低い価格でしか買ってもらえません。

 ボトル茶が他の砂糖入り清涼飲料水などに比べると健康的に映っても、春先の柔らかい(静岡あたりの方言では『みるい』と言いますが)新芽から出る甘い玉の汁を味わうと、まったく別物だと言うことがわかるのです。

 手揉み茶の名人が揉んでくれたお茶なんて本当に甘くて、く普段急須で飲んでいるお茶とも全く違う飲み物であることも印象的です。

 でも多くの日本人にはもうそうした機会も失われ、お茶を味わい分ける舌すら失われたのかも知れません。

 「お茶プレッソ」なんて、どこかキワモノのような気もしますが、改めてお茶に対する世間の耳目を引くという意味はあるのかも。

 売り出したらまずは頂いて来ようと思います。

 お茶はリーフ(茶葉)で飲むべし! 
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ちょっと寂しい結婚記念日

2009-12-16 23:31:48 | Weblog
 今日平成21年12月16日は、私と妻の25年目の結婚記念日。やっと銀婚式を迎えることが出来ました。

 何はともあれなんとか無事にこの日を迎えられることができて、妻はもちろん家族、親族、友人に心から感謝です。

 この25年の間に二人の娘に恵まれましたが、その二人ももう就職して親離れの時期になりました。

 生まれてから結婚まで26年、その後の25年で子育ても一段落。結婚までの第1ステージと子育ての第2ステージも過ぎたと言うことでしょうか。

 いよいよこれからは、これまでの人生を踏まえた第3ステージと言うことになるのでしょう。一体何が待ちかまえているのか。

 さてそんな結婚記念日ですが、単身赴任ということで、札幌と東京で離ればなれの記念日となってしまいました。

 携帯電話で互いの夕食の写真を交換するのみで、ちょっと寂しいものです。

 年末に帰省したら食事にでもいこうね。 
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ものごとを深く考える方法

2009-12-15 23:31:41 | Weblog
 物事深く考えろ、とはよく言われますが、これはそのやり方を学んで訓練して初めて出来るようになる、学習の成果です。

 では具体的にどうすればよいのか、ということになると、案外誰も教えてくれないものですが、さすがはネット社会。いろいろな人がその人なりの切り口を教えてくれています。

 まずは「ちきりん」さんのお話をどうぞ。  


---------- 【ここから引用】 ----------
【[ちきりん,Chikirinの日記】 物事を“深く考える”ための簡単な方法
  http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0911/02/news003.html





 「よく考えろ」とか「考えが浅い。もっと深く考えて」と、言われたことがある人は少なくないですよね。でも、考えを深めるための具体的な方法を教えてもらったことはありますか? 学校の先生や会社の上司は、号令のように「もっと考えろ!」とは言うものの、「こういう風に考えれば思考が深まるよ」という具体的な「How?」は示さない場合が多いですよね。

 すると「もう1回よく考えろ」と言われても、やみくもに時間をかけてウンウンうなるしかなく、考えが深まらなかったりする。 こーしろ、あーしろという人は、その方法論も一緒に教えてほしいと思います。

【物事を“深く考える”ための簡単な方法】
 ちきりんの記憶でも大半の人はただ単に「考えろ!」と言うだけだったのですが、何人か具体的に方法論を教えてくれた人がいます。

 そのうちの1つの方法が「他人の意見を聞いたら、何か考える前に『それは違うと思います』と言え」という方法です。何か失礼な方法論ですが、これホント役立ちます。

 相手が説得力のある人とか、エライ人とか、マスコミだとしますよね。すると、「相手の権威に影響されて、何となく正しい気がしてしまう」ので、「考える前に『違う』と言え」というのです。

 「言う」ということも大事、思っているだけではダメです。言うと、「なぜ違うと思うのですか?」と相手から反論される。すると、「ええっと、あのですね……」と説明しなくてはいけなくなる。「なぜ違うと思うのか」を突き詰めざるをえなくなるので、考えることができるわけです。

 誰かの意見に「ああ、本当にそうだなあ」とか「説得力あるなあ」と素直に感心していたら、思考が停止してしまいます。だから「違う!」と、まず言えと。そういう方法論を教えてもらったのが十数年前。これはかなり役立っています。

 例えば、「日本の未来は暗い」という論調はよく聞きますよね。でも、「いや、そんなことはないです。日本の未来はバラ色です」と言ってみる。すると「何が明るいのだ? 人口も減るんだぞ。未来が明るいはずがない。」と言われる。でも、とりあえず考える前に「いや、人口が減っても未来はバラ色です」と言い返してしまうのです。

