忘年会にうつつを抜かしていましたが、そうか今夜は赤穂浪士討ち入りの日でした。
実際は開けた15日の朝四時くらいという説もあるようですが、日本人には印象の深い一日です。
この赤穂浪士の討ち入りについて、意見交換がされていました。『MSN相談箱』というサイトでの質問と読者からの回答のやりとりをお楽しみください。
---------- 【ここから引用】 ----------
【MSN相談箱】問者:gokannbenn 赤穂浪士討ち入りについて
http://questionbox.jp.msn.com/qa4785879.html
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/1a/a51ccf0df43793688a04777922fa12c4.jpg)
ちょい歴史好きのおやじです。初歩的な質問で恐縮です。赤穂浪士の仇討ちについては、吉良側は事前に察知していたようですから、幕府は当然認識していたと思います。
しかし、実際は討ち入りが実行され、吉良は打ち首に。幕府は事実上見殺しにした形ですが、その理由はどこにあるのでしょうか?
もし、世論を気にしてということなら、当時の幕政は世論の動向に左右されるようなものだったのでしょうか。世論という言葉は広い意味になりますので、この場合は、ごく一般庶民の見解ということでお願いします。どなたかお詳しい方、よろしくご教示下さい。
質問投稿日時:09/03/10 22:16
【これに対していくつかあったうちの回答の一つ】
回答者:bungetsu こんばんわ。
私は、自称「歴史作家」です。
>>幕府は当然認識していたと思います。しかし、実際は討ち入りが実行され、吉良は打ち首に。幕府は事実上見殺しにした形ですが、その理由はどこにあるのでしょうか?
幕府は、ある程度「予測」をしていました。
初め吉良邸は江戸城内の呉服橋門内に屋敷がありましたが、浅野内匠頭との事件発後、本所松坂邸へ屋敷替えをしています。
つまりは、江戸城(正式には、当時は、江戸城とは呼ばず、鶴舞城・ぶかくじょう、または、千代田城、庶民は、単なる「お城」と呼んでいましたが)、の近辺で「起こるであろう事件」には関わりたくない、と言う姿勢から、吉良の屋敷替えを行っています。
そして、元禄15年(1703)12月14日の浅野内匠頭の月(つき)命日を向かえ、赤穂浪士47名が討ち入ったことになっていますが、実際には、12月15日午前4時頃と言われています。
しかし、当時の幕府体制として、大名を取り締まるのは、「大目付」でありましたので、この「大目付」に届け出るのは、庶民や町民は「門前払い」で取り合ってはくれませんでした。
つまりは、大名家から「申し出」があって「大目付」は出動する、と、言った条件でしたので、吉良邸からの届出が無くしては、「大目付」は一歩も動くことができませんでした。
赤穂浪士が討ち入った時、吉良邸は、隣に土屋平八郎邸(赤穂びいき)で、大石内蔵助が討ち入った時、「我ら、主君浅野匠頭の無念を晴らすため参上。御隣家様には、しばしの騒動となりましょうが、平に御容赦お願いたてまつり候」と、口上を叫び。土屋平八郎は、「その方らの儀十分承知。塀を超えた者あらば、どちらの家中と言えども討ち果たすゆえ、存分に働きあれ」と、応えて、急ぎ、高張提灯を何本も立てたと言われています。
また、吉良邸の裏門は回向院の墓地との境にありましたが、回向院は、「知らぬ存ぜぬ」を決め込んで裏門の鍵を開けませんでした。
また、仮に「老中」とか「若年寄」が、その事実を聞いていたとしても、現代の役所の縦割り行政と同じく、「大目付」が出動すべきものであって、「我々には関係ない」と、言う状態でした。
しかし、先にも述べた通り、吉良邸から誰一人として「大目付」に訴え出る者もできない状況でしたので、例え、「うわさ」や「周囲が騒がしい」と言っても、「訴え」のないものに対して「大目付」は一歩も動くことはできませんでした。
(よもやま話)
(1)町奉行所や火盗改などには「大名家」を取り締まる権限はなく、たとえ、事件を知ったとしても出張ることはできませんでした。
確かに、赤穂の47人は浪人ですので街中で騒動を起こした時は、町奉行などが取り締まることはできましたが、吉良邸という大名家での事件では一歩も動くことはできませんし、もし、出張ったりすれば「越権行為」で逆に町奉行が罪になりました。
なお、旗本や御家人を取り締まるのは「目付」でした。
(2)通常、罪を犯すと、当然、町奉行の管轄となり、伝馬町で入牢させられます。
この時、御目見(おめみえ=公方さま(将軍)に拝謁できる者)以上の直参およびこれに準ずる僧正、院家、紫衣を許された僧侶、神主などは、伝馬町の牢屋敷内にある揚屋敷(あげやしき)と呼ばれる座敷に留め置かれます。もちろん、監視をする役人も付きます。
(3)見事本懐を遂げた後、大石内蔵助は47名の中から寺坂吉右衛門に密命を託し(内匠頭の妻・瑤泉院や弟・大学(長広)、広島本家への報告のため、と、後の世に我らがどのようになるかを見とどけて欲しい、と言われ、また、47名の中でただ一人赤穂藩士ではなく藩士の吉田忠左衛門の家来だった)離脱させ、残りの46名は泉岳寺へ詣でたのち「評定所」に自首しました。
