prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「脅迫 おどし」

2021年12月17日 | 映画
西村晃と室田日出男の銀行強盗が、三國連太郎と春川ますみと小さな息子の一家に押し入って立て籠るサスペンスもの。
明らかにジョゼフ⋅ヘイズ原作脚本、ウィリアム⋅ワイラー監督の「必死の逃亡者」(1956)の日本版。
監督は深作欣二、脚本は宮川一郎との共作。1966年公開。

特に逃亡用の金の目処がつくまでの期間、妻子を人質にとられた三國が疑われないようにいつもと同じように会社に出かけて何事もなかったかのように振る舞うあたり。

ただ三國がやっていると、そのまま妻子を見捨てて逃げやしないか別のサスペンスも出る。事実、帰るのやめようかと迷う場面がある。「必死」のフレデリック・マーチでは考えにくい。

出社したはいいが誰もいないので警備員にどうしたのか訊くと、今日は土曜で半ドンですよと言われる。1966年は週休二日などなかったわけ。半ドンというのも死語に近いか。

子供の目覚まし時計の盤面にドナルド⋅ダックとミッキー⋅マウスがもろに描いてある。今だったらディズニーが文句つけるだろうな。

屋内シーンの演出はワイラーの緻密さは望むべくもない(日本家屋だと狭すぎて、よく近所にバレないなと思う)が、ロケシーンは今とはまるで違う高度成長期の東京の粗っぽいごたごたした街が写っている。

西村晃がさすがに悪役を好演。室田日出男は東映の組合活動をやりすぎて干されていたのを深作が一筆入れさせて出演したのだという。
ただし、また会社相手に暴れていったん解雇されたのを、復帰してピラニア軍団として人気を得ることになる。
ここでもでかい図体で大暴れしているのが地に見える。





 

「ラストナイト⋅イン⋅ソーホー」

2021年12月16日 | 映画
ロンドンが舞台というのが効いていて、スマホを使っていたり電子タバコがセリフのなかに出てきたりはしていても、街も建物の中も70年代からあまり変わっていないので、現代と過去が行き来すると自然とつながってしまう悪夢感覚に寄与している。

全編にわたる悪夢表現が見もので、主役の二人の女優、トーマシン・マッケンジーと アニヤ・テイラー=ジョイが鏡を挟んでいるところは、ありがちなデジタル合成も使うがアナログで処理しているところもかなりあるのではないか。
つまりマルクス兄弟の「我輩はカモである」の兄弟が鏡が割れているのに気づかないでお互いを鏡に写った自分と思うシーンみたいに。ドリフの「全員集合」で志村けんと加藤茶が真似していた方が馴染みがあるか。
ダンスしている間に二人が入れ替わるシーンは、こういう具合にえらいアナログなやり方で撮っていた。

鏡だけでなく、あらゆる技巧をこらして二人が並立し対立し入れ替わる様子を縦横無尽に交錯させる演出は見もの。

基本には地方から大都会に出てきて享楽的な環境で性的刺激に晒された女の子が興味と恐怖を共に味わい不安定になっている精神状態の映像化といった性格が強い。
ちょっとポランスキーの「反撥」みたいだなと思ったら、果たせるかなラスト近くにそっくりの場面が出てきた。

最初のシーンでヒロインの部屋に「ティファニーで朝食を」のポスターが貼ってあるのには字幕が出るが、「スイート⋅チャリティー」には出ない。何故。

「SNS 少女たちの10日間」

2021年12月15日 | 映画
邦題に偽りありで、少女たちは出てこない。出てくるのは12歳に見える成人女性たち。というか、これは未成年を出さない、出してはいけないという倫理上につくられている。
その意味でこのタイトルは不必要に少女という言葉で気を引こうとしていないか、それは作品自体の狙いに反していないか疑問がある。

