蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

2014-04-16 | わたし
わたしの最大のネックは、理想と現実が乖離していることである。
理想を下げるか、現実を引き上げるかしないと、ぴったり一致しない。
が、両方ガンコで、なかなかサボりはなおらず、理想はあくまでも高い。

サボっているだけで、やれば出来る・・・と思っているのは傲慢である。
じつは、やっても出来ない。
しかし、やれば出来ると思いつつサボっているのは、自分を甘やかしているだけである。
しんどいことをするのが嫌なだけだ。ハードなことは避けているだけだ。
本当はやれば出来る。
が、しない。
いや、出来ない。
能力はあっても、努力をする能力がない。
プロセスをクリアする根性がない。

本当に能力があるのかどうか、とことんやってもいないで、いつも途中で投げ出すので、
能力がない、と自分で思っている。
そのほうが、楽だからだ。
能力のある人のほうが、辛くしんどい。
「アタシ、出来ないの~」と言って放り投げるほうが、ずっとずっと楽だ。
他人の評価など気にせず。
ストレスは溜まらない。

だが、他人の評価が気になる人にとっては、
自分の評価が低いこと自体に、ストレスが溜まることだろう。

・・・

とことんやる、とことん努力するのをどこらあたりまで追及するか。
自分に対して、あきらめず、どこまで熱意をもって頑張れるか。
対象は自分であり、実行者も自分である。
命令するのは、自分、命令に従うのも自分。

じゃあ、過酷な課題など取り下げて、楽ちんコースを自分に課せばよい。
指示する側も楽だし、実行する側も楽だ。
しかし、そこで、理想とか、そういう、ややこしいものが、安泰コースの邪魔をする。

・・・

出来ないのではなく、したくない。
努力を惜しむ。
自分を甘やかす。
すると、現実と理想との間に、ギャップが生まれる。

したら出来るのに、しない。
じゃあ、しなさい。
でも、血の滲むような努力は、したくない。
堂々巡り。

面倒だから、目標を下げる。
よかったね、となって落ち着く。
しかし、理想は、まだこころのどこかで、くすぶっている。

・・・

そもそも、わたしは、自分が出来なくても、代用品や、代用人など、
自分の手足となるもの、ひとの助けを借りて、思いをそこそこ達成する。
それには、知恵が必要だ。
自分が出来ないことを代わりにしてもらうためのノウハウ、策を考えなければならない。

すると、自分は出来ないが、擬似的に出来た気分を味わえる。
そのための魔法の杖が必要である。

魔法の杖は、いつもリサーチし、手入れしていなければ、作動しない。
ただの杖になる。
最悪の場合、ただの杖でもいい。
自分を支えてくれたらよいのだ。

お気に入りの杖も、ぽっきり折れたら、・・・
新しい杖を買えばいい。
カラフルなものや、頑丈なもの、軽いもの、新材質・・・新品は新品なりに楽しい。
値段が高くて買えないなら、山で木を切って自分で作ればいい。
(山の木の所有権は、国だったり、個人だったりするのだろうか?)


いつだって、杖を持っていればいい。
自分仕様の杖。
人に貸してあげても、他人には役に立たないかも知れない。
その人その人の、各々に合った、独自の杖があるといい。
改良して、自分に合った杖がいい。


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なにかが

2014-04-15 | 日々のこと
今日は、胃袋に穴が開いているのか。
食べても食べてもお腹が空く。
飢餓状態。
不思議だ。
ばらばらのジャンルのものを、とりとめなく食べた。

・・・

ふと思った。
のんびりいきたい、って、前に書いたが、今日は、違うことを思った。
「時間がない」。

これは、あるリアル人が言っていた言葉である。
その人には、時間がなかった。
その人の時計は、普通の人の何倍もの速さで回っていた。
すごい超人的なスピードで、脳が動いていた。
生き急いだ。

わたしは、おっとり、のんびり、ぬ~っとしている性格なので、
そういう時間に追われる感覚がよくわからなかった。
が、自分のやりたいことが、はっきりわかっていると、時間が足りなくなる。
ぼ~っとしている場合ではなく、フルに時間を使い切りたい欲望に駆られる。

