わたしのブログ。
イヤミったらしいなあと、逆・自画自讃。
自虐テイスト風を装い、結局は自慢。
隠れ「上から目線」で自己満足している。
他人を攻撃したいとか、目立ちたいとか、そういう思いは全く自覚していない。
深層心理としても、今のところ、そういった真実を発見するには至っていない。
過小評価は、過大評価の裏返しかも知れない。
わたし程度でさえ、こんな自分を過小評価しているのに、もっともっとヒドイ人、ダメな人が全く悪びれず過大評価している。
それが許せない。不思議でもある。
もっとレベルは低いんですよ、あなた。
と、そう言いたい。
自分共々、引きずり下ろしたい。
でも、無知な人、世間が狭い人は、幸せだ。
そういう人には、かなわない。
人のささやかな幸せをぶち壊してまで、現実を知らしめる必要はないと考える。
なので、言わず語らず。
逆に、最近は下火かも知れないが、これ見よがしに、インスタグラムやブログ、ツイッターなどで、自分の生活を見せびらかす人がいる。
(わたしのブログにもそういう要素は隠されているが、隠されていると思っているのは本人だけで、アタマ隠して尻隠さず。ぷんぷんニオイを発しているはず)
人様が見せびらかすことに対しては何も思わないが(内情は、外に現れていることほどでもないのが、よくわかっているので)。
問題は、そういった発信されたものを鵜呑みにする人。
必ずいる。
華やかな人、活躍している人に対して、自分共々比べ、羨望、焦り、絶望感を覚えたりする。
例えば、NYから夏休み帰省してきたママ友。(女性ファッション誌からパクリました)
ママ友たちのホテルランチは、このファッションでキメよう!
なんて、キャッチコピー。
服やバッグ、靴、アクセサリーを売るための戦略なのだが、実際のNY在住、美人有名人を起用して、ママたちのこころを揺さぶる。
服は、どこが良いのか、わからない、たいしたことないと感じてしまう。
単に、ゼネレーション・ギャップだと思うが。
センスには、生きてきた時代が反映されているから、30.40代女性とわたしが、同じファッションセンスだとすると、そのほうがおかしい。
実際、娘たちともファッション・センスは合わず、孫に買う服も、一体どこが良くて?みたいなもの。
わたしが、笑ってしまうのは、仕掛ける側の、女性たちへのこころの、くすぐり方。
就学ぐらいの子供がいる、外国在住ママ友も交えた、ママ友たちとのランチ会をイメージしているところが、面白い。
(この面白がり方は、明らかに上から目線なのであるが)
自分が帰国子女でもなく、海外で活躍しているわけでもないのに、なんか、ネタ・バレバレ感を感じてしまう。
実際に活躍している、娘の友達たちの様子を聞いたりすると、ファッションイメージとは大きくかけ離れる。
わたしが知らないだけかも、であるが。
(知らないくせに思い込みは強い傾向あり)
自分の持つ「上から目線」が嫌で、意識して無理して打ち消そうとするうちに、なんだか、不自然な「下から目線」になってしまったような気がする。
父などは、時代のせいもあり、かなりの上から目線だった。
姉とわたし。同じ環境で同じ親の元に育った。
ああいうの、嫌だよね、と姉は独自の路線を築き歩んだ。
わたしは、嫌だよね、とは思ったものの、嫌な路線に自分も乗っている。
独立、自立せず、同じような道を歩んでいるが、時代の風潮や価値観の変移もあり、父ほど露骨ではない。
父のように、家庭内だけでオフレコでホンネをいつも口にされると、そのような環境下で育つとどうなるか?
否定するか、影響を受けるか、どちらかだ。
ちなみに、兄は、全く別のキャラクターを形成している。
兄は、日本語を話す宇宙人のような人。
ひょっとして、我々きょうだいは、変人きょうだいか?
姉だけでもマトモな路線を歩いてくれたら、御の字だ。
我々きょうだいの救世主である。
長々だらだら書いたが、なんの話だった?
まあそういうことで、「上から目線父親」と「感情動物母親」を親に持ち、世間の荒波で揉まれ(揉まれているのに、揉まれている実感が欠如?)、自分で修正、調整が不十分であると、わたしのようなキャラクターが形成される、というわけだ。
本来、元から備わっている「上から目線」と、後に作った「下から目線」が、うまくミックス、融合されず、極端に上に行ったり、下に行ったり、と、乱気流で進む。
だから、わたしのブログは、「けったい」※なのだろう。
※ググると、関西弁で、「変」「奇妙」となっていた。
年配が使う関西弁なんだそうな。
ついに、わたしも、年配者!!仲間入り!
