蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

独り言は愉しい

2022-09-12 | わたし
今日はなんだか充実した1日だった。
といっても、まだ夕方だが。
わたしの1日は、夕方で終了だ。
今から〆のジョギングをするわけでも晩酌をするでもなし。
18時で終わってしまうFMラジオを前に、まったりしている。
お気に入り番組なのに、いつもちゃんと聴いていないので、終了時間近くになると急にソワソワし始める。
あ、終わってしまう、、、
それならもっと14時から始まっているのだから、真面目に聴けばよいものを。
が、BGMにはもってこいだ。
考えごとや、熱中していることがあると、全く聴いていない。
脳の外を通過。
ふと脳を休めると、急に音楽やお喋りが聞こえる。

さて、夕食に濃厚なカレーを食べて涙、涙。
急激に口に放り込む熱くて辛いものは、胃袋がビックリ。
受け付けにくくなったのか?
冷えた麦茶と交代に口に入れたので、それもよくなかったのか。
胃が痛い、、、。
最近、ほんのちょっとした体調の異変に過敏になっている。
今まで子供の時から超健康優良児でそのまま来ているので、病気に対するこころの免疫がない。
怖がり、心配性。
病気の総合商社、デパートを自慢している人が、ある意味羨ましい。
そこまで鍛えるには道のりが遥か遠そうだ。

夏の暮れゆく夕方。
涼しい風が窓から吹き込み、とても気持ちいい。
天候や気候、自然に接する度に幼少時代の頃を肌感覚で思い出す。
今のような温暖化にもならず、水を打ったり、のれんや簾を掛けたり、風鈴が風に棚びき、かすかに鳴ったり。
懐かしいレトロな風景。
祖母に感謝の気持ちが湧いてくる。
なぜか両親(父母)は自分にはダイレクト過ぎて、直接影響が強すぎて、ワンクッション挟む祖母のほうが、やんわりした気持ちになる。
ちょっとした、おばあちゃんっ子か?

そう言えば、1番上孫(小4男児)が土曜日夜に泊まりに来た。
弟は引き連れず、一人で。
スヌーピーの布バッグには、着替えのTシャツとパンツだけ入っていた。
スカスカの軽いバッグだった。

彼は初めての孫だったこともあり、わたしはこの子に甘い。
母親は最初はあんなに猫可愛がりしていたのに、次々に下の子供たちが生まれると、まあなんと厳しいママになったものか。
あんなに厳しくすると、かわいそうだ。
というか、わたし自身が叱られているような気になる。
まだ小学生なのに、高度なことを要求されている。(わたしでも出来ないようなことを)
わたしが、無能過ぎるのか。
まあよい。
みんな成長してくれるのは嬉しいことだ。

孫(たち)は、来たらうるさい、来ないと淋しい。
ちょうど中間はないものか。
次女にそうボヤいたら、「(孫が)遊んでくれるのは今だけやで」と言われた。
その通り。
やけに納得した。


ちなみに、もう一つ、書きたいことがある。
が、長くなる。
インターネットがご縁で知り合った人たちのこと。
蝶ブログだけでなく、別の趣味ブログでも実在のリアル人たちと知り合った。
わたしの場合、パパッと瞬間的に短時間で知り合うわけではない。
ものすごく長い時間を経て。
世の中の事件になっている、若い女子と男性の、短絡的な男女の付き合い、関係とはちょうど真逆なテイスト。
すぐに会って、すぐに一緒に住んで、などとは有り得ない展開である。

男女の諸々を目当てにしているなら、出会い系のほうが手っ取り早い。
真面目に結婚を目的にしているなら、婚活サイトや結婚相談所が適している。
そもそもわたしは、超が付くほど疑い深いので、相手が言っていることを隅々まで真偽を確認し裏付けしようとする。
矛盾がないか追求する。
それ、おかしいんじゃない?怪しい、、、
と、刑事か探偵の目になる。

そもそも、自分が求めている人材は周りには転がっていない。
インターネットだと転がっているのか?
それは怪しい。
ある程度の環境や背景、ポジション、職業などは、段々バレてくる。(バレない場合もある)
ではあるが、今まで、変な人と知り合わなかった私がラッキーだっただけかも知れない。
その可能性は大きい。
だからといって、成功体験を過大視し、あまり過信するのは良くない。
いつもいつも石橋を叩いて渡るか、叩いて壊すか、である。
直感だけで行動するのは危険である。
とは言うものの、わたしは感性だけで人の善悪を判断しているかも知れない。
が、、、である。
今まで知り合った人に、悪人は一人もいなかった。(悪人の定義=わたしに害を及ぼす人)
偶然にしても確率が高すぎる。
かといって、検閲チェックをパスしたり疎かにするのは危険。

後になって、たんなる幸運だったことに気づいてヒヤ〜っとすることがある。
やはりいつもいつも警戒するに越したことはない。
自分のしでかしたミスは、自分で後始末するしかない。自己責任を問われる。
失敗があったとしても、未熟な自分の、世間を知る勉強料、学習費と思って、高い授業料を払う。
そうやって学んでいく。

ではあるが、わたしは15歳の時から、チャラチャラした男子や、不真面目な男子、不良は嫌いだった。
わたしが騙されたかも知れないのは、悪徳お代官様のような巨悪をはらんでいるくせに、見かけは清廉潔白、清々しい人。
これは、不良に騙されるほうが、罪がないか。
見かけは善人、中身は真っ黒の人は、わたしなど騙すのは赤子の手をひねるより簡単だろうが、騙したところで得るものもなんにもない、わたしはなんの面白みもスリルもない人物だった(だろう)。
わたしには冒険心というものがない。
信じる基準は、信頼できるような目の前にある実績。
出世払いには応じなかった。
賭けは嫌い、しない。

目の前にいる人がポテンシャルを秘めていたとしても、キラキラする目で訴えてかけていたとしても、発掘する目も力もなかった。
だから、退屈とも取れる(わたしは退屈ではなかったが)、着実、確実なものにしかこころを動かさなかった。
まあなんと、守りの姿勢、面白味のないこと。
リスクを取らない。
ローリスク、ローリターンでよい。
宝くじは買わない主義。
オセロゲームのように、いきなり、全部の黒が白に、全部の白が黒にはならない。
理屈でもなんでもない。
そういうの、キライなだけ。
着実路線が好き。
たんなる個人的嗜好、志向、指向。
だから面白味を求める人は寄って来ないのだろう。
なぜなんだろうと思っていたが、偏屈、ヘンコだからかな、と。
わたしは洞窟で一人、仏像を彫っているタイプか。
そんな人が洞窟に何人も何人もワイワイ居たら、気持ち悪い。
偏屈、ヘンコは一人単独と相場が決まっているのに、最近はそういう単独個人行動の人が増えてきたように思う。
でも、相変わらず、複数人でないと行動できない大人がいて、ビックリする。
人それぞれだけれど。

話は逸れて逸れて、もう着地点がない。