 そうしたら……、「本当に人口の多少と未来の明るさは関係しているのか?」と考える必要が出てきます。そして、多くの人が住みやすい国のお手本のように語る北欧諸国は、イラクやイランより、もちろん中国やインドより、圧倒的に人口の少ない国だということに思い至りますよね。

 また、「そもそも明るい未来とは何なのか?」ということを明確にしないと反論できないことにも気がつきます。そして「明るい未来」の定義こそが、この議論の根底にあることにも思い至ります。

 というように、とりあえず「違う」と言ってみる。そうしたら思考が進むかも?

 そんじゃーね。

---------- 【引用ここまで】 ----------

 物事を論理的に考えるための方法というのはいくつか持っておいたほうが良いですね。

 この「ちきりん」さんの、「まず反対に考えてみる」というのはディベートのような手法で、相手の主張とは正反対を論じることで自分の主張の強みや弱みがわかるというものです。

 以前にも書いたのですが、論理でケンカをする場合は次の三点を念頭に置くと良いです。私は忘れないようにこの三つを手帳に書き留めています。それは、
①相手の主張が事実か、その根拠は何かを確かめる
②相手の主張の論理構成(ロジック)は正しいのか
③現場感覚と一致しているか、机上の空論なのではないか
 ・・・というものです。

 ①については、私も人の話を聞いていると知らなかった情報をぽんぽん渡されて、「ほほ~、なるほど~」と感心することが多いものです。しかしいつでもその根拠は何なのか、ということを意識して聞いて、そのときにわからなくても家に帰ってから調べる癖をつけたいものです。
 案外、数字の読み方を間違っていたり、わざと間違いを装った解釈を述べる例もあるのですから。

 ②のロジックは、早口で聞いているとだまされる事だって多いものです。どこかに論者が思い込んでいてロジックが飛んでいるところはないか、ロジックが破綻しているところはないか、と考えてみると、①のそもそも前提となる事実はあっているのかと組み合わせると、主張が破綻している場合もあったりします。

 そして③では、事実の把握も良くて論理も正しい、しかし自分の現場感覚と合わない結論になるということがしばしばあります。自分の現場感覚とは個人の経験で狭い世界の特殊なことなのかもしれない、という危うさもあるのですが、一方でそこには理屈どおりには行かない生々しい事実と事情があるものです。
 現場を知っているということは立派な根拠なのだと思うことです。

 さて、人の話をこんな切り口で聞く訓練をしていたら、きっと物事を深く考えられるようになると思います。

 こういうものの見方の切り口ってこれだけではなくたくさんありますから、見つけたときは手帳に書き込んでおいてはいかがですか。 
 
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教えて!赤穂浪士

2009-12-14 23:29:34 | Weblog
 忘年会にうつつを抜かしていましたが、そうか今夜は赤穂浪士討ち入りの日でした。
 実際は開けた15日の朝四時くらいという説もあるようですが、日本人には印象の深い一日です。

 この赤穂浪士の討ち入りについて、意見交換がされていました。『MSN相談箱』というサイトでの質問と読者からの回答のやりとりをお楽しみください。

---------- 【ここから引用】 ----------
【MSN相談箱】問者:gokannbenn  赤穂浪士討ち入りについて
 http://questionbox.jp.msn.com/qa4785879.html





 ちょい歴史好きのおやじです。初歩的な質問で恐縮です。赤穂浪士の仇討ちについては、吉良側は事前に察知していたようですから、幕府は当然認識していたと思います。
しかし、実際は討ち入りが実行され、吉良は打ち首に。幕府は事実上見殺しにした形ですが、その理由はどこにあるのでしょうか?

 もし、世論を気にしてということなら、当時の幕政は世論の動向に左右されるようなものだったのでしょうか。世論という言葉は広い意味になりますので、この場合は、ごく一般庶民の見解ということでお願いします。どなたかお詳しい方、よろしくご教示下さい。
質問投稿日時:09/03/10 22:16


【これに対していくつかあったうちの回答の一つ】
回答者:bungetsu こんばんわ。

私は、自称「歴史作家」です。

>>幕府は当然認識していたと思います。しかし、実際は討ち入りが実行され、吉良は打ち首に。幕府は事実上見殺しにした形ですが、その理由はどこにあるのでしょうか?

