さて、やっと自宅に帰り、日常生活へとシフトしようとしている。
が、小学生男児達・学童お預かり中。
彼らが野球盤ゲームに興じている間に、久々ぶりにブログを書こう、、、
とページを開けると、、、あれれ。あれれ。
元旦明けに書きかけの記事が書きかけのまま放置されていた。
あれれ、あれれ、、、?
こんなの書いたっけ?
どうやら、直近アップした記事の続きのようだ。
よくまあ、すっかり忘れていることに驚く。
いったい、何を書いているんだ、わたし。
大晦日、御節作りを終えて片付けた後、布団の中で書いた続きを、、、
今から楽しみに読もう。
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・・・・・・・
ちょっとしたことがあって、わたしはブチ切れた。
よく言われる「こころの整理をする」、、、というのはどういう意味か、自分なりに解釈した。
こころを落ち着かせる、制御不能状態から気を鎮める、冷静になって考えてみる、自分の素直な気持ち(こころの声)に耳を傾ける。
この作業をするにはある程度、静かな時間が必要だ。
慌ただしく周りに振り回されるような、掻き乱されるような状態では、自分のこころが拾えない。
自然に自分の行き先が見えるような、そういう整理だろう。
何年もかかる人もいると思う。
考えている最中に、登場人物があれこれ関わって影響を与えることもあり得る。
何がベストチョイスだとはわからない。
成り行きまかせがよいかなと。
何かわからない大きな自然の力に導かれるままに。
考えてもわからなかったり、能力が及ばなかったりする。
サイン、兆しが現れるまで、じっと時を待つのがいい。
それがわたし流。
ただし、期限はある。
一生のうち、いつまででもいい、というわけではない。
自分の目標、目的に合わせて期限を設ける。
その中で対処したい。
気長に待ちすぎると、目標に近づけないまま土に還ってしまう。
今のわたしは、土に還るのが目標ではない。
最終的にはそうでも。
期限内に解決できない場合は、諦めるか、自然に忘却ゾーンに入っていくだろう。
いつまでもしがみつかないで、また新しい道に導かれると予想する。
執着こそが、生きるエネルギーの人もいるだろうけれど、わたしなら、自分が快適な方向を自然に選ぶ。
何がなんでも、と、課題解決に向けて全力でフル稼働しない。
脳がゆるくなるんだろう。
一種の諦観かも知れない。
達観ならいいけれど、お寺に住み込んで修行僧弟子入りしなければ無理かと。
しかし、長年、西洋ライフスタイルのため、わたしは正座できないから無理かと。
板廊下を一直線に雑巾がけも腰が痛いから無理かと。
無理無理無理といって、楽々コースを選ぼうとするあたり、こころが元気になってきたかも知れない。
・・・・・
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こんなこと、書いてたのか。
はぁ〜。
布団の中で書きにくいのに、お疲れ様、わたし。
と思ったが、年末に書いて、ほっていたのかも??
読んでみると、いくらなんでも、忙しい大晦日の続きに布団の中で書くにしては、切迫した喫緊の内容でもなさそう。
TVの向こうのお寺で除夜の鐘の音を聞きながら、煩悩と闘うにしては、御節料理を年内中に作るのが関の山の力量のわたし。