脱力感というとまだいいが、虚無感、無力感に見舞われている。
ぽかっと空洞が出来たようなかんじ。
何もする気にならない。
時間を持て余す。
キッカケは、ある。
だが、それは本当のキッカケではなく、たまたま、表面的な糸口だったように思う。
自分が追い求めているものは、自分が未熟なせいで絶対に手に入らないものだと実感した。
原因は自分にある。
自分の性格を大改造しない限り、自分以外に解決を求めてもダメ。
では自分が変わればいいではないか。
自分は変わらない。変わりたくない、変われない。
仮に変わろうと努力すると、土台から潰れてしまう。
今まで積み重ねてきたものをリセットすると、土台ごとなくなり、わたし自身が壊れる。
そぉっと、上のほうだけ変えたらいいではないか。
あるいは、最小限の芯だけ残して、大改造。
または、大々的な改造でなくても、ミニミニマイナーチェンジするか。
だが、自分が足を引っ張っている。
どうにもこうにもならない。
さらに考えられるのは、努力したからといって変われるわけではない。
期待する結果が得られるわけではない。
努力もせずに、架空で言っているわけではない。
努力はした。
よく言われる日本人的特徴としては、プロセス重視で、結果より、到達するまでの努力を評価するらしい。
が、、、諦めるという結果もある。
目標から手を離す。
諦観、解脱の心境。あと一歩。
そこで、般若心経読本。
あまり役には立たなかった。
気を鎮めたり自分を立ち直させたり、全然しない。
よけいに落ち込んだ。
何をしてもダメなようだ。
こういう場合は、何もせずに時を待つ。
が、待っている間は結構、苦しい。
こんなことは、今まで初めてだ。
とは言え、思い起こせば、かつても経験したように記憶する。
1回目の無気力は18歳、2回目は40歳代だったが、特に40歳代の無気力はただ「楽しいことをしたい、という、自発的&活発な意欲がない」と自覚するだけのもので、さほど気になるほどでもない、うんと軽い症状だった。
FMラジオではDJの元気な声。
わたしはほとんど内容は聴いていない、まさに、イージー・リスニング。
こうやって、意味を見出さない時間は、意味を求めないことが意外に癒やしになっていくのかも知れない。
※写真は、さきほど、今朝の、たくさん落ちたハナミズキの花びら。
家の前の道路に広がる花びらも、せっせせっせと拾って掃除した。