蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

嫁のホンネは強烈

2019-07-13 | わたし
姑の入院とほぼ同時に、兄が入院した。
あちこち、お見舞い日を決めるにも予定が詰まっていて、何かを犠牲にしなければ時間を作れない。

しかも、姑は、夫が毎日お見舞いに行っているにもかかわらず、「息子だけが顔を出さない」とボヤいている。
夫、目の前で言われて、かわいそう。

わたしも、姑の認識では、「先生」から「嫁」になったが、また、昨日は「先生のお嫁さん」になった。
先生と嫁をちょうど足したようなかんじだ。

あんなに賢かった姑が、、、
ため息、、、
賢すぎるのは不幸だ。
実母は、あっけらかん〜と、いつもゲラゲラ、ハッピーマインドだが、姑は哲学者になっている。
生と死を見つめて、人生を嘆いている。
すっかり深刻な悲観主義者になっている。

入院病院の医療スタッフの目が行き届く観察室にいる姑のお世話をしに通っているわたしだが、何をしていいのやら。
すっかり気が滅入る。まいる。
重苦しい気分。
姑は、わたしである認識があったり、なかったり。
すぐに忘れてしまう。
何をしても、ザルに水。

相手はわからなくても、お世話する側が気が済むまでお世話して悔いがないようにする、という、おエライ人がいる。
わたしは無理。
相手は何もわからないのに、自分の自己満足などとても得られない。
自分に嘘をついて、無理して頑張って、自分を消耗、疲弊させて、誰が喜ぶ?
いったい、誰のためにお世話する?
学生時代習ったキリスト教の教義に、「無償の愛」という、見返りを求めない愛があったが、わたしはキリスト教徒にはなれない。
人を救ってもいないのに、努力し、それでも自分は救われていない。
空回り自己満足。
できそこないの虚しい愛だ。
義務感100%、こころに黒いものを抱え、形式だけのお世話もどきをする。
誠心誠意、真心を込めていないが、とりあえずは顔を出す。
しかし、それでわたしのスケジュールは支配される。
ある臨界点を超えると光り輝く、立派な心境になり、お世話させていただく喜びに満ち溢れる日が来るやも知れない。
(勉強もしないで、ある日、突然、100点が取れるかも知れない、と言っているようなものか)

奥歯に物が挟まったような、表面に美辞麗句を並べてカモフラージュしたような、スッキリしない内容になっている。

夜、姉からたまたま業務連絡の電話が入った。
ついでに雑談。
姉のスポーツサークル仲間たちの、ホンネトークは、そこまで言ってしまう?というぐらいスカッとする。
みんな、妻であり嫁。山あり谷あり。
山場を乗り越えてきている人々の言葉はチカラ強い。
掛け値なしに、ストレートに響く。
しかし、あんなにハッキリ言っちゃっていいのか?
もう怖いものは何もない人は、本当に強い。
勝利者宣言だ。