このドキュメンタリーの作者たちは、現在未成年たちがSNSを通じてどういう性的暴力に晒されているのか記録すべく、成人女性を未成年に仕立てて本物のSNS(主にFacebook)にフェイク写真やプロフィールをアップして、年少者に性的関心を持つ連中がアクセスしてくるのを待って撮影するという方法をとった。というか、待つまでもなくアップした途端に2000人以上が群がってくるのだから呆れてしまう。

この変態たちの変態ぶりがもう気持ち悪いのなんの。フェイクとはいえ子供相手に局部は見せるは、裸になれと命令するわ、獣姦の写真は送りつけるわ、犯罪現場の中継そのもの。
その中には青少年キャンプの指導者すらいるのだから、エンドタイトルで警察が介入したと出るのも当然。

この映画の公式サイトで監督が、
「正直に言うと、一つだけ私を非常に驚かせたことがありました。少なくとも10年間以上前から存在していた現象だとは知ってはいましたが、近年、少年少女たちが自分の裸体の価値に気付き、躊躇いもなくそれを売るようになったということです。ただ仲間外れにされたくない、ただ携帯のアプリが買いたい、というような単純な理由のために」
とあるが、日本でもそれは聞いたことがある。頭が痛い。

成人と未成年の線引きは自分のやることを判断でき責任をとれるところにあるだろうが、カネという一種の万能カードが絡むとその境界がボヤけてしまう。

とはいえ、このドキュメンタリーの手法自体がフェイクを初めから含んでいて倫理的に問題があるのは確か。
それをクリアするのに、法律、心理学など各種の専門家を待機させてはいるが、成人とはいえまだ若いモデルたちが相当な精神的ダメージを負ったのは想像にかたくない。
事前のインタビューで成人前にあれに類する経験をしていたこともちらっと語られる。その記憶が噴出してきたのかもという気もする。
ただ変態たちの所業があまりにひどいので、撮る側の倫理性がふっとんでしまった感はある。

彼女らがいるのは本物の家屋ではなくスタジオに作られたセットで、天窓からさす光まで作り物だが、カメラを通すと劇映画同様、まったくわからない。
フェイクとそうでないものとの見分けはおよそ難しい。

チェコ映画。チェコ語タイトルは V siti。 ネット上のチェコ語の辞書で引いてみると、Vは~の中で、šitíは裁縫、針仕事。うーん、意味がわからない。
英語タイトル(作中で話されるのはチェコ語だが、タイトル文字は英語)Caught in the Net 。




「チリ33人 希望の軌跡」

2021年12月14日 | 映画
このチリ鉱山落盤事故と救出作戦があった時にこれこそ映画向けと企画者が殺到したらしいが、昔のエンテベ急襲作戦の映画化(「エンテベの勝利」「サンダーボルトGO!」)みたいに競作が意外とぱっとしないこともある。
同じ事件を描く映画企画は生きているらしいが、違う切り口を見つけるのはかなり難しいのではないか。

落盤事故のスペクタクルが最初の方に来てしまうので、あとの救出作戦の方はどうしても地味に見えてしまうのが難しいところ。
いかに鉱山が深いところまで掘り進まれているか、初めの方でえんえんと潜っていくシーンの長さでわかるのは秀逸。

鉱山会社や政府などが人気取りにやってる感演出に走ったり、心配する家族や世界中でニュースになっているあたり、まあ順当に一通りやっているけれど、それ以上にはいかない。
エンドタイトルで実際の事件の当事者たちが現れるのも定石。
アントニオ・バンデラスやジュリエット・ビノシゅといったスターもこういう平凡な人たちの話となると収まりが良くない。

「ゴルゴ13」でゴルゴが落盤で地底に閉じ込められ、どう人前に顔をさらさず脱出するのかというエピソードがあって、救出作戦に使われるカプセルなどが同じだなあと思ったりしたが(もちろん元のカプセルを忠実に描いたのだから似るのは当然)、ドリルで穴を開けるまでや、リフィーディング症候群(飢餓状態にいきなり多量の栄養をとると電解質の濃度が急激に変わって、最悪死に至る)を防ぐため普通の食料より前に液体状の栄養食を送る意味など、ゴルゴの方が短いこともあってメリハリ効いていたと思う。





