自分専用、筆マメのわたしは、今日も書く。
次から次へと同じ題材をよくまあ書くこと、書くこと。
モチーフは自分。
お喋り井戸端会議の如く。
ストレス解消。
アウトプットしないと、自分の中の空気が澱む。
今、読んでいる、わたしが20年ぐらい前に舅の家から持ち帰ってきた、舅の本。
当時、まだ舅は健在だった?
あるいは、あの世とこの世の端境?
あるいは、もうあの世?
どちらにしても、あの本が一冊、本棚から姿を消しても誰もわからない。
そして、うちにあの本が一冊、新顔で加わっても誰も気づかない。
持ち帰った当の本人さえ忘れている。
うちのダイニングルームの戸棚に眠っていた。
ハードカバーの上に掛かった装丁カバーの上に、さらに、白地に少しだけ模様の包装紙を掛けている。(かつて、わたしが)
舅の家の近くのお米屋さんでもらった、乾麺(うどんかなにか)の箱に使われていた包装紙だろう。
カバーの上のカバーがもう、クタクタになりかけている。
が、よくよく見ると、その包装紙は倉敷チボリパークのマークデザインが施されていた。
じつに自分の記憶は、思い込みが強く、いいかげんか。
なんで、うどんが、倉敷チボリパークに?
それに、ハードカバーの本は手のひらサイズからはみ出し重いので、読みにくい。
テーブル(ダイニングルームなので食卓)に置いたり、手に取ったり。
スマホより大きく硬くずしりと重い。
なので、少し読むと、すぐ疲れる。
ちょっとずつ読んでは、バタンと本を閉め、何か別のことをし、また読み、、、を繰り返している。
ちょっとしたことで涙したり、連続朝ドラのようなノリになっている。
つまり、楽しんでいるというわけだ。
明治時代末期の子供。小学生の兄弟。
今とは隔世の感。あたりまえか。
お兄ちゃんは、尋常小学校を卒業して上の学校に行かず、大阪に丁稚として働きに出た。
まだ物語は、ストーリー途中なので、これからの展開が楽しみ。
毎日、わたしの流す涙の分量は減ることなく増えるほど。
涙に飢えている?
涙腺トラブル?
そう言えば、喉が痛く咳込んだりすると涙がはらはら流れる。鼻水も、たらたらと。
これは身体反応のようだ。条件反射?
喉と涙は、耳鼻咽喉繋がりか。
涙は目、だけれど、目と鼻は近い。
わたしは辛いものを食べると涙と鼻水が止まらない。
先日、焼肉屋さんで、シシトウのような緑の細長い野菜を食べた途端、辛いと感じた瞬間に、喉、鼻、目が連動して透明の液体(涙、鼻水)が、どっと溢れ出た。
司令塔シグナルで、一斉に反応するようだ。
収まらないので、かなり困った。
あんな辛い食材をしれっと普通に他のものと一緒に出すのはやめてほしい。
それはそれとして。
涙が出るのはそのままでもよいにしても、鼻水ダラダラは、やはり処理したい気持ちになる。
席を立って鼻水を拭く。
読む→涙、鼻水→席を立つ→鼻水処理→読む→涙、鼻水→席を立つ→鼻水処理
これの繰り返し。
それなら手元にティッシュペーパーを用意すればよいのだが、やはり、わざわざ鼻水処理をしに行くところに、リズムが生まれる。
どんなリズム?
おそらく、根を詰めて読めないのだろう。
集中力の欠如。
だから、連続朝ドラになる。
本も長持ちしてよい。
作者も心魂を傾けて書いているのだが、一気に読まれては、しんどいのでは。
学生時代の元同級生の作家がそう言っていた。
作家の気持ちとしては、「一晩で一気読みしました!」と感想を言われると複雑な気持ちになるんだそうな。
時間をかけて作った料理や、手間暇かけて育てたフルーツを一口で一気にどんどん、ばばばばとすごいスピードで食べられてしまうと(小5男児孫がブルーベリーを食べ尽くすように)嬉しいというよりも、もう少し味わってほしいと、欲が出る。
と、またもや話が逸れている。
面白かったり感動した作品があると、芋づる式に(この表現はマイナスの色合いを帯びるから、適切ではないか)、その作者の他の作品を読みたくなる。
だが、ダイニングルームの本棚には、これまた出番を待っている本がある。
たくさん眠っている本があるのだが、読みたい本はほんの少し。(クローゼットに眠る服と同じ)
特にトレンド解説のノウハウ本などは、10年も20年も前のものは、気が抜けたサイダー。
そして、「女性の品格」などは、パラパラと飛ばし読みしたが(再読)、何を今更、もうお腹いっぱい。めんどくさくなった。
今、わたしが求めているものではなかった。
食べ物と同じで、自分の気分や空腹ぶりに左右されるようだ。
というか、わたしは読書はほぼしない人間だったので、本を読むようになった自分に驚いている。
自分再生?再構築?
あるいは、よっぽど暇なのか?
※
ちょっとこのツマラナイ記事で様子を見ます。