有意義に時間を使いたいと、とても強く思う。
楽しければいいじゃない、と、ただ享楽的な気分にはならない。

・・・

人は、いろいろ考えが変わるものだ。
自然発生的に変るのではなく、なにかに出会ったり、出来事があったり、
そういうことが身に降りかかって、感動したり、衝撃を受けたり、動揺したり、
価値観が変るきっかけになったりする。

急に、人間がころっと変ることはないが、
なにかの時点で、こころの奥のどこかで、くるりと方向が変ったような、大きく弧を描いたような、
結果はすぐ表面には出ないが、なにかが、自分のなかで変ったような気がする。


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最近のわたしのブログ、なんか重い。
そういう雰囲気。
また、変ることだろう。



おもちゃ

2014-04-14 | 日々のこと
Windows XP サポート終了に伴い、重い腰を上げた。
大手家電店に行ったが、不評の「8」しかないので、
その店では買うことをやめ、そこの家電店のポイントを溜めるのをあきらめた。
別の小さな、ちょっとマニアックな店で「7」を購入したが、少し、規格品にプラスアルファのオーダー変更をしたので、
入手は、あと3週間ほどかかる。

とは言うものの・・・わたしの役目は、カードで支払う時のみ。
アドバイスをしてもらった、パソコン・ソムリエの婿に、お任せ、丸投げ。

大手家電店で、わたしが最も興味を抱いたのは・・・
幼児用の電子ピアノ。
いろんなリズムやトーン、音階、演奏楽器の選択、編曲、組み合わせ、
特定の曲の自動演奏、あれこれ、いろいろいろできる。
鮮やかな原色の小さなピアノに、ちょこんと赤い椅子が、ちっちゃくて、またカワイイ。
あれは、子どもではなく、大人が欲しいのではないかと思う。
子ども(孫)をダシに親(じじばば)が購入したい魅力がいっぱい。

親の趣味で、電車のオモチャに凝る場合もある。
いろんな私鉄やJRの電車を、複雑な切り替え線路や踏み切りなど、バリエーションを揃えたりする。
お人形さんや、おママゴトも、自分が遊びたい目線で選んだりする。
こんなオモチャが欲しい!!と、当事者の子どもではなく、大の大人である、自分が思ったりする。
実際、子どもは、違う趣味だったり、興味だったりするのだが、最初は親の押し付けとなる。


うちの場合、ふつうのピアノは、家にあり、孫には時々、適当にアットランダムに、ばんばん触れさせている。
リズムや音階など、まったく無視して、たんなる鳴り物として扱っている。
これが、ド、これがレ、とか、まったく教えていない。
右側に寄ると高い音が続き、左側は、低い音。
指一本だとひとつの音だが、両手で、ばんばんと叩くと、重なる音、濁った音。
正統なピアノであるが、使用用途は、たんなるオモチャとしてのピアノである。

わたしは、ピアノに関しては、ぜんぜんうるさくないので、なんだっていいのだ。
自分が嫌いなのに、ピアノを延々と幼稚園児の時から小学6年まで習わされていたので、もう、うんざり。
(子どもにも、幼少の頃、無理やり習わせて、全員ピアノ嫌いにさせてしまった)
でも、今は、そのおかげで、少しぐらいはクラシック楽曲を下手ながらに弾くことができる。
古典音楽に触れる機会を与えてくれた親に、感謝。
ちーちーぱっぱの幼稚園の先生ぐらいの程度なら、即興で子どもの曲は弾ける。
これまた、感謝。

でも、わたしが欲しいのは、あの電子ピアノ。
わたしが子どもの頃も、電子オルガンや、エレクトーンも世の中には出回っていて、
昨日、家電店で見た、オモチャピアノのような機能はついていた。
義母の家にも、エレクトーンがあったが、いつの日からか姿を消した。
誰かに、もらってもらったのだろうか?
(アップライトのピアノは、まだあるが、もらってもらう予定はない)

家電店のあの電子ピアノのオモチャは、売り場で自由に弾かせてもらえるのだが、
どこをどう探しても、値段が表示されていなかった。
いったい、いくらなんだろう?
高いのだろうか?
気にさせて、値段を表示しない、あれは手か?

