チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

石焼き芋の思い出

2015年01月25日 | 日々のこと

曇り、17度、83%

 香港も北風が吹く頃になると石焼き芋のリヤカーが、毎年同じ場所に留っています。石焼き芋専門のリヤカーもありますが、たいていは塩卵や銀杏も一緒に売っています。うずらの卵や銀杏も石焼にします。芋の焼けるにおいはしないのですが、風に乗って暖かな空気がリヤカーの居場所を教えてくれます。

 私が通った中学校は、松原の中にありました。校庭はそのまま浜に繋がっています。玄界灘の風を毎日受ける学校でした。冬になるとこの海風は、寒さを運んできます。九州の福岡といっても、あの頃は雪もよく降りました。学校の校門を出ると、一本道の脇には昭和40年代の低い日本家屋が続きます。海寄りの住宅街は人も少なく、寒い冬は寂しさが漂っていました。

 この一本道に下校時間になると、時々、石焼き芋のリヤカーが出ていました。一本道ですから、リヤカーがポツンと遠くに見えています。友達数人とあの年頃ですから、たわいもない話をしながら帰ります。友人たちは、石焼き芋を買おうと話しています。私はお金を持たせてもらえないので、こういう買い食いには付き合うことが出来ませんでした。お店屋さんなら、お店にはいって行く友人たちを見送ってそこで別れて一人で帰るのですが、リヤカーです。石焼き芋を食べながら帰る友人たちと一緒に帰ろうと、みんなの後ろに一人いました。欲しい石焼き芋を指すと、おばさんは計りにのせていくらと言い、薄いハトロン紙の紙袋に入れてくれます。みんなが焼き芋を手にした後、おばさんが手招きして私を呼びます。おばさん、何にも言わずに私の手にもハトロン紙の石焼き芋を握らせてくれました。その時、私がなんと言ったか、すっかり忘れています。おばさんの顔ももう忘れてしまいました。ただ、手の中の石焼き芋の暖かさだけが今でも思い出されます。

 この中学校は校門を出るとすぐ左手には、公の母子寮がありました。右手には、孤児院(今では児童養護施設というそうです)がありました。そんなことちっとも感じませんでしたが、日本が急成長の道をずんずん歩んでいる頃の話です。それでも、まだ、暗いものが日本のそこかしこに見られた時代です。

 今は埋め立てが進んだこの中学校の辺、学校はそのまま残っていますが、周りの様子はすっかり変わってしまいました。それでも、冬の寒い日にそのあたりに行くと、あの一本道の石焼き芋の暖かさが幻のようにふっと目の前を横切ります。

コメント (2)
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