お尻に火が点きだしてきた。
あれこれ、一度に同時多発スケジュール。
日頃、サボっていることもあり、重なると、あわあわ、ジタバタ。
大事な家族の生き死にと、それに関わる行事が一度に押し寄せてきた。
人数的には、1人マイナス(死去/去年)、
3人プラス(結婚&出産/去年と今年)、新娘婿を含め家族が増えた。
さらに一周忌までに同時リフォーム。
忙しい、、、。
去年、今年で、いただくのは、結婚お祝い、出産お祝い、香典、初盆お供え、一周忌お供え。
お返しするのは、結婚内祝い、出産内祝い、満中陰志、初盆粗供養、一周忌粗供養。
金一封に品物も。
お金は嵩張らないが、品物は山と積まれるとため息が出る。
しかも食品だと賞味期限が追いかけてくる。
これを日本式冠婚葬祭の「交際」というらしいが、わたしは、うんざりしている。
香典はいただかない旨を示して辞退したものの、郵送してくださる方や、遠路遥々お持ちいただく方や、親戚間での生前からの約束ごとやら、一斉に一律お断りもなかなか難しい面がある。
香典が辞退なら、供花で、という近年パターンもあり、お花がずらずら並ぶ。
供花も値段は色々で、決してお安くない。
頂いたたら、知らん顔するわけにもいかないし、お返しを、、、という流れになり、至ってややこしい。
常識や節度ある「お付き合い」という、目に見えなさそうで目に見える、社会的忖度のようなものに縛られる。
お葬式も家族葬が増え、お墓も樹木葬など、新しいかたちのものが出てきている昨今。
価値観や概念も変わりつつある。
が、ころっと従来のものを切り捨て、新しいものに移るには、ある程度の時間がかかる。
移行期。
都会の先っぽと、奥まった田舎、革新と保守では温度が違う。
わたしは、田舎(夫の実家)と旧ニュータウン(行政計画のもと、人工的に造成された地区→我々核家族の自宅)の両方に、両足で立っていたが、今は、軸足は旧ニュータウン、田舎は片足をちょこんと乗せて立っている。
核分裂した我々の自宅から、また娘たちが核分裂し、それぞれの家を持っている。
この先、孫たちも、どんどん核分裂していく。
地方に実家を持つ後継ぎたちは、空き家となった実家を維持できず、取り壊して更地にしたりしている家をちらほら見かける。
解体費用はばかにならず、負の遺産だと相続側は嘆いているが、放置するわけにもいかず、泣く泣く責任を全うするかたちになっている。
人流のない閉ざされた地域で更地になった土地に、新しく流入して来る住民はいない。
減少、縮小するのみ。
人の動きがない地域は衰退する一方。
田舎では冠婚葬祭は続いているが、新しい核家族の家では土着地域の付き合いはない。
親戚の繋がりはどこへ行こうが続くものの、地域の近隣のお付き合いは途切れる。
親戚も近い血縁関係の家だけに絞られてくる。
うちの場合、田舎は家屋を残すので、リセットされず、親戚付き合いは続きそうだ。
今後は、夫に自分の実家関係のお付き合いをしてもらう。
自分の実家は自分で継続、守ってもらう。
イエ意識が崩壊している現在では、よほどの旧式なところは別だろうけれど、嫁は嫁としての役割、義務に束縛されなくてよい、と、姑舅がいなくなったわたしは考えている。
夫にきょうだいがいるならまた違うだろうが、きょうだいは嫁いだ義姉ひとりだけ。
実家には口出しはしない。
実家からもらうばかりで、お金は出さないから当然だ。
舅のきょうだいたちは、それぞれ独立し、出自の実家は次の代になり、直接の柱を失ったおじ、おば一家は疎遠になっていくだろう。
未来に向けての展開に軸足を移すことになる。
子供、孫、、、。
時系列は順々に時と共に過去からスライドされていく。
過去を遡る親戚、先祖はピアノ線のごとく細く強く一本だけ残ればよいと考える。
物証もさることながら、家屋やモノが語る過去から現在に至る推移を、こころの中で自然なかたちで培っていけばよい。