蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

アートって何だろう?

2025-02-20 | 読む人々には興味ない話
わたしは、令和の世の中では、社会・非適合者かも知れない。
病名も、ちゃんと、つけることが出来る。
ただし、自分がまだ若く、学習期だったり、働き盛りの成人なら。
しかし、もうわたしは老後で、現役は卒業しているので、背負うものを降ろしてもよい。
と、自分で自分を定義付けている。
ついでに、甘やかしてもいる。
べつに何もしなくてよい、と。

義務と権利がセットだとすると、義務がないなら権利もないのか?
義務を背中から降ろすと、自由が手に入るのではないのか。
自由は、義務とセットか。
じゃあ、権利と自由の関係は?
義務を果たさないと、権利も自由もないのか。
義務と権利と自由の関係は?
自由を謳歌するには、責任がセット。
こんがらがってきた。

今のわたしでは、学校での学習や集団行動は苦手。
許されるなら、登校拒否になっている。 
親が厳し過ぎて、とても登校拒否はさせてくれそうもないが。

社会で働くのも、今のわたしには、能力と、やる気がないので、出来ない。
若い頃ならいざ知らず。
学んだり働いたりすることが義務だった時期を過ぎたから、もう頑張らなくてもいいのか。
目に見える立派な誇れる成果は無いが、目の前にあった義務はこなした。
それで堪忍してちょうだい。許して。もういいでしょう?

どんどん老化して、心身ともに破滅していくのだろう。
でも、好きなことをして、生きていきたい。

ちなみに、自分を解放する映画が大好き。 
他のgooブログで、面白そうな映画が紹介されていた。
2月下旬に、あまり近くない都心部の映画館で封切りされるようなので、ぜひ観に行きたい。
フェミニズムがテーマかと。

ところで。
「アートの定義は何ですか?」
と、いつもお邪魔する映像プロ(奈良在住)のブログで、読者さんの質問に、コメントされていた。
「定義はありません」
そう答えておられたような、、、。
「好き嫌い」や、「こころに響く」「響かない」は、人によって様々だろう。
感性は人それぞれ。

落書きアートでも、ユニークな力強いものもあれば、本当に退屈しのぎにやったような稚拙なものもある。
魂の発露のようなものもある。
脱力して、かえって良い味が出ることもあるし、単に暇つぶしだけのヒドイものもある。
暇つぶしも、適当な、いい加減なものは、こころを打たないことが多い。
例え、くだらないことでも、熱意をもって打ち込むと、熱情が伝わる。
個人個人の感受性や受け取り方は、千差万別なので、解説できないが。
でも、近所のコンクリート塀に落書きされているのを目にするが、精度が低い、つまらないものだ。
単なるイタズラ。気合いが入っていない。
一生懸命、遊んでない。
遊びや暇つぶしも、精一杯やると、自分でも想定していなかった、おもしろいものに変化することがある。
わたしは、そういう、意図しない偶然が造る、実は必然、みたいなものが好きだ。
とは言え、練りに練った挙句、別の意外なところからひょっこり顔を現す、、、

一生懸命のこだわりは、ある日、突然、突き動かされるものに変化することがある。
99.999%は、使い物にならなくても。
99.99999%の無駄は、0.00001%のものを引き出すことがある。誘発する何か、、、

自分だけのこだわりや、閃きに、ビタッと合致するものに出会った瞬間が、アートなのだろうか。
しかしアートは、実生活に役立つか?
アート分野ではなく、科学分野の発見や技術なら、画期的だ。実用性がある。

こころと技術が合体すると、世の中が動く。
膨大な時間、エネルギー、労力を費やし、実験、研究が繰り返されている。
ではあるが、科学がこころを追い越すと、厄介だ。

長いばかりの話になった。

※写真は本文と関係ありません。
旧山形県庁舎2階の窓から見た、渡り廊下で結ばれた県会議事堂。
火事により焼失後、1916年(大正5)に復興、完成。





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