今、般若心経の本を読んでいる。
「般若心経90の知恵〜276字にこめられた生き方の真髄」
京都の天台宗のお坊さんが書いている。
1985年に第一刷発行のもの。(著者のお坊さんは、執筆当時44歳)
姑が持っていた(読んでいた)ものを(こっそり)もらってきた。
わたしは、舅、姑、その他、全てのモノは、自由に出来る。全員、故人。
処分したり整理したりする義務もあるが、次世代にズルズルと押し付ける権利もある。
まあそんなことで。
舅の本は、舅の家から次女が少し持ち帰っている。
主に長編時代小説。
時代小説ではないが、その中の一冊(山崎豊子、著)は、かなり面白かった。
Thanks.
まあそれはそれとして。
その般若心経の本はずいぶん前から読んでいるが、ほんの小さなサイズの文庫本なのに、なかなか読めない。
各ページはもう茶系ベージュの色を帯びて変色している。
早く読めばよいものを。
なんだか、難解。英語の長文読解ドリルのよう。
でも、この度、激しく著しくヒマ感覚(虚無感、無力感)に囚われ、(たぶん25年ぶりぐらい)、無理やり渋々読んだ。
まだ、半分を少し過ぎたぐらい。
今までは難解で少ししか読まなかったのだが、今回頑張って読んだのに、まだ読み終えていない感想は、、、
あちこち、わたしの考えと違う箇所が出て来る。
宗教の教えに、いちいち異論を唱えていては、とても入信できない。
著者は、天台宗のようだが、般若心経はどの宗派の仏教にも共通項があるのだろう、たぶん。
俗人にわかりやすいように、例え話が、あちこちに散りばめてあるのだが、その例え話に、いちいちツッコミを入れてしまうわたし。
「それ、違うと思う!!」
例として、AのコースとBのコースなら、Aが良いと思うのに、オススメは、B。
自分を命を差し出して仏に仕えよ、なんて、意味がない。
自分が生きなくて、なにが宗教か。
死んだ気になって頑張れ!ということだとしたら、そんな教えは言い古され、今に始まったことではない。
解釈ミスかも知れないが(確信犯的解釈ミスの可能性、大だが)わたしはそう自己流解釈した。
本筋を噛み砕いて示すために、わかりやすい現実的例え話を紹介されているのに、枝葉の方の例え話に、過敏に反論していると思われる。
それに、あの教えでは、少子化は益々進み、国が滅びてしまう。
一般人向けの教えと、仏門に入っている人への教えが混在しているため、混乱する。
特に例え話には、かなりの頻度で首を傾げる。納得できない。
狂信、盲信、妄信は、わたしには出来ない。
俗人だということだ。
解脱は、あの世に行ってから。遅いか。
生きているうちに解脱しなければ意味がないが、生臭く生きるのも「生きている実感」ライブ感があってよい、かも。
せっかく、神聖で崇高な般若心経を学ぼうとしているのに、自分の俗部分を自覚するに至るのみ。
それはそれで、効果があるのかも知れないが。
ただでさえ草食系の昨今の非婚の人々、、、肉食系欲求を抑える教えはいかがなるものか。
制度上、道徳に反することはするな、という意味ではあるが。
じゃあ、結婚しないでおこう、となるのは自然の流れかも。
例え話の一つに、自分の仏への道を邁進するため、色んな周りへの犠牲を経ている件(くだり)がある。
失敗を通して修行し、解脱するにしても、プロセスで迷惑をかけた関係者に対する懺悔や反省、お詫びの念には一切触れられていない。
自分の修行のために他人を踏み台にしてよいのか。
お坊さんが仏への道を説いていることと真逆の真理を汲み取ってしまった。
解説、書き方は、難しい。
わたしのような、へそ曲がり、あまのじゃくには、般若心経が泣いている。
とは言え、最後まで読まなければならない。
全部読まずに文句を言うのは、愚の骨頂。
読み終えた最後には、ぴかりと輝く光が差すことだろう、、、(1ミリも期待していないが)
また10年後に読めば感想も変わるし、吸収する部分も変わると思われる。
その頃は、理解力低下、視力低下、気力低下で、活字は読む気にならず、美しい音楽バージョンに編纂し直していただきたい。
ではあるが、、、わたしは、どうもマニュアル解説本は、苦手だ。