 幕府は、ある程度「予測」をしていました。
初め吉良邸は江戸城内の呉服橋門内に屋敷がありましたが、浅野内匠頭との事件発後、本所松坂邸へ屋敷替えをしています。
 つまりは、江戸城(正式には、当時は、江戸城とは呼ばず、鶴舞城・ぶかくじょう、または、千代田城、庶民は、単なる「お城」と呼んでいましたが)、の近辺で「起こるであろう事件」には関わりたくない、と言う姿勢から、吉良の屋敷替えを行っています。

 そして、元禄15年(1703)12月14日の浅野内匠頭の月(つき)命日を向かえ、赤穂浪士47名が討ち入ったことになっていますが、実際には、12月15日午前4時頃と言われています。

 しかし、当時の幕府体制として、大名を取り締まるのは、「大目付」でありましたので、この「大目付」に届け出るのは、庶民や町民は「門前払い」で取り合ってはくれませんでした。

 つまりは、大名家から「申し出」があって「大目付」は出動する、と、言った条件でしたので、吉良邸からの届出が無くしては、「大目付」は一歩も動くことができませんでした。

 赤穂浪士が討ち入った時、吉良邸は、隣に土屋平八郎邸(赤穂びいき)で、大石内蔵助が討ち入った時、「我ら、主君浅野匠頭の無念を晴らすため参上。御隣家様には、しばしの騒動となりましょうが、平に御容赦お願いたてまつり候」と、口上を叫び。土屋平八郎は、「その方らの儀十分承知。塀を超えた者あらば、どちらの家中と言えども討ち果たすゆえ、存分に働きあれ」と、応えて、急ぎ、高張提灯を何本も立てたと言われています。
 また、吉良邸の裏門は回向院の墓地との境にありましたが、回向院は、「知らぬ存ぜぬ」を決め込んで裏門の鍵を開けませんでした。

 また、仮に「老中」とか「若年寄」が、その事実を聞いていたとしても、現代の役所の縦割り行政と同じく、「大目付」が出動すべきものであって、「我々には関係ない」と、言う状態でした。

 しかし、先にも述べた通り、吉良邸から誰一人として「大目付」に訴え出る者もできない状況でしたので、例え、「うわさ」や「周囲が騒がしい」と言っても、「訴え」のないものに対して「大目付」は一歩も動くことはできませんでした。

(よもやま話)
(1)町奉行所や火盗改などには「大名家」を取り締まる権限はなく、たとえ、事件を知ったとしても出張ることはできませんでした。
 確かに、赤穂の47人は浪人ですので街中で騒動を起こした時は、町奉行などが取り締まることはできましたが、吉良邸という大名家での事件では一歩も動くことはできませんし、もし、出張ったりすれば「越権行為」で逆に町奉行が罪になりました。
 なお、旗本や御家人を取り締まるのは「目付」でした。

(2)通常、罪を犯すと、当然、町奉行の管轄となり、伝馬町で入牢させられます。
この時、御目見(おめみえ=公方さま(将軍)に拝謁できる者)以上の直参およびこれに準ずる僧正、院家、紫衣を許された僧侶、神主などは、伝馬町の牢屋敷内にある揚屋敷(あげやしき)と呼ばれる座敷に留め置かれます。もちろん、監視をする役人も付きます。

(3)見事本懐を遂げた後、大石内蔵助は47名の中から寺坂吉右衛門に密命を託し(内匠頭の妻・瑤泉院や弟・大学(長広)、広島本家への報告のため、と、後の世に我らがどのようになるかを見とどけて欲しい、と言われ、また、47名の中でただ一人赤穂藩士ではなく藩士の吉田忠左衛門の家来だった)離脱させ、残りの46名は泉岳寺へ詣でたのち「評定所」に自首しました。

(4)評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩内部や藩と藩の争い、旗本と御家人への訴訟を扱うところでした。

(5)内蔵助の判断で、この「評定所」に自首したことで、町奉行所の手出しできないところとなったのです。つまりは、藩と藩の争いなのだ、と訴えたのです。

(6)評定所には、牢はありませんので、内蔵助一同は評定所内で待機していました。
直ちに、評定所からの上申で、時の将軍徳川綱吉が報告を受けた際、綱吉自身は、内蔵助らが作成した「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義」である、と、褒め讃えました。
このことは、老中会議でも阿部正武(あべまさたけ)や小笠原長重(おがさわらながしげ)らが、綱吉の裁定に賛意を述べました。
 しかし、側用人であった柳沢吉保は、「忠義」だけで政(まさりごと)をしていたのでは、世情の統制がきかない、と反論しました。
 そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤(はやしのぶあつ)と柳沢吉保のお抱え学者であった荻生徂徠(おぎゅうそらい)の2人を呼び議論させました。
 この2人がそれぞれ賛成、反対意見を述べ、最終的には、綱吉が2人の意見の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けとなり、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕方より各家において全員が切腹した。

