蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

銀河鉄道の父

2023-05-10 | 映画
宮沢賢治。
その父の映画を観た。
「銀河鉄道の夜」は、読んだことはない、、、と多分思う。
小学生の頃に読んだかも知れないが、内容はすっかり忘れている。
が、宮沢賢治の名を知らない日本人はいないだろう。
わたしもその一人。
「注文の多い料理店」のタイトルは知っている。
が、中身はどうだったか?
読んだか、読まなかったかも忘れている。
ではあるものの、宮沢賢治の名前は、よくよく頭に刻まれている。
松本零士と混同することは、さすがにない。

で、映画。
賢治の父親役、役所広司、熱演。
祖父役、田中泯、怪演。
賢治役、菅田将暉、熱&奇演。
母親役、坂井真紀、静&快演。
妹役、森七菜、好演。

中でも、祖父に放つ、妹の言葉が心臓を一突き。
シンプルで的を得て、グサリと刺さる。
愛と理解を持った上での進言。
あの一言、すごい。
ここに書いてもいいか?どうか?
ネタバレになるのは避けたい。
が、誰も読んでないだろう、影響力もなかろう、わたしの人気のないブログなど。

認知症状が出て暴れる祖父に、
「キレイに死ね!」
と妹が言い放つシーン。

これは、よく端的に言い切ったものだ。
さすが直木賞受賞作品だけはある。
しかし、作家が生み出したものか?
この作品は実話に基づいているらしい。
多少の演出、脚色、創作はあるだろうけれど。
脚本はおそらく原作に忠実に作られていると推測する。
が、詳しいことや真偽の程はよくわからない。

最初から最後まで涙が出っ放し。
水分不足に陥りそうだった。

次の日の夜に、NHK TV番組「プロフェッショナル」で、病児病棟に勤務するチャイルド・ライフ・スペシャリストを見て、これまた涙が溢れ出た。
わたしはこれまで鈍感に生きてきた分、今頃になってウエット&ナイーブになっている。
どうなってる?
おそらく今までの人生、流した涙量が少な過ぎたのだろう。
琴線に触れて触れて、涙腺が敏感過ぎて、いやになる。

ちなみに、舞台となった明治の家屋、懐かしい。
というか、故郷の田舎の家を彷彿させる風情。
廊下越しの中庭や、せんだい(庭)。
あの規模の商家なら下働きの人が家の中にちょこちょこしていても不思議ではないが、女中さんや男衆さんらしき人物はいないようなかんじだった。
それと、妻(賢治の母親)の着物が美しすぎるような気がする。
外出着ではないなら、もう少し普段着っぽい着物を着るのではないだろうか。
もっと、いかにも木綿の質素な着物。
そういう木綿の衣服は、お百姓さんのいでたちか。

商家は、そうでもないのか?
わたしは昔の店舗兼自宅の商家を知らないので、知識不足である。

旅のまとめや感想も書かずほったらかして、映画を観たりして、全く違うことをしている。
何をしているんだか。
行動に統一性がない。
今日のブログ内容も、思いつくまま気の向くままで、まとまりがない。

ではあるが、、、
自然の涙を流すのは、癒し効果がある。


すごく老けて愕然とした

2023-05-10 | 老い
さて。
旅の話を書きたかったのだが、またの機会に。
トップ画像に、南国写真はずっと続くが。

写真と言えば、わたし、マスクを取った顔、表情筋が破滅状態で、写っている。
孫たちとの手作りブレスレットや、シーサーを使ったオブジェ作りの店でスマホ撮影したものを、家族写真共有アプリに長女がアップしていた。
その中の一枚を目にしたところ、姿勢といい、頭髪といい、表情といい、あまりにもわたしのおばあさんぶりに驚愕、落胆したので、先ほどアプリからの削除をお願いした。
たぶん、なかなか削除されないだろうけれど。
数年ぶりに見た自分の生写真が、想像を超えて老けていて、それはそれはもう、、、現実を直視せざるを得ないのだが、、、直視出来ない。受け入れられない。
手っ取り早い安易な方法は、直視しないで、写真をなかったことにする。
削除してもらう。そして忘れる。
現実が消えたわけではないのに。

日頃から、アンチ・アンチエイジングを自分のブログで主張しているわたしなのに、朝令暮改。
自分の老いを真正面から受け入れることが出来ない自分と、どう向き合うか。
これからの課題になりそうだ。
理想ばかり言っている自分、、、現実との乖離、、、ああ情けなや。

もう一枚、11人全員で記念撮影した写真があるのだが、これがまた強烈にわたしの顔がブサイクで、大ショックを受けた。
写真写りが悪いのだろう、写真の撮影の仕方が悪いのだろう、と思ったが、他のメンバーは本人と写真の写りは同じ。
わたしだけが実物とかけ離れて特別ブサイクに写ってるいるわけではないという客観的証拠を前に、シクシク泣いている(胸の中で)。
突然の老女の出現に、これ、わたし?と、おろおろしている。
これからは、老女(見かけ)に自分を合わせるか、あるいは、表情筋を鍛えて(顔の)巻き返しを図るか。
今のままでは見かけと意識が一致していない。
(頭脳能力が低下している自覚はあるが)
悲しい情けない擦り合わせである。
情けないと思うのであれば、見かけを若返らせなければいけない。
だが、見かけにとらわれ、ジタバタ執着するのは不本意だ。見苦しい。
とは言うものの、見かけが自分が思っている以上に老けていることだけは事実なので、これからは少し(調整するか納得するか)自分の中で変化があることだろう。

努力して見かけを磨くか(自然の摂理に抗って)、自信を失くして中身が更にゆるゆるヨボヨボになっていくか。
中身もかなり記憶力や理解力が低下している。
それは日々、はっきり決定的に具体的に知る出来事に触れ、中身も老化しているのはじわじわ認識済み。
それに伴って外見も老化していたことに対しての驚き。
なにを今さら。知らぬは自分ばかりなり。

旅に出て、写真や行動で、自分の老いを強烈に自覚した。
普段、日常、何もないと自覚する機会がないが、非日常の場で、自分の変化が目に見えることがある。
マイナスの変化なので悲しいが、事実は事実である。
悪あがきはしたくない。
が、まだ、写真はつい最近のことなので、感情が追い着いていない。
昼行燈を地で行く。

徐々に(マイナスの)変化に慣れていくのだろう。
新しい自分を受け入れるには、時間が必要だ。
しかし思うに、このブログ内容、思春期の子供と大人の間を、成長する肉体と未熟な精神の不一致プロセスを、身体とこころが行ったり来たりで揺れ動く若い人が悩むようなこと。
そんなキラキラ時期ではなく、衰える肉体、能力と、自意識の間で揺れ動く老女、、、フレッシュさがない、かわいくない、、、。
甘酸っぱさの代わりにあるのは、渋さを通り越して、苦さ?塩辛さ?
だが、これは、生を受けた生き物の摂理である。
自然の法則を前には太刀打ち出来ない。

そう言えば、70歳超えた母(当時)が、シワがあると嘆いていたのを、あきれて聞いていたのを思い出した。

楽しい旅の話を書こうと思ったのに、なんでこうなるのか。
次こそ、旅のエピソードを書こう。
(当てにならないが)