 

「ミラベルと魔法だらけの家」

2021年12月13日 | 映画
アメリカ娯楽商業映画では珍しいのだが、ストーリーエンジンがちゃんとついていない。
つまりストーリーを動かす動機づけがない。

家族全員が何らかのギフト(=天分、この場合魔法の力と考えていいようだが)を持っているのに、ヒロインのミラベルだけ持っていない。
なぜなのか、よくわからない。

一家に伝わるロウソクに家族それぞれの力の源泉があるらしいのだが、そのロウソクを壊すなり火が消えるなりして力が失われるというわけではなく(消えるところはあるのだが、ごく終盤近くで力が失われた後)、またどういう理屈で力が戻ってきたのかわかったようでよくわからない。
村人たちの協力があるのはわかるけれど、それまで外の村人たちとどういう関係だったのかよくわからない。

そういうわけで、どうも乗りにくくて困った。
日本映画では珍しくないが、アメリカ製では珍しい気がする。




「天才ヴァイオリニストと消えた旋律」

2021年12月12日 | 映画
第二次大戦後のロンドンで凄い才能という触れ込みの若いヴァイオリニストがデビューする演奏会でなぜかドタキャンし、そのまま姿をくらましてしまう。
この演奏会をプロモートした興業主は金銭的損失とおそらく信用をなくしたことで、この後数年で破産し、父親の後を継いでやはり興業主になった息子が失踪したヴァイオリニストを探すことになる。

ヴァイオリニストはポーランド出身のユダヤ人で、子供の時に家族と離れてロンドンの興業主の家に同年輩の興業主の息子と共に育てられ、二人は必ずしも仲は良くないが兄弟のように育ったという設定。

ヴァイオリニストを探す現在と二人が喧嘩したり秘密基地のような廃墟で過ごしたりといった過去とが交錯する構成で、歳に応じて複数の俳優が演じるので、少し誰が誰だか混乱するところはある。
出番も大人になってからのティム・ロスや特にクライヴ・オーウェンより子供時代のミシャ・ハンドリーやルーク・ドイルの方が長いくらいではないか。

ロンドンにいるから直接には描かれないが、ポーランドのユダヤ人一家が大戦中入れられていた収容所跡でヴァイオリニストが演奏していたらしいといったエピソードが織り込まれる、徐々に謎に近づいていくミステリ的な趣向で、派手な場面はあまりないが、落ち着いた画面の美しさもあって飽かせない。

原題はThe Song Of Names。このタイトルの意味が見た後ずしりと来る。
親しい人が死んだ時には服の一部を破くユダヤ人(ユダヤ教徒)の習慣をいくらかでも知っていて良かったが、わかったのはごく一部だろう。

最初の方で、英語もちゃんと喋れないくせにと言われ、僕はドイツ語もフランス語も話せる、君はどうだと言い返すところで、聞き間違いでなければイディッシュ(ユダヤ人の口語的な言語)も話せると言ってなかったか。

防空壕の中で二人のヴァイオリニストが半ば決闘のように掛け合いで弾き比べ、周囲の避難民たちの喝采を浴びる場面は音楽の力を簡潔に見せる。

しかもその演奏家個人の才能を称えるのをある意味越えたところに連れていくのが異色でありユニークなところ。




「ヴェノム レット・ゼア・ビー・カーネイジ」

2021年12月11日 | 映画
死刑宣告を受けて監獄にいる連続殺人犯がヴェノムの血をすすったものだから同じ能力を身につけて、やはり監禁中のやはり凶悪犯の恋人の女を救いだして一緒に暴れる。
ボニー&クライドのアメコミ版といった感じ。