見かけは、オモチャっぽいが、内容は優れていると感じた。
しかし・・・サル並のやんちゃっぷりで、
電気コードを引っ張ったり、わけもわからず、めちゃくちゃな扱いをして壊されたりすると、嫌なので、
大事に大事に扱い、あまり遊ばせないかも知れない。
あるいは、幼い子どもにはあまり興味を持ってもらえなくて、ほったらかしになるかも。
またもや、自分のコレクションを増やすだけになりかねない。

・・・

ちょっと外に出かけてみると、刺激になる。
欲しいなんて思いもしないようなものに食指が動いたり、注目したり。
なにも今時、今さら目新しくもなんともないものが、ちょっとした味付けを変えることによって、新鮮に映る。
目線が変ると、同じものでも、生きてくる。

モノだけに囚われないと思う。
脳に刺激、感性に刺激を与えると、
いつもながらの味気のないものや、飽き飽きしているものに対しても、
新しい風を感じることができる。

これをお料理に活かせば、家族は泣いて喜ぶのだろうが、
哀しいかな、わたしは料理は・・・イマイチ、イマニ。

掃除、整理、整頓は大の苦手、嫌いなくせに、美しいものや、美術品が好き。
この大いなる矛盾。まったくの矛盾である。
料理は出来ない(ヘタ)けれど、グルメであるのと同じことか。
そういう、世の亭主は、じつにやりにくい。
調理したものを投げつけてやりたい心境になる。
が、自分も同じ穴のムジナなので、あまり言うと、自分の首を絞める。

自分は出来ないくせに理想が高い。有言不実行。
出来ないなら、偉そうに言うことなかれ。
出来てこそ、声に出すべき。
出来るけれど、それも言わないで、ひっそり実行するのが、理想中の理想だ。
が、理想は遠い。

目指す「不言実行」を、いつも呪文のように唱えるだけで、一生が終わりそうだ。


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ブログ

2014-04-13 | 日々のこと
あるリアル人は、来る日も来る日も、毎日の生活で撮った写真をブログにアップしていた。
わたしも、レストランで給仕されたものを、毎度毎度、ケータイで撮ったり、
旅先では、日記メモ代わりに、食べたものを写真に収めた。
場所や日時を忘れていても、その前後に挟まれる食べたものを見ると、
けっこうしっかり記憶がフラッシュバックする手助けになる。

わたしは、ブログに日記代わりの写真をアップするのは、いつの日からか、やめた。
だが、自分のケータイや、デジカメのデータには、それらの写真が保存されている。
ケータイの写真は、電車の待ち時間などで、
すべてのケータイ系の用事(メール、サイト閲覧、交通検索など)をすませてしまった後、ときおり、帰路に見ることもある。

バスの時刻表を写真画像で保存しているので、時刻をチェックするために、写真をぱらぱらと探すときに、
ついでに撮り溜めた写真を見ることもある。

自分のため、自分の楽しみに。
人に見てもらう、見せる、その手の趣味は卒業した。

趣味ではなくても、毎日、歯を磨くかのごとく、日記のごとく、習慣になってしまって、
特に意味や意義はないが、ブログにアップするケースもあるだろう。
ブログにアップしないでも、記事を書き溜めるだけで、投稿しないということもできるだろう。
でも、わたしは、記事(テキスト)は、アップする。
歯磨きと似ているが、最近は、少し傾向が変ってきている。

以前なら、たとえ数行の、自分にとっても、人にとっても、無意味なものでも、なんでもかんでもアップしていたが、
今は、違う。
そうすると、ばたばたとブログを短時間でアップできなくなった。
ある程度のかたまった時間が必要になる。
10分や15分のすき間時間、短時間を利用して、ということはなくなった。
そういう場合は、更新はあきらめる。

・・・

なにを書きたいか、書き始めないと、わからない。
それが、厄介だ。
書きたくなくても、書き始めると、なにかしら、書きたいことが出てくる。
わたしがブログを更新しないときは、時間が取れないときだけである。
書く気がしない、気が乗らないということは、一日もない。
日常とは違うスケジュールで動いて、ブログタイムが確保できないときは、書けない。
無理やり書くことは、しなくなった。