(4)評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩内部や藩と藩の争い、旗本と御家人への訴訟を扱うところでした。
(5)内蔵助の判断で、この「評定所」に自首したことで、町奉行所の手出しできないところとなったのです。つまりは、藩と藩の争いなのだ、と訴えたのです。
(6)評定所には、牢はありませんので、内蔵助一同は評定所内で待機していました。
直ちに、評定所からの上申で、時の将軍徳川綱吉が報告を受けた際、綱吉自身は、内蔵助らが作成した「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義」である、と、褒め讃えました。
このことは、老中会議でも阿部正武(あべまさたけ)や小笠原長重(おがさわらながしげ)らが、綱吉の裁定に賛意を述べました。
しかし、側用人であった柳沢吉保は、「忠義」だけで政(まさりごと)をしていたのでは、世情の統制がきかない、と反論しました。
そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤(はやしのぶあつ)と柳沢吉保のお抱え学者であった荻生徂徠(おぎゅうそらい)の2人を呼び議論させました。
この2人がそれぞれ賛成、反対意見を述べ、最終的には、綱吉が2人の意見の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けとなり、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕方より各家において全員が切腹した。
(7)お分かりとは思いますが、「切腹」は当時の武士の死に方としては「名誉」であったし、また、世論に配慮して、浪士たちを幕府は「武士」と認めたことに大きな意義があった。
(8)綱吉が死去すると、6代将軍家宣の就任に伴う恩赦で、浅野大学は500石+広島浅野本家より300石を受けることとなり、旗本寄合に復活。
(9)46名の子息の中で15歳未満は15歳になると、八丈島や三宅島への「島流し(=遠島)」のはずであったが、すべて「恩赦」。島流しにされていた者もすべて江戸へ帰っています。
(10)内蔵助に密命を受けて離脱した寺坂吉右衛門はすべての事後処理が終わった後、大目付仙石伯耆守(ほうきのかみ)に自首したが、身分軽きゆえお咎めがなく。かえって、金子10両を与えられ解放された。その後、他家に仕えたり、江戸に出てきて寺男などをして83歳の天寿をまっとうした。
(11)柳沢吉保の後ろ盾であった荻生徂徠自身も、後に「その志を推すに、また義というべきものなり」と浪士の「忠義心」を認めていたという。
(12)現在の住所は、東京都墨田区両国3-13-9
現在は本所松坂町公園として開放され、吉良首洗いの井戸や稲荷神社がある。両国橋を渡って「回向院」の隣に邸宅があった。
(13)地図:
http://www.tokyoguide.net/spot/17/map/
あなたのお役にたてたでしょうか。
※ ※ ※ ※
【この回答へのお礼】
ご丁寧なご回答に感謝申し上げます。今までご回答いただいた皆様のお話に、歴史作家様のご回答を拝見したことで、つたない私の脳の中にも、芝居やドラマとは別な形の、歴史的事実のもとづく討ち入りの様子が、かなり鮮明に浮かんでくるようになりました。これを機に、自身でもさらに勉強を進めたいと思います。このようなかなり著名な事柄についても、まだまだ不明な点やようやく明らかになりつつ点があるなど、歴史の深さが、50数年も生きてきて、ようやく感じられるようになりました。ありがとうございました。
---------- 【引用ここまで】 ----------
赤穂浪士の討ち入りはその後各種の芝居にもそのモチーフが描かれて、後の町民から喝采を受けましたが、実際の事件が起こった直後というのはいろいろなパニックがあったことでしょう。
その評価も印象と方に照らした考え方との間にも葛藤があったことが伺えます。しかしこうした問いをネット上に発することで、いろいろな人の持っている情報を互いに交換することが出来ます。これもまさに集合知の一つでしょう。
この機会に改めて赤穂浪士の真実を勉強してみたくなりました。
実際は開けた15日の朝四時くらいという説もあるようですが、日本人には印象の深い一日です。
この赤穂浪士の討ち入りについて、意見交換がされていました。『MSN相談箱』というサイトでの質問と読者からの回答のやりとりをお楽しみください。
---------- 【ここから引用】 ----------
【MSN相談箱】問者:gokannbenn 赤穂浪士討ち入りについて
http://questionbox.jp.msn.com/qa4785879.html
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/45/1a/a51ccf0df43793688a04777922fa12c4.jpg)
ちょい歴史好きのおやじです。初歩的な質問で恐縮です。赤穂浪士の仇討ちについては、吉良側は事前に察知していたようですから、幕府は当然認識していたと思います。
しかし、実際は討ち入りが実行され、吉良は打ち首に。幕府は事実上見殺しにした形ですが、その理由はどこにあるのでしょうか?