監督は「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズのゴラムやピーター・ジャクソン版の「キング・コング」のコングなどをモーションキャプチャーで演じた俳優のアンディ・サーキス。
CGキャラクターとその宿主(というのか)の演じ分けを捌く手腕からの起用ということになる。

二体のヴェノムは赤と青と色が違うから見分けはつくのだが、それ自体の性格はあまり変わらず、宿主との関係の違い(が明らかになるの)が決定的な違いになるという構造だが、ちょっと後付けの理屈っぽい。
ヴェノムとカーネイジのセリフはそれぞれ宿主を演じるトム・ハーディとウディ・ハレルソンが二役(というのか)で演じるわけだが、どちらも怒鳴りっぱなしなので逆にメリハリが効かない。

キャラクターが少なくて明確な二項対立のドラマだから時間が短い(約100分)のはいい。見せ場がくどすぎて飽きることもない。
ただし今後はユニバースものに参入するのが予告される。




「アイの歌を聞かせて」

2021年12月10日 | 映画
言うのもヤボだが、アイというのはAI(artificial intelligence=人工知能)と愛とIとをかけているわけで、可愛い女子高生の形をしたAIシオンがその開発者(女性)の娘サトミの通う高校に実地テストでやってくる。

地方の人家もまばらな中にすこぶる斬新で未来的な形状の風力発電用の風車がいくつも並んで、太陽光発電のパネルが敷き詰められているといった風景が、近未来的でもあり、いくつもある視覚的に派手なシーンのお膳立てにもなっているという仕掛け。
他に建物らしい建物のない中にAIを開発する大企業の巨大なビルがにょっきり建っている奇観。

肝腎の女子高生型AIの目的というのが人を幸福にすること(なのか?)でミュージカルのように歌いだす。実はシオンの蓄積された記憶にサトミの繰り返し見ていたディズニープリンセス風キャラクター(よくネズミ王国の監視にひっかからなかったなという気もする)が混ざっているのだけれど、このあたりの理屈がどうもぴったり嵌まらない。

歌の場面も歌そのものと動作と画面の展開といった要素がかけ合わさって盛り上がるミュージカル的な場面が狙いだとしてさたら、それぞれの要素が頑張っているだけに掛け算ではなく足し算止まりになっているような歯がゆさがある。

これもヤボだが、秘密裏にテスト運転するにしては、あまりに簡単に正体がバレバレになるのはまずくないか。
高校生たちそれぞれが幸福をつかんでいくプロセスとその内容は割と説得力があるのはいい。




「パーフェクト・ケア」

2021年12月09日 | 映画
医者を抱き込んで金持ちの老人が認知症などで一人で生活できないという所見の診断書を書かせ、法廷後見人になって老人を施設に強制的に収容させ、その財産を処分するというやり口でカネ儲けにいそしむ女をロザリンド⋅パイクが「ゴーン⋅ガール」の延長上的なイメージで演じる。
ヒドい話だが、ヒントになった実例があるらしい。

出だしでこのプランの邪魔になる施設の入居者の息子の訴えを取り上げた裁判で、法的な手続きではヒロインの方が手落ちなく、実の息子の方が施設で暴れたとか、おそらく身なりが悪く金もないといった理由で訴えを却下されてしまう。
いかに上っ面の体裁でケアのシステム(という以上に現代のシステム全般)が動いているかを端的に見せる。

医者も弁護士も施設の所長もみんな老人たちは自分の金儲けのカモとしか思っておらず、たとえばこれに立ち向かって親を救おうとする子供を主人公に据えたら座りはもっとよくなっただろうが、今書いた出だしでそういう可能性は破棄している。

思い切りのいい作劇だけれど、ワルに寄せた分、途中からケアとあまり関係ない犯罪絡みの方に話が寄りすぎた。もともとこの“ビジネス”は“合法的”だから他からケチをつけられなくなっているので、あまり非合法に寄ると話の大元が揺らぐことになる。
カネがあれば世の中黒も白になる、には違いないにせよ、見せかけは保つ必要はあるだろう。

