今朝の涼しさ。
幸せをもらった。
昨夜は集中豪雨(線状降水帯)の地域もあったようだが、異常気象は、人間が人工的に変えられない。
自然の厳しさ、過酷さと、自然の恵み。
自分ではコントロール出来ないだけに、一喜一憂してしまう。
農業人口が多くを占める昔の人が、生活の糧を得る元になる、雨乞いの儀式をしたり、神頼みになる気持ちもわからないでもない。
悪い意味で(不安になって)気になるなら、
堅牢な建物の奥深くに閉じこもっていれば、外の自然に接することもないだろう。
台風や大雨の時は、外の自然の猛威を遮断すれば良い。
竜巻の時は地下へ退避。(アメリカ映画でよく見かける)
地震の時は?
ミサイル攻撃には、核シェルターへ逃げ込む?
いったい、どこにある?
我が家は雨戸さえ無いので、いつも自然と共に生きている。
どの部屋にも窓があるので、逃げ込む部屋もない。
雷、稲光は、最も怖いものの一つ。
押入れに頭から突っ込み隠れるしかない。
異常気象の度に、ビクビクしている。
ゲリラ豪雨では、あっという間に庭が水田になる。
2階のベランダ、排水が心配。
排水量より、雨が降る量のほうが同時進行で多い時、頭の中でシミュレーションして、雨水がベランダ側のガラス窓を押し破るのではないかと、ドキドキひやひやする。
わたしは怖がりである。
逆に、少しでも良い風が、すーっと入ると、幸せ気分に浸れる。
と、朝の気温ひとつで、駄文だらだら。
さて。
わたしは人生が整ってきた感がある。
自分なりの人生。
余計なものや、こころ乱されるもの、憎しみなど、段々なくなっている。減っている。
モノ(物品)としては余計なモノだらけで、断捨離の概念に抵抗して闘っている。
わたしの敵は、断捨離。
一生、目の上のタンコブとして君臨して、わたしを苦しめ続けることだろう。
(こういう自己肯定の仕方もある)
ブログには、感情の吐け口として必死で思いを綴っていた頃があるが、憤慨したり逆上したりしているその時のブログのほうが熱く力があって、面白い。
今は、すーーっと力が抜けて、読む側としては気が抜ける(と思う)。
ツマラナイ。
これも変遷である。
と、ここで話が変わる。
わたしは今、昔の人々と対話している。
夫の実家にある、昔、先祖が暮らしてきた足跡を発見するにつれ、感慨深い。
蔵にある、昔昔のおばあさんの箪笥の中をふと5日前に覗いたところ、日常に使っていたクシや髪飾りなどを見つけて、怖いと思う時もある。
日用品、使い込まれている。
長年、使っていた当人の魂や息吹まで感じる。
辛く苦しい目に遭っていた当時の女性の怨念が篭っていたらどうしよう、、、。
(わたしのブログのように)
断捨離指導者から見ると、1番に捨てるべきものだろう。
断捨離優先順序、1番が100個ぐらい同時に並んでいる。
骨董品、アンティークショップで買ったものや、世界のあちこちで見つけた掘り出し物とは違い、確実にその地、その家で暮らしてきた実在の身元の知れた人々の生きた証拠である。
何年生まれ、何年没、戒名、親、きょうだい、夫婦、子供、孫、、、その中での何時代の誰それ、、、この場所、この家で生まれ育って亡くなった、その証が実際のモノが物語る。
人形やクシなどは、魂が篭っているから、お祓いして処分するのが良いとされる。
人形だけに特化した、人形を供養する神社もある。
針供養するところもあるらしい。
お役目ご苦労様、というものだ。
医学の発展により、昔は多産多死だったが今は寿命は伸び続けている。
過去の一人一人に思いを馳せると、(やんごとなきお姫様とは程遠いが)さながら絵巻き物のようだ。
幼い子供を亡くし、でもその後も家族は生き続ける。
立ち直り、生きる。
時間軸を遡り、過去から現在に繋がっている。
わたしは、血が繋がっていないから、夫の家とは血縁としては関係がない。
が、外から来た血を継ぎ足し、次代を繋ぐ役割りは果たしている。
第一、跡取りをはじめ、大事な子供たちを産んでいる。
嫁達の役割は結構、大きい。
お殿様ならたくさん嫁以外にも子供を産む女性はいるだろうけれど、一般庶民ではそうはいかない。
少なくとも、夫の実家では、同時に複数のお腹からは子供は産まれていなかった。
(ひょっとして表に出ていないだけか?
だが、実証できない。証拠がない)
子供がが生まれなかった場合は、養子を迎えたりして繋ぐ。
夫の実家は、不思議なことに、子供が生まれなかった代はなかったようだ。
今は、墓じまいや仏壇処分も行われる時代。
跡を継がないからといって非難されない。
自由。
煩わしいことや、制限を受けることから逃れる選択が出来る。
宗教を信仰しない自由もある。
価値観も変わる。
強制は出来ない。
各家、各人、個人の自由。
続けたい人は続けて、やめたい人はやめたらよい。
個人を取り巻く事情もあるだろう。
そういうことだ。
わたし個人に関して言えば、先祖の皆さんに関心を寄せている。
皆さんの生き様を想像している。
先祖を大切に大事に思っている割には、日頃の仏様への扱いが超手抜き。
わたしは、彼岸と盆、正月しか、直接、現地で接していない。
バリバリに熱心な仏教信者ではない。(日本人によくいるタイプ)
が、外国でも皆さんも各国、各人、各宗、似たような宗教的な行事が行われている。
俯瞰的に見ると、何教かは、それほど大事ではないように思う。
宗教同士を比べてみても不毛。
ただ、皆さん、家族を大切にしている、その強い思いが伺い知れる。
小さな部屋に置かれる小さな写真や祈りを表すものに、毎日、思いを込める。
それで十分。
祈りに形は関係ない。宗派も。
今の気持ちを伝える。
そうするとなんだか生きる力が還元されるような気になる。
ではあるものの、歴史を紐解くと、宗教の違いは古今東西、紛争の元となっている。