ご近所にお住まいのBさん。
蝶ブログにも何度もご登場いただいた。
(ご本人の許可は得ず。得る必要も義務もないが)
43年前から関わりがある。
初めてお会いした頃は、わたしは独身。
Bさんは、お店を長く一人で経営され、当時はご主人も存命。
華やかな方であるが、わたしは超苦手。
ご近所なので、嫌でも顔を合わせる。
「単なる苦手」が「超苦手」になり、その状態が長く続いたが、お歳を重ねてちょっと弱気になられ、最近は「普通」になったと思いきや、またまた「苦手」に返り咲いた。
今週のバス停。
いつものように、誉め殺し。
他の人の耳があるので、わたしは声を小さくしていた。
褒め殺しの内容が、聞き捨てならない、過ぎ去りし時代の過去の価値観であったため、わたしは、小さい声ながら、一気にベラベラと異論を唱えた。
すると彼女の顔色が変わった。
「上品なお声で仰るから、聞こえないわ。
80歳過ぎたら、綿棒で耳の掃除したら良くないそうですね」
と、仰る。
顔色の変わり方が、かつての姑とソックリ。
自分には理解できない、わけのわからないことを一気にまくし立てられる拒絶感、不快感が襲ってくるのだろう。
認知症初期の症状で、他人から自分に対する行動から受ける印象に、そういう感覚があるそうだ。
Bさんも、片足入っているようだ。
早かれ遅かれ、皆んなそうだけど。
顔色を変えた後、遅れてバス停にやって来たご近所Cさんの顔を見るなり、
「奥さん!お元気?
80歳過ぎたら、綿棒で耳の掃除したら良くないそうですね」
と話しかけていた。
わたしは、明らかに、聴き役から外された。
一方的に(怖い顔で)まくしたてるのは、NGであると、再認識した。
聴こえないのではなく、わからないことや聴きたくないことは、脳がシャットアウトする。
初期症状である。
高齢の人には、大きな声で、耳元近くで、ゆっくり、はっきり、短い単語で話さなければならない。
介護職や医療関係の人たちは、皆さんそういうアプローチをされている。
わたしは、家庭外であり、家の外なものだから、つい、普通の人に接するようにしていて、特別な話し方をすることを心がけていなかった。
が、複雑な話やプライベートな話なんかは、皆さんがいるバス停ではとても出来ず、相手の言うことを笑顔で聴いて頷くしかない。
わたしは、ボランティアさんでも専属ヘルパーさんでもなく、ましてや「苦手な人」歴が長い人には、そうすぐに優しく親切にできない。
これからは、高齢であることを念頭において、対応すると良い。
が、元々苦手な人にそこまで頑張るかどうかは定かではない。
やはり、元気な頃にどういう態度で接していたか、好感度はどうだったか、という過去のやりとりは、現在、未来の行動に対して受ける気持ちに影響がある。
家族であろうが、友人であろうが他人であろうが、同じかも知れない。
わたしの場合、元気な頃に、好き勝手してあちこちに敵を作ってしまっていたら、、、それはそれで、元気な頃、自分は満足している。
まだ訪れていない(予兆はあるものの)健全ではない時のことまで心配して憂慮していたら、せっかくの黄金時代が褪せる。
かと言って、人のフリ見て、やはり他人に映る自分も多少意識したほうがいいと自覚した。
この年齢になって、ようやく気づくことがある。
老化による変化なら仕方ないが、それまでのお互いの関係性の積み重ねた時間は、事実として消せない不動のものであると感じる。
関わりが長ければ長いほど、状況も変化し、色んな側面を持つ。
※写真は、一昨日、広大な公園の一角で見た、竹とタケノコ。