無理やり書く意味が、自分にはなくなった。
ブログの向こうの皆さんを意識してはいるものの、迎合しすぎる必要を感じなくなった。

・・・

自分のこころの声を聴く。
それをすくい取って文字にする。
すると、すっと気持ちが落ち着く。
読経タイム。

人に聞いてもらうことに、必要性を感じるかというと、
必要性はないものの、読経は声を出して読まなければ、黙読では意味がない。
なので、わたしは、おそらく自分が書いたものをアップするのだろう。

・・・

じつは、これ、本日の助走。序章、プロローグ。
今から、なにを書こうか、考えている。長い長い前置きだ。
で、もうしき、ブログタイムは、終了しなければならない。時間が来ている。
ああ、困った。なにもまだ書いていないのに。
こういうときに、困るわけだ。
(ブログだけにとどまらず、助走だけで終わるなんてことは、よくある)

日曜日なのに、日常とは別のスケジュールが迫ってきているという現実。
それなりに忙しい生活を送っているということだ。
緊張感や役割感を持つ生活そのものに、自分の意義があると感じる。

自分時間と、他との調和を図る。
微妙なバランスである。

自分だけでは生きていけない。
他との関わりで生きている。
「他」といっても、見ず知らずの他人だけに限らない。自分以外の人のこと。
それは、家族であっても、「他」である。

かけがえない愛する家族であっても、「他」である。
核は、自分。
自分の中の芯の存在があって、自分は動いている。


さて、そろそろ切り上げる時間になりました。
アタマが温まるのに、時間がかかりすぎた。
脳内・作動装置、故障気味。バッテリー切れか?

中途半端ではあるけれど、なにかと忙しい季節に突入している。


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2014-04-11 | 日々のこと
自分の思うように人を動かすのは、至難の業である。
自分がしてほしいことと、人がしたいことは、同じとは限らない。

ナニナニしてくれない。
と、不平を言っても、人にナニナニしてほしいなら、それなりの動きをしなければいけない。

してほしいのに、してくれない状態にじっと耐えて、なんの意思表示もしなければ、人にわかってもらえない。
ある程度の働きかけをしなければ、伝わらない。

人によっては、
「なぜ、しない?」
「なぜ、してくれない?」
と、怒って詰め寄るタイプもあるだろう。

そんなふうに言われて、喜んで行動する人はまず、いない。
強制で、動く。

「だれだれは、してくれるのに・・・」
とあきらめ調で愚痴るタイプもあるだろう。
ひたすら、鬱陶しがられる。

「してくれたら、嬉しいな」
と、明るいタイプもあるだろうが、欲求内容による。
どう考えてもしたくないことを、笑顔で爽やかに言われても、したくないものは、したくない。

「わたしなら、こうする」
そう言って、自分も実践し、ある程度、成果もあがっていて、なおかつ、強制ではなければ、
自然にやってくれるかも知れない。
が、サボりな人には通じない。

「あ、そ。
じゃあ、あなた、がんばってね」
で、おしまい。

動かない人は、テコでも動かない。

どんな表現であれ、要求の内容による。

・・・

人になんと思われようが、評価されなかろうが、一生懸命、自分の道を貫き通す。
その姿を見て、こころを打つものがある場合も、ない場合もある。
家庭内のことであれば、家族は、ある程度の影響や感想を持つだろう。

「うちの方針だ。当然ながら、あなたもしなさい」
頭ごなしに、強制されると、どうなるか。

歌舞伎役者など、代々世襲している家庭は、いかにそのあたりの困難を乗り越えてきたことだろうか。

親の道を引き継ぐ子どもと、まったく正反対の道を選ぶ子どもがいる。
反発したり、自分の道を見つけたり、あるいは、尊敬したり。
それは、子どもが成人になって独自で決めることである。

サラリーマンであったなら、職業的な、そんな葛藤はないだろう。
被雇用者の中でも、公務員がいいとか、メーカーがいいとか、
それなりの身近な見本を見て、特徴を参考にして考えることだろう。

