蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

蛇足とはこのことか

2019-07-03 | 思い出
今朝、早起きし過ぎて、(行動パターンとしては)いつもの朝の時間がやってきて、二回目の朝を迎えている。

で、アタマが天国の人が、さっき朝ごはんを食べたばかりなのに、「まだ今日は食べてない」、といって、さらに食べ始める、そんな感じで、二回目のブログ記事を書いている。

でもブログは、文字で残るから、いくらまだ書いてない、と言い張っても、、、
「いや、これはわたしが書いたのではない」なんて、言い出しやしないかしらん、わたし。

まあそれはいいとして。
早く起きたご褒美はケーキだったわけだが、洗濯、二杯目コーヒーを挟み、二度目のブログに取り掛かっている、ハッピー・アタマのわたし。

さて、夫。むかし、むかし、、、。
彼はわたしとの新婚旅行の帰り、飛行機を降りて、一言。
「こんなに(スローが)アホやったなんて、、、知らなかった」
ぼそっと漏らしていたが、わたしはその瞬間だけ、あ、こりゃいかん!と、ピリッと緊張したものの、いつもモードに戻ってしまうのに時間はかからなかった。

言わせていただくが、
新婚生活を始めてすぐに、わたしは夫がこんなに幼稚だとは知らなかった。
まあ、お互い様である。

「アホ」と「ガキ」の結婚。
(でも、子供たちや孫たちは、まともだ)
わたしがなぜ、夫のことを幼稚だと思ったか。
マンガとテレビが大好き。
少年漫画誌を毎週、購入して読んでいた。
成人漫画誌ならまだしも、少年誌!
まあ、手塚治虫みたいな尊敬すべき人もいるので、頭ごなしに否定はできないが。

日曜日の日中は、囲碁のテレビ。あとは、水戸黄門さん。
全く接点がないことを知った。
それは、夫もだろう。
懐かしいと言えば懐かしいが、それが二人の原点であり、現在も同じなんじゃないかと思う。
人は一人一人違う。
自分と同じであるわけがない。
共通点を探すには、目が二つ、鼻が一つ、口が一つ。
共通語は日本語で、共通貨幣は円。
それぐらいかな〜。
同じ空気を吸う、同じ星(地球)の住人である。
全く違う個性の二人は、お互いを理解できないまま、異分子として今日まで来ている。
アクシデントでもない限り、きっと来世まで続くことだろう。

て、これが、二回目のブログ記事?
ケーキ効果が明らかに薄れてきている。
二杯目に飲んだコーヒーも二番煎じで薄かった。(淹れ直そうか)

余計なエネルギーは、時として、出さずにしまっておいたほうが、駄作を生み出さなくて良いという、典型のような内容になっている。
まだまだ続きを書こうと思っていたが、突然、嫌気がさしてきた。
出し惜しんだところで、たかが知れているので、アップしてしまおう。
「蛇足」とはよく言ったものである。
(「駄作」が正しい?)

朝から、やたら人差し指の運動

2019-07-03 | 日々のこと
今朝は早くから目が覚めた。
6時には、コーヒーを淹れて、なんとケーキタイム。
わたしの体内時計は少しズレている。
でも、早朝のケーキは、優しい甘さでわたしを包んでくれた。
ああ幸せだぁ〜。

と、なんだか、へんに甘ったるい軽めの文章で始まった。
今朝のケーキ効果だろう。

チマチマ、スマホ入力していると、目がおかしくなる。
パソコンに戻りたいのだが、もう三年以上ホコリをかぶっているところに加え、一番下のイタズラ孫が、マウスを投げつけたり悪さのし放題で、マウスが壊れている。
ピアノを弾くように入力していた頃が懐かしい。
頭で考えるより先に、指でキーボートを打っていた。
今は、チマチマ、チマチマ、、、作業が疲れるものだがら、文章の書き直しや、消えたりすると、大ダメージを受けて、しばらくは立ち直れない。(大げさ)

