興趣つきぬ日々

僅椒亭余白 (きんしょうてい よはく) の美酒・美味探訪 & 世相観察

鍋卓にうまくのぞむ法

2006-03-04 | チラッと世相観察
 わたしは鍋の席が苦手である。
 寄せ鍋、スキヤキ、焼肉、チゲ鍋…、どんな鍋でも、気のおけない仲間が和気靄々つつきあうのは楽しいし、‘気のおける’者同士でも、親しみを増し、一体感を深めるのに役立つ。

 しかし一方で、鍋は、囲む人それぞれに、
(自分の取り分が確保できるかな…)
といういくばくかの不安を与えてはいないだろうか。
「いいえ、わたしはいただかなくても、まわりの人たちが十分食べて満足してくだされば、それで幸せ(^.^#)」
という奇特な人もいるかもしれないが、まれであろう。

 若い頃、家内の実家に行って、ジンギスカン鍋をふるまわれたことがある。まだ結婚まもないわたしは、会うのが2~3回目の義兄家族といっしょのテーブルに、遠慮がちについた。
 わたしの隣にすわったのは、食べ盛りの姪(家内の)であった。当時小学校の低学年だったと思う。わたしが目の前のラム(小羊肉)の一切れを大事に焼き育て、焼き上がり具合を見て食べようとすると、まだ前の肉をモグモグ、口のなかに入れている姪の箸がさっとそれを持ち去った。
 次の肉も、またその次の肉も、この容赦ない箸に拉致されていったのである。
 気の弱い新婿は2~3切れのラム肉にしかありつけず、欲求不満のうちにその昼食を終えたのであった。

 家(うち)では、もちろん、わたしに遠慮はない。
 子供たちが食べ盛りの頃、よく焼肉をしたものだが、もう、取り合いであった。和やかな会話など、ない。
「張り合って食べることないでしょ」
と家内にあきれられたが、ビールでも飲んでゆっくり構えていた日には(ほんとはそうしたい)、肉はまたたくまに消え失せる。張り合うのは、不本意ながら、であった。

 会社の宴会での鍋のときは、わたしはおとなしい。
 恰好をつけているのである。
 以前、わが社にMさんという人がいた。遠慮のない人であった。
“Mさんと同じ鍋テーブルになることの悲劇”
が、社内でことあるごとに語られたものである。そうはなりたくないではないか。

 かといって、恰好をつけ、遠慮をしているだけではやはり不満が残る。
 それでは、鍋卓にうまくのぞむには、どうすればよいのだろうか。
 それには、二つの道があるように思う。
(1)自分が鍋奉行になる
 ゴミ奉行とならんで、まわりに好かれないが、いわば必要悪のようなもの。
(2)鍋巧者になる
 座持ちがよく、相手を立て、十分食べてもらいながら、いやみなく自分もしっかり食べる。(こういう人には、あまり出会わないなァ……)
 この二者になるには、どちらも資質と修練が要る。わたしにはとてもできそうもない。鍋の席が苦手な所以である。

2001.9.23

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