もし、世論を気にしてということなら、当時の幕政は世論の動向に左右されるようなものだったのでしょうか。世論という言葉は広い意味になりますので、この場合は、ごく一般庶民の見解ということでお願いします。どなたかお詳しい方、よろしくご教示下さい。
質問投稿日時:09/03/10 22:16
【これに対していくつかあったうちの回答の一つ】
回答者:bungetsu こんばんわ。
私は、自称「歴史作家」です。
>>幕府は当然認識していたと思います。しかし、実際は討ち入りが実行され、吉良は打ち首に。幕府は事実上見殺しにした形ですが、その理由はどこにあるのでしょうか?
幕府は、ある程度「予測」をしていました。
初め吉良邸は江戸城内の呉服橋門内に屋敷がありましたが、浅野内匠頭との事件発後、本所松坂邸へ屋敷替えをしています。
つまりは、江戸城(正式には、当時は、江戸城とは呼ばず、鶴舞城・ぶかくじょう、または、千代田城、庶民は、単なる「お城」と呼んでいましたが)、の近辺で「起こるであろう事件」には関わりたくない、と言う姿勢から、吉良の屋敷替えを行っています。
そして、元禄15年(1703)12月14日の浅野内匠頭の月(つき)命日を向かえ、赤穂浪士47名が討ち入ったことになっていますが、実際には、12月15日午前4時頃と言われています。
しかし、当時の幕府体制として、大名を取り締まるのは、「大目付」でありましたので、この「大目付」に届け出るのは、庶民や町民は「門前払い」で取り合ってはくれませんでした。
つまりは、大名家から「申し出」があって「大目付」は出動する、と、言った条件でしたので、吉良邸からの届出が無くしては、「大目付」は一歩も動くことができませんでした。
赤穂浪士が討ち入った時、吉良邸は、隣に土屋平八郎邸(赤穂びいき)で、大石内蔵助が討ち入った時、「我ら、主君浅野匠頭の無念を晴らすため参上。御隣家様には、しばしの騒動となりましょうが、平に御容赦お願いたてまつり候」と、口上を叫び。土屋平八郎は、「その方らの儀十分承知。塀を超えた者あらば、どちらの家中と言えども討ち果たすゆえ、存分に働きあれ」と、応えて、急ぎ、高張提灯を何本も立てたと言われています。
また、吉良邸の裏門は回向院の墓地との境にありましたが、回向院は、「知らぬ存ぜぬ」を決め込んで裏門の鍵を開けませんでした。
また、仮に「老中」とか「若年寄」が、その事実を聞いていたとしても、現代の役所の縦割り行政と同じく、「大目付」が出動すべきものであって、「我々には関係ない」と、言う状態でした。
しかし、先にも述べた通り、吉良邸から誰一人として「大目付」に訴え出る者もできない状況でしたので、例え、「うわさ」や「周囲が騒がしい」と言っても、「訴え」のないものに対して「大目付」は一歩も動くことはできませんでした。
(よもやま話)
(1)町奉行所や火盗改などには「大名家」を取り締まる権限はなく、たとえ、事件を知ったとしても出張ることはできませんでした。
確かに、赤穂の47人は浪人ですので街中で騒動を起こした時は、町奉行などが取り締まることはできましたが、吉良邸という大名家での事件では一歩も動くことはできませんし、もし、出張ったりすれば「越権行為」で逆に町奉行が罪になりました。
なお、旗本や御家人を取り締まるのは「目付」でした。
(2)通常、罪を犯すと、当然、町奉行の管轄となり、伝馬町で入牢させられます。
この時、御目見(おめみえ=公方さま(将軍)に拝謁できる者)以上の直参およびこれに準ずる僧正、院家、紫衣を許された僧侶、神主などは、伝馬町の牢屋敷内にある揚屋敷(あげやしき)と呼ばれる座敷に留め置かれます。もちろん、監視をする役人も付きます。
(3)見事本懐を遂げた後、大石内蔵助は47名の中から寺坂吉右衛門に密命を託し(内匠頭の妻・瑤泉院や弟・大学(長広)、広島本家への報告のため、と、後の世に我らがどのようになるかを見とどけて欲しい、と言われ、また、47名の中でただ一人赤穂藩士ではなく藩士の吉田忠左衛門の家来だった)離脱させ、残りの46名は泉岳寺へ詣でたのち「評定所」に自首しました。