ヒロインが母親に危害を加えるぞと脅されても、あんな毒親どうでもいいわというあたり、タフなのはいいしロザリンド⋅パイクの見せ場にはなるが、数々の危機を乗り越えていくあたりと共にちょっと人間離れした感じにもなった。
終始タバコをふかしていて、しかも鼻から煙を吐き出すといった具合にわかりやすくタフだが、全般にこの脚本演出はちょっと匠気が目立つ。
映画自体がケアそのものの問題を失念しているみたい。

公私ともにパートナーは女というのが脅すしか能のない男たちにとことん愛想を尽かしている感じ。

「ゲーム⋅オブ⋅スローンズ」のピーター⋅ディングレイジ(身長132cm)の登場にあれまと思う。なるほどこういう使い方があるか。




「ピュア 純潔」

2021年12月08日 | 映画
2010年、22歳の時のアリシア⋅ヴィキャンデルの長編映画初主演作。
オープニングからおそらくほとんどすっぴんではないかと思える毛穴やでこぼこが見えるアップで出てくるのにはちょっと驚いた。
服装もほとんどお洒落らしいお洒落をせず、終始ざっくりした服装で身なりに構わない、構う余裕がない感じを出している。

ギャンブルと酒に溺れる母親と気が合わない彼氏との生活に嫌気がさしているアリシアはコンサートホールの受付で働くようになり、指揮者と不倫関係になって、という話。

不倫相手がおよそ不実な男で、まともな恋愛関係にならないので殺伐とした感じがより強まる悲劇的な展開になる。
母語のスウェーデン語を話しているアリシア見るの初めて。

「田舎司祭の日記」

2021年12月07日 | 映画
脚本監督のロベール・ブレッソンはジョルジュ・ベルナノスの原作を映画化するにあたって、目標は「原作を一ページごとになぞることにある」と宣言したそうで、実際日記がしたためられるところから始まり、随所に日記を書いているところと朗読がかぶまる構成をとっていて、しばしば画面で見えることに改めてナレーションをかぶせるところが全編にわたっている。

こういうやり方はブレッソンのやや時代の下った「抵抗」でも見られた。脱獄用のロープを作るのに裂いた毛布をよじり合わせる画面に「私は強くよじり合わせた」とナレーションがかぶるといった調子。

こういうやり方は通常説明的な初心者がやるようなミスとみなされることが多いのだが、ブレッソンの場合は映画としての文体になる。

この文体について分析しているのが脚本家・監督のポール・シュレイダーで、映画評論家時代に書いた「聖なる映画」(映画における超越的スタイル)で、ブレッソンを小津安二郎とカール・ドライヤーと並べて論じている。
つまり同じに見えるものを積み重ねていくうちにそれが突き抜けて一種超越的な静止状態が来るという論旨で、宗教的発想が絡むので正直理解しずらいところはある。

とはいえ、後年の極度に突き詰められたスタイル(素人俳優の起用、棒読みの演技、ぶった切るような省略法、音楽より自然音の重視、などいわゆる感情移入を誘うあらゆるメチエの排除)とまでは至っておらず、かなり普通の映画に近い。

主人公の司祭は胃が悪くて肉や野菜を食べられず、ワインに浸したパンばかり食べている。そんなものばかり食べていたらかえって身体に毒なわけだが(実際、上司の司祭に叱られる)、ワインとパンがキリストの血と肉になる聖餐を毎日毎食繰り返しているようなものなのだろう。

そういえば、シュレイダー脚本の「タクシードライバー」でトラヴィスはコーンフレークにウイスキーをかけて食べるという酷い食事をしているが、あれはこのあたりが原点なのではないか。