イヤミったらしいなあと、逆・自画自讃。
自虐テイスト風を装い、結局は自慢。
隠れ「上から目線」で自己満足している。
他人を攻撃したいとか、目立ちたいとか、そういう思いは全く自覚していない。
深層心理としても、今のところ、そういった真実を発見するには至っていない。
過小評価は、過大評価の裏返しかも知れない。
わたし程度でさえ、こんな自分を過小評価しているのに、もっともっとヒドイ人、ダメな人が全く悪びれず過大評価している。
それが許せない。不思議でもある。
もっとレベルは低いんですよ、あなた。
と、そう言いたい。
自分共々、引きずり下ろしたい。
でも、無知な人、世間が狭い人は、幸せだ。
そういう人には、かなわない。
人のささやかな幸せをぶち壊してまで、現実を知らしめる必要はないと考える。
なので、言わず語らず。
逆に、最近は下火かも知れないが、これ見よがしに、インスタグラムやブログ、ツイッターなどで、自分の生活を見せびらかす人がいる。
(わたしのブログにもそういう要素は隠されているが、隠されていると思っているのは本人だけで、アタマ隠して尻隠さず。ぷんぷんニオイを発しているはず)
人様が見せびらかすことに対しては何も思わないが(内情は、外に現れていることほどでもないのが、よくわかっているので)。
問題は、そういった発信されたものを鵜呑みにする人。
必ずいる。
華やかな人、活躍している人に対して、自分共々比べ、羨望、焦り、絶望感を覚えたりする。
例えば、NYから夏休み帰省してきたママ友。(女性ファッション誌からパクリました)
ママ友たちのホテルランチは、このファッションでキメよう!
なんて、キャッチコピー。
服やバッグ、靴、アクセサリーを売るための戦略なのだが、実際のNY在住、美人有名人を起用して、ママたちのこころを揺さぶる。
服は、どこが良いのか、わからない、たいしたことないと感じてしまう。
単に、ゼネレーション・ギャップだと思うが。
センスには、生きてきた時代が反映されているから、30.40代女性とわたしが、同じファッションセンスだとすると、そのほうがおかしい。
実際、娘たちともファッション・センスは合わず、孫に買う服も、一体どこが良くて?みたいなもの。
わたしが、笑ってしまうのは、仕掛ける側の、女性たちへのこころの、くすぐり方。
就学ぐらいの子供がいる、外国在住ママ友も交えた、ママ友たちとのランチ会をイメージしているところが、面白い。
(この面白がり方は、明らかに上から目線なのであるが)
自分が帰国子女でもなく、海外で活躍しているわけでもないのに、なんか、ネタ・バレバレ感を感じてしまう。
実際に活躍している、娘の友達たちの様子を聞いたりすると、ファッションイメージとは大きくかけ離れる。
わたしが知らないだけかも、であるが。
(知らないくせに思い込みは強い傾向あり)
自分の持つ「上から目線」が嫌で、意識して無理して打ち消そうとするうちに、なんだか、不自然な「下から目線」になってしまったような気がする。
父などは、時代のせいもあり、かなりの上から目線だった。
姉とわたし。同じ環境で同じ親の元に育った。
ああいうの、嫌だよね、と姉は独自の路線を築き歩んだ。
わたしは、嫌だよね、とは思ったものの、嫌な路線に自分も乗っている。
独立、自立せず、同じような道を歩んでいるが、時代の風潮や価値観の変移もあり、父ほど露骨ではない。
父のように、家庭内だけでオフレコでホンネをいつも口にされると、そのような環境下で育つとどうなるか?
否定するか、影響を受けるか、どちらかだ。
ちなみに、兄は、全く別のキャラクターを形成している。
兄は、日本語を話す宇宙人のような人。
ひょっとして、我々きょうだいは、変人きょうだいか?
姉だけでもマトモな路線を歩いてくれたら、御の字だ。
我々きょうだいの救世主である。
長々だらだら書いたが、なんの話だった?
まあそういうことで、「上から目線父親」と「感情動物母親」を親に持ち、世間の荒波で揉まれ(揉まれているのに、揉まれている実感が欠如?)、自分で修正、調整が不十分であると、わたしのようなキャラクターが形成される、というわけだ。
本来、元から備わっている「上から目線」と、後に作った「下から目線」が、うまくミックス、融合されず、極端に上に行ったり、下に行ったり、と、乱気流で進む。
だから、わたしのブログは、「けったい」※なのだろう。
※ググると、関西弁で、「変」「奇妙」となっていた。
年配が使う関西弁なんだそうな。
ついに、わたしも、年配者!!仲間入り!