(4)評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩内部や藩と藩の争い、旗本と御家人への訴訟を扱うところでした。
(5)内蔵助の判断で、この「評定所」に自首したことで、町奉行所の手出しできないところとなったのです。つまりは、藩と藩の争いなのだ、と訴えたのです。
(6)評定所には、牢はありませんので、内蔵助一同は評定所内で待機していました。
直ちに、評定所からの上申で、時の将軍徳川綱吉が報告を受けた際、綱吉自身は、内蔵助らが作成した「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義」である、と、褒め讃えました。
このことは、老中会議でも阿部正武(あべまさたけ)や小笠原長重(おがさわらながしげ)らが、綱吉の裁定に賛意を述べました。
しかし、側用人であった柳沢吉保は、「忠義」だけで政(まさりごと)をしていたのでは、世情の統制がきかない、と反論しました。
そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤(はやしのぶあつ)と柳沢吉保のお抱え学者であった荻生徂徠(おぎゅうそらい)の2人を呼び議論させました。
この2人がそれぞれ賛成、反対意見を述べ、最終的には、綱吉が2人の意見の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けとなり、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕方より各家において全員が切腹した。
(7)お分かりとは思いますが、「切腹」は当時の武士の死に方としては「名誉」であったし、また、世論に配慮して、浪士たちを幕府は「武士」と認めたことに大きな意義があった。
(8)綱吉が死去すると、6代将軍家宣の就任に伴う恩赦で、浅野大学は500石+広島浅野本家より300石を受けることとなり、旗本寄合に復活。
(9)46名の子息の中で15歳未満は15歳になると、八丈島や三宅島への「島流し(=遠島)」のはずであったが、すべて「恩赦」。島流しにされていた者もすべて江戸へ帰っています。
(10)内蔵助に密命を受けて離脱した寺坂吉右衛門はすべての事後処理が終わった後、大目付仙石伯耆守(ほうきのかみ)に自首したが、身分軽きゆえお咎めがなく。かえって、金子10両を与えられ解放された。その後、他家に仕えたり、江戸に出てきて寺男などをして83歳の天寿をまっとうした。
(11)柳沢吉保の後ろ盾であった荻生徂徠自身も、後に「その志を推すに、また義というべきものなり」と浪士の「忠義心」を認めていたという。
(12)現在の住所は、東京都墨田区両国3-13-9
現在は本所松坂町公園として開放され、吉良首洗いの井戸や稲荷神社がある。両国橋を渡って「回向院」の隣に邸宅があった。
(13)地図:
http://www.tokyoguide.net/spot/17/map/
あなたのお役にたてたでしょうか。
※ ※ ※ ※
【この回答へのお礼】
ご丁寧なご回答に感謝申し上げます。今までご回答いただいた皆様のお話に、歴史作家様のご回答を拝見したことで、つたない私の脳の中にも、芝居やドラマとは別な形の、歴史的事実のもとづく討ち入りの様子が、かなり鮮明に浮かんでくるようになりました。これを機に、自身でもさらに勉強を進めたいと思います。このようなかなり著名な事柄についても、まだまだ不明な点やようやく明らかになりつつ点があるなど、歴史の深さが、50数年も生きてきて、ようやく感じられるようになりました。ありがとうございました。
---------- 【引用ここまで】 ----------
赤穂浪士の討ち入りはその後各種の芝居にもそのモチーフが描かれて、後の町民から喝采を受けましたが、実際の事件が起こった直後というのはいろいろなパニックがあったことでしょう。
その評価も印象と方に照らした考え方との間にも葛藤があったことが伺えます。しかしこうした問いをネット上に発することで、いろいろな人の持っている情報を互いに交換することが出来ます。これもまさに集合知の一つでしょう。
この機会に改めて赤穂浪士の真実を勉強してみたくなりました。