綺麗事は書けない。
なぜか?
自分が楽しくないから。
が、ホンネを書きすぎると、自分も傷つく。
ついでに他人も傷ついたりする。
なので、適当に、いい加減に、曖昧に。
ファジーという言葉がかつて流行った。
曇りガラスで明かりを取り入れる。
さて。
ある人との会話。
「歳だから」
とわたしが言うと、なんでもかんでも歳のせいにする、と非難めいた口調のリアクション。
わたしが「歳だから」と言ったのは、ファッション。
ショーウインドウに飾られている素敵なコートを見ても、こころときめかない。
こんなコート、もう何十年も前からある、なんの新しさもないデザイン。
わざわざ買う気もしない。
着た自分を想像しても、全くワクワクしない。
なんで今更あんなコート?
手に取ってみた厚手の手編み風カーディガン。
半世紀前、エジンバラ(イギリス)のお土産に父に買ったものと似たようなカタチ。
どこが新しい?
ただただ古い思い出が引っ張り出されるだけ。
ただし、思い出はカビ臭くはないのが救い。
曇りガラスで明かりを取り入れるかのごとく。
いや、実際より鮮明に綺麗に輝いているように思う。
昔は良かった、、、なんて言うと、「今」や「未来」が明るくないお年寄りの仲間入り。
でも、昔も今も未来も明るいと思うのだが。
ただし戦争のない世の中であることを願うばかり。
売っている服を見て、欲しいとは思わない。
服は家に山のようにある。(断捨離の呪縛に苦しめられる)
次から次へと服を欲しがるのは若い人の特権だと思っていた。
先述の会話の人、Aさん。
最近、猫背気味、70代。
服が大好きでよく買っておられるのだが、確かに身だしなみに気をつけなくなると認知度、黄色信号。
ではあるが、身だしなみはとっくにクリアしているのに、それ以上に服を欲しがる。
わたしも服は好きだが、もうよほどのことでもないと買う気はほぼほぼない。
Aさんは、わたしの服に対する関心減少は歳のせいにするが、わたしはAさんの服に対する情熱が理解できない。
人は人。
自分が良いと思えばそれでよい。
ひとのことなどどうでもよい。
なので、わたしはAさんの服への情熱に対して非難も否定も賛同もしない。
お互い、感性が違う。
カッコイイと自分で思っていられることは、生きる原動力になるので、ひとの生き甲斐を奪う権利は誰にもない。
(迷惑や犯罪ではなければ)
しかし、そんな、どうでもいい点が増えると、その人との接点がどんどんなくなる。
すごい勢いで離れていっているように感じる。
(これ、仏教系の本で書かれていた)
歩む道の分岐点、曲がり道か。
逆に離れていた道を歩いていた人と合流したりする。
あらまあ、こんにちわ。
人生は予期しないことがたくさんあって面白い。