シュレイダーは18歳まで映画を含む一切の娯楽を禁じられていたそうだが、ディープなキリスト教というのはなんでああも苦しみたがるのか理解に苦しむ。
司祭がまさにそうなのだが、キリストの受難と一体化するのが唯一最大の歓びということになるのかしれない。




 

 

「ディア⋅エヴァン⋅ハンセン」

2021年12月05日 | 映画
孤独、薬物中毒、正確な診断名はわからないがパニック障害のような症状、自殺などネガティブな要素が揃っていて、それでミュージカル仕立てというのは意表を突かれる。
「ウエスト・サイド物語」(オリジナルの方)が社会性をミュージカルに取り入れたのが賛否ともに論じられたのが今やウソのようにミュージカルで政治性や社会性を描くのが当たり前になっている。

セラピーの一環なのかDear Evan Hansenで始まる高校生エヴァンが自分自身に書いた手紙を取り上げた同級生コナーが自殺して、所持していた手紙から両親がエヴァンをコナーの親友だと勘違いする、という見ようによっては喜劇的ですらあるシチュエーションで、よくミュージカルを受け付けない人(タモリとか倉本聰とか)が不自然でついていけないと言う普通の生活の中で歌い出す趣向の塊みたい。腹をくくったようにその不自然なままで押し切っている。

歌うこと自体がセラピーみたいなもので、歌というのはやはり生命力そのものみたい。

SNSの拡散というのはドラマに使うとご都合主義的に見えることが多いけれど、その弊は免れていない。




「DAU ナターシャ」

2021年12月04日 | 映画
かつてのソ連を再現する常識はずれのプロジェクトであり、オーディション人数約40万人、衣装4万着、1万2000平方メートルのセット、主要キャスト400人、エキストラ1万人、撮影期間40カ月と映画の外の話題には事欠かないのだけれど、昔のソビエト映画はとにかく大味でダラダラしていてというイメージだったのが、主にタルコフスキーの登場でスローさが魅力になったり、「モスクワは涙を信じない」や「ふたりの駅」といった作劇と役者のレベルの高さを見せる大ヒットメロドラマでずいぶんイメージを変えたのだが、なんかその前逆戻りしたみたいな長ったらしさ。

ソ連時代は表に出ていなかったセックスや人体実験あるいは拷問があからさまに描写されるのは違うところ。
ほとんどAVかと思うくらい生々しいのを通り越して見た目に汚ならしいセックス描写。

裸にしたままえんえんと尋問するのは会話のようで実質拷問というわけか。
手持ちを多用した不安定なフレーミングも生理的にこたえる。
商店の乏しい商品の積み方がいかにもソ連という感じ。

 - YouTube

「DAU ナターシャ」- 公式サイト

「DAU ナターシャ」- 映画.com


 

「劇場版 きのう何食べた?」

2021年12月03日 | 映画
テレビドラマの劇場版は山ほどあるけれど、テレビでほぼ全部見ていたのは限られる。これはその限られた方。
シリーズ版だけでなく正月スペシャル版も見ているけれど、この劇場版もその延長上でそれほど構えず大げさな設定もしないで、それで二時間の長丁場を見せる。

冒頭の京都の映像がまず魅力的。
シロさんの里帰りに伴って両親の同性カップルに対する頭では理解していても感覚的に受け入れないアンビバレンツが設定されて、それが解決することはありえないにせよ、落としどころをさぐっていくデリケートな感触が映画で見るとより細かいところまでわかる。

派手な波風は立たない小波程度の中で、人と美味しいものを食べる幸せをまず味わうという基本はもちろん変わらない。料理はテレビで見ると手順だけれど、スクリーンで見るとちょっとしたスペクタクルになる。
セリフのデリケートなニュアンスを壊さないように気を配っているのがありありとわかる演技演出。

全体に甘党向きのレシピという感じがする。自分は煮リンゴは砂糖は使わず少量の酢を加えて弱火で蒸し煮にしている。