延々と書いた前回記事。
要約すると、実家への交通アクセスが不便なので仏壇を実家①(田舎)から実家②(街)に移した。
半世紀前より、(直近では7年ぐらい前?)さらに①へのアクセスが不便になって、逆ギレしている。
利益バランスを考慮するバス会社としては、致し方ないが、数少ない利用者としては憤慨している。
というかんじか。
日本の僻地で廃線になる路線の利用者が「廃線にしないで欲しい」と訴えているが、それも生活者としてはわかるが、それは利用者のエゴ。
電鉄会社も健全に経営していく使命もあり、税金もごくごく限られた人に使うわけにはいかない。
そういう地域に住んでいる状況を選んでいる限り、受け入れるのはやむを得ない。
生死にかかわる問題でもない限り。
影響力のほとんどない自分の閉ざされたブログで、わたしはちょっと愚痴ったまで。
インフルエンサーではないから、得るものも失うものもないので、快適なブログ環境。
この、閉鎖感が気に入っている。
自慢も愚痴も悪口も言いたい放題、吐きたい放題。
ただし、自分の性格の特徴や、自分へのこだわりもあり、ヘイトスピーチ的なことは嫌悪する。
誰に思いを吐くより、ブログに綴るのが一番の安らぎになっている。
特定の人に胸のうちを話したとしても、受け止めきれないだろうし、社交的に受け入れてくれるのは、忖度を思い計ってこころ苦しい。
なので、地面に穴を掘って叫んで、また土を埋めるのが、わたしとしてはこころの平安を保てる。
最近、誰もいないところで、聞こえないことを前提に、声に出して怒りや不快感を表現していることがある。
今は、わざと無人の時に口にしているのだが、そのうち無意識に声に出したりする日が来たら嫌だなあ、、、と不安だ。
時々、街で自販機に向かって独り言を言っている年配の人(特に女性)を見かけたりして、痛いなぁ、自分もああなるのかなぁと思っている。
歳を取るとああなるのは仕方ないのか、、、。
そう言えば(関係ないけど)
わたしの尊敬する上野千鶴子さんが入籍していたそうだ。
あれだけ「おひとり様」シリーズで本を出していて、そりゃないでしょう、と、ファンをがっかりさせたことだろう。
おひとり様のナビゲーターに、後ろをついて行って登ったハシゴを外された思いか。
クロワッサン症候群も然り。
影響を受けた読者の読後の人生まで保証してくれない。
示された道に導かれるのも導かれないのも、自己責任。
そもそも提案者と読者は同じステージにはいないと想像する。
一つ上の恵まれたところから、発信している。
まともに真に受けて盲信、猛進したら痛い目を見る。
退路や方向転換余裕を少し残しておかないと。
臨機応変に道を微調整できるように。
参考にする程度でよいと思う。
提案者と自分は、棲む世界が違うことを前提にしないと、全く同じだと考えると、余裕がなくなる。
信じていた人が路線を変更すると、ぴったり後を着いて来た人は路頭に迷う。
かつて、子育て真っ最中に、そういうことがあった。
子供の教育進路で、声高に掲げていたそれまでの価値観を翻す人がいた。
共に熱心に歩んでいたママ友たちにとっては、青天の霹靂。
今までの盲進的行動は何?
理由はわたしはわかる。(推測)
競争から降りた途端、そのレースそのものの価値を否定する側に転じた。
まあなんと勝気な人だろう、と、とてもわかりやすかった。
子供の教育だけでなく、ご自身の趣味活動にも熱心なあまり前しか見えない性格が垣間見えた。
子供の評価は、勝った負けたではない。
そんな一時点の時にどちらかが上だったとしても、人生は長い。
いちいち他人と比較して一喜一憂していたら自分が摩耗するし、第一、幸せの性質を見直したほうが、幸せに近くなる。
当時は子供も小さかったので、今のような感想は抱くことは出来なかった。
カツカツ目一杯の情熱と力を注ぐのは良いと思うが、周りを振り回すほどの余裕のなさは、若気の至りか。
アスリートなどは負けず嫌いでなければ、勝てないと良い成績は維持出来ない。
人を押しのけるのは大の苦手で、はいどうぞ、どうぞ、といつも1歩も2歩も引いてしまうわたしは、情けなく泣き笑い顔で「負けるが勝ち」と呪文を唱えるしかない。
究極のところ、「誰に」勝つのかと言うと、勝つ相手は目に見える他人にではなく、「自分に」打ち勝つのだと思う。
いろんな人がいる。
何を信じるかは、そのひとの人生。
ただし、宗教2世のような悲劇を起こしてはならない。
ちなみに、上野千鶴子さんが入籍していた人は、山登りが得意の男性らしい。
生活感漂わない、足腰達者な、自然派山男、、、か、、、。
なるほど、彼女の夫にはありえるタイプだ、とひとしきり頷いた。