
わたしは、令和の世の中では、社会・非適合者かも知れない。
病名も、ちゃんと、つけることが出来る。
ただし、自分がまだ若く、学習期だったり、働き盛りの成人なら。
しかし、もうわたしは老後で、現役は卒業しているので、背負うものを降ろしてもよい。
と、自分で自分を定義付けている。
ついでに、甘やかしてもいる。
べつに何もしなくてよい、と。
義務と権利がセットだとすると、義務がないなら権利もないのか?
義務を背中から降ろすと、自由が手に入るのではないのか。
自由は、義務とセットか。
じゃあ、権利と自由の関係は?
義務を果たさないと、権利も自由もないのか。
義務と権利と自由の関係は?
自由を謳歌するには、責任がセット。
こんがらがってきた。
今のわたしでは、学校での学習や集団行動は苦手。
許されるなら、登校拒否になっている。
親が厳し過ぎて、とても登校拒否はさせてくれそうもないが。
社会で働くのも、今のわたしには、能力と、やる気がないので、出来ない。
若い頃ならいざ知らず。
学んだり働いたりすることが義務だった時期を過ぎたから、もう頑張らなくてもいいのか。
目に見える立派な誇れる成果は無いが、目の前にあった義務はこなした。
それで堪忍してちょうだい。許して。もういいでしょう?
どんどん老化して、心身ともに破滅していくのだろう。
でも、好きなことをして、生きていきたい。
ちなみに、自分を解放する映画が大好き。
他のgooブログで、面白そうな映画が紹介されていた。
2月下旬に、あまり近くない都心部の映画館で封切りされるようなので、ぜひ観に行きたい。
フェミニズムがテーマかと。
ところで。
「アートの定義は何ですか?」
と、いつもお邪魔する映像プロ(奈良在住)のブログで、読者さんの質問に、コメントされていた。
「定義はありません」
そう答えておられたような、、、。
「好き嫌い」や、「こころに響く」「響かない」は、人によって様々だろう。
感性は人それぞれ。
落書きアートでも、ユニークな力強いものもあれば、本当に退屈しのぎにやったような稚拙なものもある。
魂の発露のようなものもある。
脱力して、かえって良い味が出ることもあるし、単に暇つぶしだけのヒドイものもある。
暇つぶしも、適当な、いい加減なものは、こころを打たないことが多い。
例え、くだらないことでも、熱意をもって打ち込むと、熱情が伝わる。
個人個人の感受性や受け取り方は、千差万別なので、解説できないが。
でも、近所のコンクリート塀に落書きされているのを目にするが、精度が低い、つまらないものだ。
単なるイタズラ。気合いが入っていない。
一生懸命、遊んでない。
遊びや暇つぶしも、精一杯やると、自分でも想定していなかった、おもしろいものに変化することがある。
わたしは、そういう、意図しない偶然が造る、実は必然、みたいなものが好きだ。
とは言え、練りに練った挙句、別の意外なところからひょっこり顔を現す、、、
一生懸命のこだわりは、ある日、突然、突き動かされるものに変化することがある。
99.999%は、使い物にならなくても。
99.99999%の無駄は、0.00001%のものを引き出すことがある。誘発する何か、、、
自分だけのこだわりや、閃きに、ビタッと合致するものに出会った瞬間が、アートなのだろうか。
しかしアートは、実生活に役立つか?
アート分野ではなく、科学分野の発見や技術なら、画期的だ。実用性がある。
こころと技術が合体すると、世の中が動く。
膨大な時間、エネルギー、労力を費やし、実験、研究が繰り返されている。
ではあるが、科学がこころを追い越すと、厄介だ。
長いばかりの話になった。
※写真は本文と関係ありません。
旧山形県庁舎2階の窓から見た、渡り廊下で結ばれた県会議事堂。
火事により焼失後、1916年(大正5)に復興、完成。