朝早くに地方にいるはずの知人のAさんからメールが入っていました。「無理はしなくて良いんだけど、今東京にいて午後に帰るまで時間があるんだけど会えませんか?」とのこと。一瞬迷ったのですが、しばらく会っていないのと天気も良いので、これも何かの縁と、東京駅まで出かけて行きました。
今日は東京駅前の丸の内界隈を案内することに。このあたりは明治時代に岩崎家の三菱財閥が政府から土地の払い下げを受けて以来、三菱系の開発が進められてきました。
エリアの中でもわりと南の方はロンドンの街並みをイメージした赤レンガによる建物群が建てられ「一丁倫敦」と呼ばれました。
その後、大正三年に東京駅が出来ると、その北側エリアで鉄筋コンクリートの建物群が建ち始め、こちらは「一丁紐育(いっちょうニューヨーク)」と呼ばれるようになりました。その代表的な建物が初代の丸の内ビル、いわゆる丸ビルです。
この地域では建物の高さを31mに決めて、その高さで揃えられました。31mというのは百尺のこと。
この高さのコードは、新しくできた丸ビルでも景観の重要な構成要素になっていて、低層部分は31mの高さで作られ、超高層はその奥に建てられるようになっています。
【昔の丸ビル】
【新しい丸ビル】
この地域では地権者やビルオーナーが中心になった再開発協議会を作っていて、ひとたびビルを建て替える時はこうしたデザインコードを大事にしようという合意が形成されているのです。
こうしたお話をすると、Aさんは「うわあ、何度もここは通っていますがそういう目でこの地域を見たことはありませんでした」と驚いていました。
まちづくりも「民間にもできる」と言いますが、丸の内地区の一つの理想をつくり、これを継承しようという息の長い活動は本当に例外。大地主だからこそできるチャンピオン級の地域マネジメントです。
まちづくりは何がよいのか、という理想やビジョンを持つことが大切で、良い町が何なのか、ということが分からない人には良い町をデザインすることは出来ません。まさに目の肥えた目利きの世界でもあるのです。
【参考(写真も)】
丸ビルの歴史 http://www.marunouchi.com/marubiru/about/history.html
今日は東京駅前の丸の内界隈を案内することに。このあたりは明治時代に岩崎家の三菱財閥が政府から土地の払い下げを受けて以来、三菱系の開発が進められてきました。
エリアの中でもわりと南の方はロンドンの街並みをイメージした赤レンガによる建物群が建てられ「一丁倫敦」と呼ばれました。
その後、大正三年に東京駅が出来ると、その北側エリアで鉄筋コンクリートの建物群が建ち始め、こちらは「一丁紐育(いっちょうニューヨーク)」と呼ばれるようになりました。その代表的な建物が初代の丸の内ビル、いわゆる丸ビルです。
この地域では建物の高さを31mに決めて、その高さで揃えられました。31mというのは百尺のこと。
この高さのコードは、新しくできた丸ビルでも景観の重要な構成要素になっていて、低層部分は31mの高さで作られ、超高層はその奥に建てられるようになっています。
【昔の丸ビル】
【新しい丸ビル】
この地域では地権者やビルオーナーが中心になった再開発協議会を作っていて、ひとたびビルを建て替える時はこうしたデザインコードを大事にしようという合意が形成されているのです。
こうしたお話をすると、Aさんは「うわあ、何度もここは通っていますがそういう目でこの地域を見たことはありませんでした」と驚いていました。
まちづくりも「民間にもできる」と言いますが、丸の内地区の一つの理想をつくり、これを継承しようという息の長い活動は本当に例外。大地主だからこそできるチャンピオン級の地域マネジメントです。
まちづくりは何がよいのか、という理想やビジョンを持つことが大切で、良い町が何なのか、ということが分からない人には良い町をデザインすることは出来ません。まさに目の肥えた目利きの世界でもあるのです。
【参考(写真も)】
丸ビルの歴史 http://www.marunouchi.com/marubiru/about/history.html