わたしの周りには、普通の中規模おぼっちゃまがいっぱい。
地方、田舎のプレスリーである。
よくよく考えてみると、彼らはおぼっちゃまなのではないか(=おぼっちゃまだ)と思う。
おら、東京さ行く、パターンではなく、学校は遠隔地であっても、やがて地方に戻り、土着の道を歩んだ。
ひと旗揚げる必要はない代わりに、既存のものを受け継ぎ継承させなければならない。
勝利投手には名が上がらない、中継ぎの地味な役目。
プレスリーのように、決して目立たない。
縁の下の力持ちなので、目立つ必要もない。
飛び抜けて優秀な人は東京で偉くなったようだが、地方には戻って来ない。
その子孫たちは東京人となって、都会に馴染んでいる。
都会なら地価も高いだろうからピンチに遭っても家を切り売りしたりして、窮地を切り抜けられることだろう。
さて、土着の地方のおぼっちゃまたちは、、、。
コロナなど経済学者では予想できなかったパンデミックが発生したりすると、都会のメリットとされていたことがデメリットに転じたり、東京一極集中は益々再考に拍車がかかる。
そこで、地方は、良いよね、の動き。
リモートワークが推進され、会社の本社を丸ごとリモートした企業もある。
それはそれとして。
わたしの身近なおぼっちゃま達。
おじいさん達である。
過去のおじいさん達も含めて、おぼっちゃま、、、ではあるが、頑張ってきた。
時代の波、色、特徴もある。
と、それがどうした?
という流れになってしまった。
今日は、ツッコミ、〆、総括、結論に導けない雰囲気。
で、話題を変える。
姑の初盆を迎えるにあたって、親戚や関係者からお供えが届く。
お礼の電話をするのが、強烈に苦痛なわたし。
礼状なら何十通だって平気だが、生の声は大、大、大の苦手。
業者ともインターネットでのやり取りが楽。
何しろ、わたしは生身のお付き合いが嫌いなのだ。
自然体で接することが、自然に出来ない。
右足と同時に右手が出る感覚。
文章だと、すらすら。
気持ちが本人のbodyから抜け出し幽体離脱して、指先で文体で脳内を表現する。
(得意分野もそれぞれ。
絵や音楽、踊りで表現する人もいるだろう)
だが、実際リアル表現は、入れ物bodyだけのわたしが、脳からの指示待ちをしている。
で、お礼の電話を(かなり自分に鞭打って)していると、次女が一言。
「1オクターブ高い声、出して頑張ってるなあ」
これは、評価してくれているのか、おちょくっているのか。
その時のわたしは、余裕がなく、むっとした。
理由などないのだが。
頑張りを見抜かれ、茶化されたような気がして、気分を害した。
やはり、人間は余裕がないとだめだ。
わたしの美学は、頑張りが外に現れないこと。
いかにも頑張っている感ありありは、ゴムがパツパツに伸びきって、カッコ悪く、なんだか悲壮感さえ漂う。
全然平気で楽々鼻歌風、涼しげ、そよ風がわたしの理想。
実際のところはそうなるには水面下では必死で努力しているにしても。
とは言え、結果論。
結果が良ければ全て良し。
と、ここでLINEが入り、喜びの報告だった。
長女から。
わあ〜、やったぁ〜、頑張ったね!
今から暑い暑い、きつい夏をもうひと夏も、ふた夏も乗り越えなければならないことになる長女だが、応援は惜しみない。
「ばあちゃん、嫌い! 帰って!」の、いじめっ子(3番目孫)、4歳意地悪っ娘のイジメにも耐えようではないか。
がんばれ、わたし。