あまりにも長い前回の記事。
ざざざざーーっと、スクロールしていただければ幸いかと思います。
わたしは何かを考える時、書いて煮詰める癖があるので、行き着くところまで書く。
あくまでも、結論は何?が知りたいために、書く。
なかなか結論に導けない時は、、、
ただただ駄文がダラダラ続く。
というわけで、読み手側のことは、全く考えていない、わたし以外の人にとっては疲れるブログになっている。
自分を救うための、サービス精神ゼロ、ブログ。
さて。
それはさておき。
わたしのオモチャはやはり文字。
iPhoneに元からくっ付いている別機能で、自由に何でも描く「フリーボード」というものがある。
フリースタイル、フリースペース、文字も、絵も写真も、形も色とりどり、なんでも描ける、、、のだが、ちょっと触ってみて、やめた。
なぜなら、、、スマホ作業だから。
パソコンならいざ知らず、スマホは画面が小さい。
(背中を丸めそうな)一定姿勢や、連続して画面を見続ける目が気になる。
どこでも移動中に作業出来るが、バッテリーも減るし、そんな作業をわざわざ外でするなんてことは、よほど時間を潰さなければならない事態に遭遇しなければ、やらないだろう。
ブログを始めた頃なら自分で絵?らしき落書きを描いていたが、あれはパソコン操作だったし、今は面倒でやらない。
やるとしたら、簡単、単純、文字と写真。
これは実に良い便利なオモチャである。
が、オモチャで遊ぶほど、わたしは退屈していないので、何か書きたいことがないとつまらない。
自分の関心事や思いを一気にアウトプットしたい。
だが、無知丸出しがバレバレのことは文字で残したくない。
公の場ではない非公開のプライベートな場で、ぺらぺら喋ってお終い。
政治や宗教、国際事情に対する、怪しい知識からの薄い軽薄な感想を一気に一方的に喋って10分?ぐらい(体内時計カウント)、相手は猫でも仏像でも何でもよいが、一応、有機物が対象。
目の前にいる生きた人間が相手であるが、相手は聞いてないので、引っかかりがないため、わたしも気持ちよくぺらぺら捲し立てることができる。
たまに、どう見ても(どこかに載っていた情報の受け売り見え見えで)全くわかっていない人が社会を語る話に、付き合うことがあるが、わたしは話が通過して終わるのを静かに待っている。
が、家族を相手にぺらぺらはやらない。
なぜなら、家族にうんざりされるのが見えているし、わたしとしては、うんざりされたくない思いがある。
特に娘たちを相手には、もうあまり話さなくなった。
彼女たちは、わたしの言っていることを理解しようという気持ちで耳を傾けるのは疲れるし、全く無視されているのに(明らかに聞いていないのに)、一方的に話すのはわたしは嫌だ。
もっと歳を取り、まったく人のことなどどうでもよくなったら、一方通行であろうがなんであろうが、自覚なしに喋るだろう。
娘たちも、たまに接して介護親孝行なら聞くフリをしてくれるだろう。
かと言って、ブログはちゃんとしているかというと、全くいい加減だが、主観の内容が主なので、正解は一人一人異なる。
若い人はいいなあ、成長は眩しいなあ、と喜んでいたのも束の間、
アブラの乗り切る年齢に差し掛かかった子供たちとは、彼らが関わる最新の出来事にも理解も追いつかず、話にも着いて行けず、もう接点もなくなりそうだ。
彼らの目を見張る成長&活躍、減少する接点、、、。
で、お年寄り(同世代)同士で、お互い聞いていない、好きな話を順番に代わりばんこにするのが、無難で平和だと感じている。
やはり同世代の仲間は貴重だ。
若い感性や知性の輝きを浴びるにも、受け手自身の感受性、理解力が劣っている現状を、若い側も老いた側も感じている(はず)。
かと言って、理解できなくても、たまには刺激を受けるのは脳の活性化につながる。
恥ずかしいと尻込みせず、わからなくても挑戦するのは良いことだ、と思う、最近のわたしだ。