時代の流れというものもある。
武士が最高でも、明治維新以降、武士ってその職業は継げない。
軍人さんも、戦争が終われば、無職。
公家も貴族も、制度、体制が変れば、無職。
地主も小作人も、時間と共に変貌する。

戦後のどさくさから這い上がる人もいる。
高度成長期で、のし上がる人もいる。
時代の波に乗る人も、乗れない人も、転落する人も、いろいろいる。
すき間や狭間から、零れ落ちる人もいる。
上がったり、下がったり、ジェットコースターの人もいる。

・・・

人を動かす、という話から、大幅に脱線。

子どもは、子どもの道がある。
ある程度の年齢になるまでが、親の義務。
その年齢は、個人差がある。

外国に比べると日本人は過保護の傾向にあると思う。

子どもから大人に成長する過程で、親がどこまで手を出すか、口を出すか。
これまた、親の性格や方針によって、様々だろう。

こうしなさい、ああしなさい、と口うるさく躾ける親。
これは、子どものタイプによっては、効果がある場合もある。
言われなければ、まったく何もしない子どももいる。
自主性ゼロ。
強制しないと、何もしない。

優しく言われると、付け上がって、あんまり真面目に真剣にやらない子どももいるだろう。
厳しいほうがいい場合もある。

だが、ガミガミ怒鳴られ、殴られ、怒られ、叱られ、そんな教育って、わたしは嫌いだ。
体育系やスパルタ系の、厳しい教育なのかどうかは、知らないが。
優しすぎるもの、肝心、肝要なことを抜かしていては、腑抜けで良くない。
今、思えば、厳しくされた辛い時代があってこそ、結果として実を結んだ手ごたえを感じることもある。
何かを習得するには、厳しい時期がないと、優しいばかりでは、なにもモノにならない。

いずれにしても、難しい。

・・・

自分がいいと思ってやっていることを人が見て、人も同調してくれたら最高だが、
哀しいかな、わたしの場合は、ありえない。

人がやっていることを自分が見て、いいなあと同調した場合、真似してみることはある。
取り入れる。
すべてを取り入れることは、ない。
いいとこ取り、自分仕様。
加算法。

逆の場合もある。
人の悪いところは、自分への注意、戒めの材料にする。
消去法。

どんどんいいところが増えていって、点数が伸びるかというと、そんなことは決してない。
自然消滅していることが多々ある。
良い面も、悪い面も。
補充、補足しないので、目減りしている。

悪い面は、あまり減らずに、良い面が減ったりするので、厄介だ。

・・・

自分を貫き通した、孤独な、でも強いおばあさん、
あのおばあさんのお葬式の話、生き方を、自分なりに消化できる日は来るような、来ないような。
消化できないまま、胸の中、腹の中に、ずっと溶けずに気になって、持ち続けている気もする。
やがて、溶けて内臓に染み入っていくか、あるいは、異物として体外に排出されていくか、
どんなかんじだろう。

自分自身の歩みは、これからも歩み続けていかないとわからない。



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子育て

2014-04-10 | 子育て
わたしの子育ては、肉体的には大変だったが、精神的には楽だった。

年子で3人なので、忙しいかったが、一気に、カタがついた。

なんでもまとめてのほうが、めんどくさくなくていいわ~と甘く考えていたが、
3人一度だと、せいぜい2人分、2倍程度の手間かと思ったが、
やはり3人分、きっちりかかるのだなあと実感した。

今のように紙おしめも日常には使わなかった。
毎回毎回、義母と義母のご近所友人が合同で手作りしてくれた布製おしめを使用していた。
子どもは、複数人、同時におしめをしていた時期もあった。

洗濯は大変だった。
雨の日は、おしめの山を室内に干した。
おしめカバーは、すぐ防水機能が損なわれた。

今のママたちは、いい。
家にいる時(在宅時)も、日常使いで紙おしめを利用している。
わたしは、外出時だけ紙おしめだった。
あんまりおしめ代はかからなかったが、その代わり、手が荒れて荒れて、ぼろぼろに、えらいことになっていた。
洗濯は簡単だが、洗濯機に入れられるよう、トイレでおしめを下処理するのが大変だった。
昔の人は、洗濯機もなく、それはそれはご苦労様である。