(7)お分かりとは思いますが、「切腹」は当時の武士の死に方としては「名誉」であったし、また、世論に配慮して、浪士たちを幕府は「武士」と認めたことに大きな意義があった。

(8)綱吉が死去すると、6代将軍家宣の就任に伴う恩赦で、浅野大学は500石+広島浅野本家より300石を受けることとなり、旗本寄合に復活。

(9)46名の子息の中で15歳未満は15歳になると、八丈島や三宅島への「島流し(=遠島)」のはずであったが、すべて「恩赦」。島流しにされていた者もすべて江戸へ帰っています。

(10)内蔵助に密命を受けて離脱した寺坂吉右衛門はすべての事後処理が終わった後、大目付仙石伯耆守(ほうきのかみ)に自首したが、身分軽きゆえお咎めがなく。かえって、金子10両を与えられ解放された。その後、他家に仕えたり、江戸に出てきて寺男などをして83歳の天寿をまっとうした。

(11)柳沢吉保の後ろ盾であった荻生徂徠自身も、後に「その志を推すに、また義というべきものなり」と浪士の「忠義心」を認めていたという。

(12)現在の住所は、東京都墨田区両国3-13-9
現在は本所松坂町公園として開放され、吉良首洗いの井戸や稲荷神社がある。両国橋を渡って「回向院」の隣に邸宅があった。

(13)地図:
​​http://www.tokyoguide.net/spot/17/map/​​

あなたのお役にたてたでしょうか。

    ※    ※    ※    ※

【この回答へのお礼】
 ご丁寧なご回答に感謝申し上げます。今までご回答いただいた皆様のお話に、歴史作家様のご回答を拝見したことで、つたない私の脳の中にも、芝居やドラマとは別な形の、歴史的事実のもとづく討ち入りの様子が、かなり鮮明に浮かんでくるようになりました。これを機に、自身でもさらに勉強を進めたいと思います。このようなかなり著名な事柄についても、まだまだ不明な点やようやく明らかになりつつ点があるなど、歴史の深さが、50数年も生きてきて、ようやく感じられるようになりました。ありがとうございました。

---------- 【引用ここまで】 ----------

 赤穂浪士の討ち入りはその後各種の芝居にもそのモチーフが描かれて、後の町民から喝采を受けましたが、実際の事件が起こった直後というのはいろいろなパニックがあったことでしょう。

 その評価も印象と方に照らした考え方との間にも葛藤があったことが伺えます。しかしこうした問いをネット上に発することで、いろいろな人の持っている情報を互いに交換することが出来ます。これもまさに集合知の一つでしょう。

 この機会に改めて赤穂浪士の真実を勉強してみたくなりました。
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美しい街並み~ときわ台住宅

2009-12-13 23:48:01 | Weblog
 年賀状の一言添えもほぼ目処がついたことから、今年どうしても見ておきたかった風景を見に、本当に久しぶりに自転車を担ぎ出しました。

 見ておきたかったのは、東武東上線の「ときわ台駅」北側に広がる常盤台住宅団地。

 ここは、鉄道会社が沿線の住宅地開発を始めた昭和10頃から進められた住宅地開発事業で、先輩格の田園調布を意識して設計されたものです。

 その特徴は、住宅地の街並みで自動車といかに生活を競合させるかに苦労している点。通過交通の自動車がむやみにスピードを出して危ない目に遭わないように道路の中心に樹木を植えて一方通行の道路にしたり、家の前を車が通る危険を減らすためにクルドサック(フランス語で袋小路の意味)と呼ばれる回転場を作るなど工夫が凝らされているのです。
 地図の中に丸い輪っかが見えますか?