趣味関係の別SNSの自分のページからも日記をアップしているが、なぜか、筆が止まらず、連日に近い頻度でアップしてしまう。
一週間に2回が限度、と自主規制しているのだが、どんどん思いが膨らみ、スマホの指が止まらない。
電車の行き帰りが退屈だということもあるが。

書く内容は、ほとんど何も考えていない。
思ったことを吐き出すのみ。
ダーッと頭の中からゴミだか、なんだかわからないものを一気に排出して、お掃除、清掃、クリーンアップ。
エステやマッサージで、凝りをほぐしてもらうかのように、結構気持ちいい。
自分でできる、手軽で便利なリフレッシュ法である。

話はコロリと変わるが、
ブログ村、注目記事で、お墓のことが書かれていた。
誰も後に続く縁者がいないと、楽でいいなあ、と思った。
宗教然り。
戒名無用の白洲次郎みたいに、すかっと行きたいが、残った人がしやすいようにしてもらえばよい。
家、イエと懇々切々とアタマに叩きこまれ、嫁の役割、役目を唱えられてきたが、マインドコントロールの一種であるように思う。
絶対的なこと、不動のことであり、理屈ではないものとして、嫁の役割がある。
しかし、江戸時代じゃあるまいし、選択肢はある。
地域を離れ、周りを見れば、皆さん、割と自由。
自由な中でも選択して、わざわざ厳格な自分の道を選ぶのなら良い。
選択肢がない、という方法、考え方に疑問を感じる。なんで、ないわけ?
有無を言わさない方針に、とてつもなく反逆精神を掻き立てられる。反感の塊。
真っ二つに意見、方針、方向が分かれ、全く交わらないが、生活していく便宜上、摩擦が大き過ぎるので、とりあえずは風波を立てないようにしている。
どうしようもなくなった時に、崩壊するなり、破綻するなり、なんらかの現象が起こることだろう。
普通はそうならないように、平時からなんらかの策を講じて備えておくもの、なんだが。

とりあえずは、今までの流れ通りにやる。
なあんだ、、、同じか。
でも別に次世代には期待もしなければ、もちろん強制もしない。
わたしがこの世にいないのに、いても息をしているだけなのに、口出ししようがない。
こころを込めるのが信心のはず。
これは、信心なのか?
わたしにとっては、形骸化した行事に過ぎない。
でも日本人は、ごちゃ混ぜ文化。
キリスト教信者でもないのに、クリスマスやバレンタインデー、神父さんに愛を誓うウエディング。
お葬式は、仏教が多い。神式も。中には違う宗教もある。
これからは、家族葬が増え、かたちは変わっていくことだろう。
宗教にとらわれず、愛する気持ちをこころに刻みたい、、、が、なかなか難しいようだ。
古今東西、宗教は要。
強力なこころの拠り所は、違う宗教を受け付けない。
お互い、触れてはいけないカテゴリーの一つである。

大きな不幸に見舞われると、こころの拠り所を求める。
人間のこころは弱いから、神に助けを求める。
(困った時の神頼み、なんて、ちゃっかりしたのもある。神様と共存共栄)
その神は、色々あってよいと思うが、そこらあたりが難しい。
自分のこころの中にある神と、自分ではない人のこころの中にある神が、同じとは限らない。
家族なら同じかも知れない。
企業の自社社屋の屋上に神様を祀っているところもある。
繁盛店にはふと見あげると神棚があったりする。
こころを一つにして、自然に同じ神が宿るなら良いが、強制は良くない。

皆んなが幸せになれば最高だ。
が、世界で幸せの絶対量が決まっていて、人数で分け前を奪い合う図が出来ているように思う。
奪い合わないようにするには、幸せの中身、質を変えるしかない。
天然物質が枯渇するなら、代替え化学物質を作り出す?
だが、化学も科学も、テクノロジーも、くせ者。
人間の欲を変化させないと、満足を追求すると破滅しそうだ。
映画の見過ぎ(居眠りしながら)、老人の冷や水だろうか。

長々と、延々と続き、なかなか終わらない。止まらない〜。
〆結論なしで、ここで終了しよっと。