食事や入浴、就寝・・・すべて、ひとりで3人分行う。当たり前のことだが。
育メンは、ゼロ。
子育てや家事を手伝うどころか、子どもがひとり増えるかんじで、
夫が帰ってくると、かえって手がかかるので、憂鬱だった。
帰ってこなければ、どんなに楽かと思った。
そういう時代である。(といっても、夫に対して、時代遅れ感は、感じていた)

自分は当時、専業主婦なので、それで当然と思っていた。
ひたすら、たいへんだ~と思って、こなしていた。

幼稚園に入園する日を指折り数えて待っていた。
縁もゆかりもない地に転々と転勤し、地縁も血縁も知人も友人もなく、
来る日も来る日も、もくもくと動物のような乳幼児とだけ過ごしていた。

うっぷんを子どもで発散して、あたる、などというチャイルド・アビューズは、まったくなかった。
手をあげたことは、一度もない。
不思議なことに、彼らはとてもお利口さんだった。
みゃーみゃー泣いている、か弱き動物のような小さな幼子に、手を上げるなどとはありえない。
3人だけの小さな私設保育園のような感じで、ミニコミュニティを形成し、長女を長に、秩序が保たれていた。

園長先生は、わたしである。
現場監督を長女に任せ、遠くから見ている感があった。
(直接の身の回りの世話はするが)

だが、この現場監督は、時々、上司であるわたしに、いろいろ現場改善要求を突きつけてきた。
サボりであるわたしは、重い腰を上げて、しぶしぶ、それに応じた。

が、憎たらしいと感じたことがない。
なぜなら、いつもわたしは手を抜こうと、そればかりを考えていた。
いかにすれば、最低限度の手間で、コトが進むか。世話をカットできるか。
なので、子どもが不平さえ言わなければ、どんどん手を抜いていた。
文句を言われるまで、ほったらかしていた。
一種のネグレクトである。
が、食事を与え、身を清潔に保ち、身辺の世話はちゃんとした。
(とは言っても、自分が出来る程度のこと。教科書のお手本のように完璧、とは決して言わない)


精神的な面でも、ほったらかした。
放任である。
放置と放任は違う。
枠いっぱい、その枠の中でなら、どんなことがあってもOK。
思いっきり遊んでOK。放牧。草食べ放題、走り放題。
ただし、絶対に譲らない部分はあった。
それは、知育面の教育である。

泣いてもわめいても、一日のすべき義務は絶対に果たさせた。
ちょっとかわいそうかとは思ったが、それこそ、こころを鬼にしていた。
上の二人はスイスイ、そこそこいい調子だが、一番下の子は、涙ぽろぽろ、わーわー大声で泣いた。
せっかく無理やり無理して頑張った課題が、回答がほんの1ずつ、ずれていたりして、ぜんぶ、やり直し。
ほんとうにつぶれそうになったら、やめさせようと思っていたが、つぶれる直前に、どうにか持ち直していた。

彼女は、小学校の時も、中学の時も、つぶれそうになっていた。
先生にも個人面談で、注意された。
ほんとうに嫌なら、やめていいのよ、と彼女に言ったり、転校も薦めてみた。
が、彼女は、「やめない」と頑張った。
どうにか、持ち越した。
今は、身体を壊さないかと、こちらがはらはらするぐらい、ハードに仕事をしている。


わたしは、自分がサボりなので、どうもほっておくと手を抜く傾向にある。
相手の様子を見て、まだまだ大丈夫そうだと思うと、どんどん手を抜く。
もう、どうやら雲行きが怪しくなってきたかなと思う頃には、少し動きを見せる。
だが、待ちの構え。本格的に動かない。
しっかり動くのは、もうだめのようだと判断した時。
サボりは一時、中断。

ぎりぎりの限界まで動かない、動けない。

子どものココが許せない、なんていう面は、まったくと言っていいほどない。
少しぐらいはあっても、子どもがわたしのココが許せない、という面のほうが多いように思う。
いつ、わたしのサボりを指摘されるかとヒヤヒヤしている。

