蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

二面性、二極性

2022-01-24 | 無題
閲覧数、上がったり下がったり、船酔い気分。
閲覧数は、目安にならず、なんの意味もないと強く強く強く思う。
どうせ、元々小さな数字、どうってことない。
ほんとにほんと。
自分に言い聞かせるのではなく、実感。

さて、上流階級について。
書けば書くほどまだまだ物足りない。
ずいぶん前に、「おぼっちゃまくん」という漫画があり、そのギャグが受けていた。
そのギャグを書こうと思ったが、へんに曲解してもらわれても心外なので、あえて書かない。
わたしは結構面白く愛読していた。

と、それはそうとして。
島国ニッポンにいると気づかないが、仕事のポジションなどには階級が存在するが、庶民は皆「一億総中流」という言葉がかつて流行った。
やがて、「下流老人」だとか、そういうのも出てきた。
わたしが今のところ上流階級とわかりやすく認識しているのは、天皇を頂点にとする皇族。 
(歴史途中で人物入れ替わり説もあり諸説様々)
だが、経済活動をしない身分な故、行動は制限され、お金の使い道も好き勝手に出来ない。
やんごとなき高貴で、尚、(わたし個人の感想としては)お気の毒な階級ではあるが、なりたい人がいなくなると、どうなるのか。
姑は、芸能人ゴシップのごとく、皇族ネタが大好きだった。
あとは、年金の話。
わたしは、当時、全く興味がなかった。
ふんふんと頷くだけで、全然聞いていなかった。

話は行ったり来たりする。
四方を海に囲まれていない、広い陸続きの国では、色々、ほんとうに色々大変だろう。
人やモノ、文化がそのまま地続きで流れて来る。
いまは、インターネット、SNSで瞬間的に情報を共有するが、フェイクニュースもあり、混乱を招く。
誤った情報の善意の拡散が一番怖い。

それぞれの国の特徴が見えるにつけ、わたしは、またまた島国に戻る。
ああ恐ろしや。やはり島国はなんだかんだ言っても気心が知れている。
日本語が通じる。
外国に憧れがあるとしたら、異国情緒という、自分の国には無いものに興味を示す。
歴史の違いは相当大きい。
そして、遠く離れた地であっても、悲惨な状況のニュースに触れると、こころが痛い。

富や権力の奪い合いで戦争が起き、体制が変わる。
革命が起こると、上下がひっくり返る。
(ちなみに、トランプで「大貧民」というゲームがあるが、革命が起きると、持っている札の強さ、効力がどんでん返しになる。
あれは心臓に悪い)

今の最大の困難をもたらす敵は、国ではなく、地球規模の自然災害。
こればかりは手の打ちようがない。
逃げる、備えることは出来ても、抑える、やっつけることは出来ない。
火山が噴火しないように、地震が起きないように、元から断つことは出来ない。
かつて見た映画のようなことが起きそうで、現実と想像、仮想がごちゃ混ぜになり、恐怖を覚える。
今を精一杯生きる、なんていう、どこにでもあるキャッチフレーズを書きたくないが、思いはそう。
今の幸せは当たり前ではない、と。
事故や災害に遭われた方々は口を揃えてそう仰る。
なってみないとわからないかも知れないが、想像すれば我が身のことのように感情移入できる自分がいる。
この年齢になって思うこと。
今までどうにか無事だっからといって、これからはわからない。
ではあるが、無意味にブルーになってはせっかくの健康寿命がもったいない。
これからは、これまでの延長上にあると前向きに予想しよう。


ちょっと、いや、かなりボケボケの内容になってきた。
訴求ポイントが定まらない。
電車内で、乗ったり降りたり、行ったり来たり、気の向くままに書くとこうなる。
移動せずに椅子にずっと座って書くと、もっと落ち着いた良いものが書けるかというと決してそんなことはない。 
かといって、人の出入りが激しいガチャガチャした環境で書いたら濃度が高いものが書けるかというと、これまた全然そんなことはない。
勉強と同じだ。
わたしは勉強が出来ない劣等生だったので、劣等生の気持ちは良くわかる。
というか、優等生の気持ちは全くわからない。
ただ、自分の力が及ばないとわかったら、あっさり諦めて代替えで補てんする。
純正でなくてもよい。少し劣っていてもよい。
ゼロよりは良い。
あちこちの力を集めてきて、自分の出来ないことを成し遂げようとする。
自分自身、本人がしなければならないことはなく、こだわらない。
代わりの人、ものでもよいと考える。
それに、、、事態は変わる。
良いことも悪いことも、いつまでも同じ状態ではない。
無常。

1番でなくても良い。
2番でも良い。代案オッケー。
1番でなければ気が済まない人もいるけれど、それはそれ。
人それぞれ。
自分が良い道を選べばよい。

だが、一つ、難点がある。
つい最近、ある人に言われた。
わたしはサボりだと。
もっとやれば、もっと出来るのに、やらない。
現状で満足してしまう。
言い得て妙、その人は、ぴたっと、わたしそのものを言い当てた。
わたしの人生そのもの。
努力しなくてもそこそこ備わっているため、努力しない。
自分を磨かない。
わたしは、まさにそれなのだ。
亀に抜かれるウサギではあるが、そもそもウサギではない。
白鳥かも知れないのに、アヒルの中にいるほうがずっと快適。
かといって、ある日、突然、白鳥にはなれない。
努力を放棄しているので、元白鳥で、ちょっと大きいアヒルだ。
アヒルでも白鳥でもない、化け物かも知れない。
アヒルの着ぐるみを着た白鳥?
アヒルの着ぐるみを着た白鳥だと思っているアヒル?
白鳥の着ぐるみは元々着ていない。
アヒル群に属する。
だが、アヒルの中では部外者、白鳥の中でも部外者。
アイデンティティは、アヒルでも白鳥でもなく、行ったり来たり彷徨い、バランスをとりながら二本線で歩んで行く。
逆に言うと、アヒルでもあり白鳥でもある。両方。
なので、両極端で真ん中がない。
振り子のようだ。


ジキルとハイドもそんな感じなんじゃなかろうか。
人を一面的に見ても、片手落ちだ。
表裏一体、短所は長所、光の当たり方で良くも悪くも見える。
これは特別でもなんでもなく、ごく普通によくあることで、皆さんの一般的な日常だと思う。
自覚しているか、していないか、だだそれだけの違いかと考える。
そんな自分が好きか嫌いか、にもよる。
嫌いな場合、認めたくない、認めない。
複雑に何面も何層もあるのが、人間。
そんなめんどくさいことは大嫌いだと無視する人もいる。
それはそれでよい。
色々だ。


書けば書くほど、つまらなくなってきた。
いま、突然、閲覧数の神様は、わたしのブログから後ろ姿を見せて消えて行ったと感じた。
べつにそんなことは、もういいのだ。