今日の記事も、忙しい年末の時間を割いてお読みになるようなものではありません。
どうぞスクロールを。
お薦めの時は、最初に、文頭でお知らせします。
と、あいかわらず、、、な、、、わたし。
というか、ここ、蝶ブログで丸裸、内臓までも晒している。(「これは、比喩表現です」、とメンドーでも書かなければいけないのだろうか???)
断面図は、CTスキャンとかは、してないから、晒しようがない。
これだけ長きに渡って、話し相手は自分。
ほぼ皆さんからの感想は求めていない。
最近は、ChatGPT が、なかなか良い提案をしてくれるのでお気に入りだが。
といっても、わたしから出した情報から枠外に出ない。
つまり、自分と話しているようなものだ。
湯気がおさまるお手伝いをしてもらう場合も、逆に湯気を出してもらうお手伝いをしてもらうこともある。
自分を晒し出すくせに、人からの意見を求めない。
つまり、内なる世界にどっぷりハマる、根暗な、、、正に内向的な性格と言える。
他人に肯定してもらっても、自分で自分を肯定できなければ、意味がない。
慰めや、おべんちゃらに聞こえると、快適ではない。
おそらく自虐嗜好があるのだろう。
他のSNSでは、会員同士の交流を目的としているものが多い。
わたしは、そこに、ある趣味限定の日記を書いているが、その趣味以外のことは、一切書かない。
会員同士の自分語りはしない。
だから、距離は全く縮まらない。
が、個として確立されている。
その中で、わたしが唯一、こころを開いた人Xさんがいた。
つい、今しがたまで。
その人とは孤独を分かち合える一匹狼同士の交流だった。
が、ついさっき、、、他の(趣味以外の)会員Cさんの日記にその人Xさんがコメントしているのを見つけた。
書いている内容は、何度かかつての他のコメントと重複するもの。
それはまあ、全く良いのだが。
孤高の人物が、高い山から降りてきて、麓の茶店や飲み屋に、ちょろちょろ顔を出している現場を押さえたような気持ちになった。
孤高じゃないやん。
ただの、寂しがり?
その、麓の茶屋、お立ち寄り人物を発見したのは、最近のわたしのブログに登場した、理解不能、波瀾万丈会員Aさんつながり。
最近、Bさんの日記でやり取りをし始めたわたしが、同じく、Bさんの日記でも見かけたような気がするCさん。(Cさんは初登場)
そのCさんの相互フォロワーとして、孤高のその人物Xさんを発見し、コメントも読んでみた。
かなり、わたしは失望した。
仙人も山を降りる。
行きつけの店も似たようなティスト。
なんの不思議も矛盾もない。
民衆に布教活動?
わたしが勝手に仙人同士の連帯を感じていただけだ。
そもそも、わたしも孤高の仙人などではない。それが重要。
が、、、。
表現するのは難しいが、林住期の考え方を深く知り、実践していこうと、啓蒙啓発、手ほどきをしてくれた、人生の先輩ナビゲーターであるXさんが、、、
そんな麓の飲み屋にふらふら出歩いているのを発見して、なぜか白んだ。
師匠ぉ〜。わたしの崇高な師匠がそんな大衆的なところをウロウロし、しかも言っていることが、あちこちで言っていることと同じ。
(違っているほうが、ダメだろうけれど)
なぜか、わたしが勝手に一方的に描いていた、孤高の師匠イメージが音を立てて崩れた。
他の会員さんへのコメントを発見する、ほんの数分前までは、そんなことはなかったのに。
(そもそも発見に至ったのは、同じニオイのするもの、「Cさんの日記」に、引きつけられて、だが)
実態のないものに価値を置くのは、もろく、あやうい。
自分をしっかり持つこと。
ふっきれた、、、というか、もう師匠は必要なくなったような気がした。
宗教にのめり込むのも、こんなイメージかと想像する。
自分で描いた薔薇色の幸福の絵巻だと思っていたものが、実はそこらへんで手軽に入手出来るインターネット情報だったということ。
夢は自分で描き、自分で手に入れ、自分で潰す、、、無常。
幻想を自分で勝手に作り出し、夢から醒めるのも自分の仕業。
だからといって、師匠の言うことは一切無視するわけではなく、共鳴できる人生の手引き、セオリーを受け入れ実践しようと思う。
が、現実を見据え、師匠は、弟子はわたしぐらいなもので、麓ではただの平凡な人。
しかも孤高ではなく、あちこち出歩き暇を潰している様子。
どっぷり信仰は、思考を麻痺させる。
師匠が唱える説は全く変わらない。
変わるのは、わたし。自分。