蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

一人称

2022-01-20 | 思い出
閲覧数の神様は、何ごともなかったかのように以前のままの佇まい(閲覧数)。
むしろ下降。
もうどうでもよい。

さて、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い話。
書いてどうなるものでもないが、書きたい時に書くのがわたし。

小姑は実家に来た時、自分のことを「○○」と名前を呼び捨てにする。
例えば、ルミ子だったら、「ルミ子、そう思う」「ルミ子の分も欲しい」という具合。
わたしは、あの一人称の呼び方が癇に障ってしかたなかった。
(「ルミちゃんねえ」「ルミたんが、ね)よりは、マシか)
誰も教えもしないのに、うちの3番目孫は3歳で自分のことを「わたし」と言うようになった。
ついでに、話は逸れる。
孫たちは親のことをパパママと呼ぶのだが、それは世間体を考えて。
ほんとうは、「おとうちん」「おかあちん」なのだが、皆んなと呼び方が違うのが恥ずかしいようで、親は決してお互いパパママと呼び合っていないのに、孫たちは世間の風に負けたようだ。
あっさり迎合している。
わたしは、おとうちん、おかあちんという呼び方が大好きなので、いまだにひとり、娘夫婦のことをおとうちん、おかあちんと呼んでいる。
家の中に世間の風は入って来ないから気楽。

それは脱線話であり、本筋に戻す。
孫が社会人にもなろうというのに、「ルミ子ねえ」は、なかろうとわたしは思う。
さすがに最近は言ってないかと思うが、30歳〜40歳の頃はそう呼んでいた。
ついでに、小姑は母親のことを「ママ」と呼んでいた。
ひ孫が出来ようが、これは今でもだろう。
各人、好きに呼べばよいと思う。
が、育成背景、環境を知っているわたしには、また違う響きを持つ。

国が違うと呼び名も違う。
だから、末端現象だけ捉えると、何の問題もない。
たんに、わたしが背景や方針が嫌いなだけだろう。
なぜこんなに、何十年経ってもブログにツラツラ書き連ねるほど嫌いなんだろう。
まあ、いろいろある。
過去の思いは、醸成され、違う質に変化している。
「美化」は、その反対語。
「思い込み」、あげくのはてには話を盛って無自覚捏造?

小姑自体はとても良い人、好人物。
意地悪されたわけでもなんでもなく、むしろ気遣いしていただく。
小姑自身を憎むことは全くない。
わたしに恨まれる筋合いは全然ない。
では何を?
おそらく、その背景、現象だろう。
誰も悪くない。
組織の力、全体責任、必要悪、愚衆、、のように、ピンポイントで人物を特定できない。
登場人物は皆、良い人。
時代の価値観やうねり、流れで、光の当たり方は変わる。
それだけのこと。

わたしはそれに気付いているが、小姑は気づいていない。
気付くのが良いかというと、決してそんなことはない。
気付かない方が、幸せなことは多い。
気付いたからといって、不貞腐れているだけで何もしないなら、気付かず明るく前向きに行くほうが、ずっとずっと楽しい。
気付いた側から気付かない側に何やら言ったところで、人の幸せを邪魔するようなことは、すべきではない。
対岸の火事、出来事。
「あなたのためだから」と一時CMで流行ったことがある。
全然、あなたのためでないことを皮肉る時によく使われたフレーズだ。
押し付けがましい主張の正当化。

気付いたり、憎んだりしても建設的でないなら、無意味だ。
改善に向けて努力、実践するならいざ知らず。
あ、そう、と軽く、人の人生には立ち入らないことが賢明かと思う。
自分には自分の人生。
人には人の人生。
お互いに楽しく時を重ねていけたらよい。

悪口を書いてスッキリする予定が、モヤモヤするだけになった。
他人を悪人にして、他人のせいにできると、モヤモヤしないのだが。
自分軸というものは、自分で落とし前をつけなければいけないので、厄介だ。