昨日は小学生男児孫の習い事(スイミング)、振替日のため、付き添いの任命を受けた。
彼らは、うちに来てから出発までの間に宿題を済ませないといけない。
下孫は、学童(放課後預かり)学級で宿題は終わっていたが、上孫は下校後そのまま来たので、宿題はまだ。
出発予定が決まっているのに、取り掛かりが遅くてイライラする。(わたし、そっくり)
出発想定時間を4段階に分けて予定していた。
1.予定時間に出発して、徒歩で行く
2.予定時間、余裕を見て出発して、バスで行く。(雨のため)
3.予定時間に間に合わず、バスで行く
4.バス予定時間に間に合わず、徒歩で行って遅刻
1は無理だとは思っていたが、3の可能性が濃厚になってきた。
「もう宿題はいいから、残りは帰ってから家でやって!」と急かしたが、取りかかるのが遅かったため、そうチャチャっと出来ない。
算数は終わったものの、次は、ゆっくり綺麗な文字で一文字一文字、マスに入れて文章を書いていく国語の宿題。
最初は丁寧に美しく書いていたが、バスの時間が迫って来るので、だんだん荒っぽい字に。
せっかくの、落ち着いてこなす宿題をそんなやっつけ仕事で大雑把にやってはいけないのではあるが、小3孫は今、一気に終わらせてしまいたい流れ。
急かすわ、時間は迫るわ、雑なやっつけ仕事をさせている罪悪感はあるわ、、、であったが、どうにか終わって、全力でバス停に走って行ってセーフだった。
マスクの下は、息ハアハア。
疲れる、、、。
帰りもバス。往復バスになった。
帰りは小1孫がバスの中で寝てしまいそうになるのを起きて!起きて!と必死で起こして、(雪山の睡魔との闘いのごとく)どうにか家に着いた。
で、、、
今朝、起きてふと思った。
わたしは可愛い孫の守りをさせてもらって、とても幸せだ。
いずれ、誰が誰かもわからなくなり、家族の顔を見るだけで、涙をはらはら流す自分を想像した。
家族の顔がわからなくなったら面会に来なくていいよ、と、しっかりしている時からの約束ごとをあらかじめ取り決めたい。
が、わかっているのに名前を呼び間違えたり、とっさに名前が出てこなくなったりして、実際はまだ脳は機能しているのに、状況から、家族はもう、ついにわたしがダメになったと判断することだろう。
言い訳も説明も出来ず、ひたすら静かに涙を流す自分を想像する、、、と、涙が溢れ出た。
わかっているのに、意識はあるのに、見限られた、意思の疎通が図れない、その深い悲しみを想像した。
その涙、、、
あまりにも悲しみが深すぎると、神様がかわいそうに思って、脳に魔法をかけてくれることだろう。
魔法はモルヒネ的効果を生み出してくれる。
痛みを感じない、純粋無垢なおばあちゃんになっているといいなあ。
今は、何十年後かに涙を流している自分を想像して、涙を流している。
変かな?わたし。
それだけ、今が幸せだということ。
今がピークでそこから下がって情けなくて涙か、、、というとそうでもない。
言葉もなく、名前も口から出ず、流す涙は、言葉よりずっとずっと濃い幸せを感じる涙かも知れない。
だが、家族はわたしから静かに去っていく、、、残酷なシーン、、、。
だが、神様がぴったりタイミングよく魔法をかけてくれることを信じよう。
時期が早いのはまあよいにしても、遅い魔法は絶対やめてほしい。
麻酔が効かない手術のような、そんなことは避けたい。
いつまでも、頭がしっかりしていたら良いだけの話だが。
わたしのことだ、多分無理だろう。
いや、天然だから、冷静な時もお花畑の時も、ボーダレスかも知れない。
今もお花畑の中で楽しくやっている。
だが、時々、仕事もしている。