 実際行ってみるとこのあたりは確かに良好な住宅地で、一軒あたりの土地の面積も広ければ、樹木を植えた家も多く、本当に閑静な古くからの高級住宅地という感じがしました。




 もっとも最近ではここに住みたくても面積が大きいと土地代が高いということもあり、一軒の敷地を分割して売却するようなことも出始めていて、住民からは「それをすると地域のレベルが下がる」としてちょっとした紛争の種にもなっているよう。

 良い住宅地を作るのも難しいのですが、それを維持するのはさらに難しいのです。





    ※    ※    ※    ※

 ところで、久しぶりに自転車を取りだしたのは良いのですが、出発の池袋駅で自転車を組み立てたところ前輪がパンクしているのを発見。

 一瞬呆然としましたが、幸いネットブックをリュックサックに入れていたのと、幸いなことに駅前が無線LANの使える場所だったために、これで池袋駅近くのサイクルショップが検索できました。

 そしてそのショップの住所へは携帯電話の地図機能を使ってたどり着き、なんとかパンクを修理してもらえました。どうやら空気が減ったままチューブが折れていたところへ高圧の空気を入れたのが悪かったのかも。

 パンクを発見してから修理まで約1時間を無駄にしましたが、よく1時間で済んだものです。これもITのおかげです。

 しかしそう言えば仲間の自転車乗り達はみんな予備のチューブを持ち歩いていましたし、パンクしたらすぐに自力で直してしまったのを思い出しました。

 一人前の自転車乗りになるためには、私もパンク修理の実技を身につけなくてはならないのですね。とんだ教訓でした。
 
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清潔もほどほどに

2009-12-12 23:52:39 | Weblog
 日本人の清潔好きは世界でも有名ですが、過度の清潔は自己免疫力を弱めるみたいです。

---------- 【ここから引用】 ----------
【AFPBBニュース】幼少期の清潔すぎる環境は成人後の疾病リスクを高める 2009年12月10日 09:59 発信地:ワシントンD.C./米国
  http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2673173/5019874





 研究の主著者である米ノースウエスタン大(Northwestern University)のトーマス・マクデイド(Thomas McDade)准教授(人類学)は「幼少期に非常に清潔で衛生的な環境にいると、成人してから炎症を起こしやすくなり、多様な疾病にかかるリスクが高まる可能性があることが分かった」としている。

 研究チームは、フィリピンの大学が行った、子ども時代の環境がタンパク質の生成にもたらす影響に関する調査を分析した。タンパク質は炎症が起こると増加する。これは体が感染やけがと闘っているサインとみることができる。

 調査は1980年代にフィリピンで生まれた子ども3327人の母親を対象に、最初の2年は2か月ごとに、その後は子どもが20代になるまで4~5年ごとに、子どもを取り巻く衛生環境などについて追跡調査するもの。

 研究チームは調査の中から、ブタや犬などの家畜が放し飼いになっているかなどの「衛生状態」と家族の「社会経済的状態」を分析。その結果、フィリピン人は米国人に比べ、幼少期にずっと多くの感染症にかかっている一方、成人後の血中C反応性タンパク(CRP)の濃度は80%も低いことが分かった。フィリピン人の20代前半の平均CRP濃度が1リットル当たり0.2ミリグラムだったのに対し、米国人のそれは1.0~1.5ミリグラムだった。

 研究から、CRP濃度の高い成人は、幼少期に家庭で動物の排泄物にさらされる機会が少なかったことが分かった。

 マクデイド准教授は、幼少期に一般的な微生物や細菌にさらされることが重要だと指摘する。「これらの微生物や細菌が臨床疾患につながることは決してない一方、調節ネットワークの形成において重要な役割を果たす」のだという。

 准教授は、免疫系の発達にも脳の発達と同様に環境との関わりが必要だとし、自身の2歳半の息子が床に食べ物を落としたときには、「迷うことなく拾って食べるように言う」のだそうだ。(c)AFP/Karin Zeitvogel

---------- 【引用ここまで】 ----------

 日本で生活をする分にはなんでもない人でも、中国やインドなどへ行くとすぐに下してしまうみたいです。
 
 バングラデシュに数年間滞在したことのある知人は、「向こうにいる間はずっと腸が緩かったですよ。腸の中で細菌が入れ替わるような気がしたものです」と言っていました。

 普通の日本人ならば、そうしたところへの旅行中は瓶詰めのミネラルウォーターかビールしか飲めないのが普通のようですし。

 日本では当たり前の清潔の度合いも、世界標準では過保護ということなのでしょうね。日本で落としたものを拾って食べるくらいではとても世界標準には追いつかないかもしれませんが、それでも3秒ルールなどで落としたものも素早く拾って食べるようにしたいものです。

 そのことが自分を鍛えていることだったとはねえ。生活のレベルが高すぎるというのも考えもの。不便や少し足りないくらいがちょうど良いのかもしれません。

 占いでも中吉が良い、大吉だったらあとは下がるだけ、と言いますもんね。
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