子どものココを絶対に直なさければ、なんていうことはない。
いずれ大きくなれば、わかること、理解できることなので、気長に待っていた。
あまりにもヒドイと、注意するが、自分の方針に従わせようと強制的にねじ伏せることは決してない。
とは言いつつ、じつは、子どもたち本人が知らないうちの、こそっと自分の方針に載せている。
走りながら、本人たちは、あまり苦にしてないようなら、そのまま走らせる。

親の思い通りにならなかったり、子どもが自分独自の方針を打ち立てたりすると、
それは自我の確立であり、親から離れて自立したんだと思う。


わたしの基本は、サボりで手抜き。
じっと待つ。
なので、モノゴトがうまくいったりすると、申し訳ないような、感謝の気持ちに転じる。


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わが道

2014-04-09 | 人生
あるおばあさんのお葬式。
団地内にある、とある小さな自治会館。
参列者は、親戚、知人合わせて10人いるか、いないかぐらい。
最初に手短に焼香が行われた後、
葬儀進行係が、「他の列席の方、お焼香をお願いします」と呼びかけても、しーん。
誰もいなかった。

非常に、潔く、さっぱりしていた、という、参列者の感想だ。

遺影は、肩をいかつかせて、カッと目を見開いて怒っているような、
恐い顔。
けんかばかりしていたという、そのおばあさん、いかにも彼女らしい顔だったそうだ。
友人づきあいも、あまりなかったらしい。


「皆に惜しまれる、立派なお葬式でなくてもいい。
家族にも友人にも恵まれなかったようだが、彼女らしい生き方をしていた。
すっきり、それもいい、ある意味さわやかさを感じた」と、その参列した人が言っていた。

人がどう思おうが、人にどう思われようが、
けんかばかりして、ぷっつんぷっつんと人付き合いも切れていこうが、
その人らしい人生なのではないか。

自分らしい生き方をしたのだから、評価や、見栄えなど、関係のないことではないか、と。

何にもとらわれない、自分らしさを貫き通すって、その人なりの筋が通っている。
人に映る自分より、自分自身を守り通したおばあさんだったようだ。

それも、いい人生だ、と。

わたしは、その点、まだ、迷いがある。
まだまだ浮世に未練がある。
捨てきれないものが、たくさんある。

人に良く思われたい、という、下心もまだある。
どんな人に見られても、自分が納得できるような足跡を残したい虚栄心もある。
すぱっとした人生は、送れそうもないが、
迷いつつ、それなりの、自分では帳尻の合った人生を送ることだろう。


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子ども

2014-04-08 | 日々のこと
子育ての仕方には、ひとそれぞれ、微妙に尺度が違う。
実際に真っ最中の人と、眺めている人とでも、温度差がある。
大勢のママ軍団が、周りの迷惑を顧みずに、当然の権利とばかりの態度には容認できないものがあるが、
ベビーカーを折りたたんで、電車に乗るべきという意見には、いささか違和感を感じる。
ぎゅーぎゅー満員のラッシュ時や、保護者が、二人以上いるなら、まあわからないでもないが、
保護者が一人で、(二人でも)、空いている時間帯なら、ベビーカーはたたまなくてもいいと思う。
抱っこして、重いベビーカーを持って、荷物を持って、というのは、かなり大変だ。
抱っこできない状態のベビーもいるし。
当然の権利とまではいかなくても、大目に見てあげてほしい。
というか、保護者一人でベビーカーをたたんで持って、ベビーを抱っこして、荷物を持つという、
そんなハードなことをしている親子は見たことがないが。

あくまでも自覚、認識が大事だということだろう。

自分の子育てを振り返ると、
電車には、帰省する時以外は乗らなかった。
平常時に、子どもを連れて電車に乗るなどという、そんなストレスのかかることはしない。
自分が疲れる。
街に用事に出かけたり、ママ友と会いに、なんということは考えられなかった。
(ママ友、いないし)
ベビーカーや自転車で、自宅周辺をうろちょろするだけだった。
先日、地下鉄で、三人の乳幼児を連れたママを見かけたが、すごいなあと感心した。
若いということは、バイタリティがある。

自宅を離れて、子どもの面倒を見るなどと、そんな疲れることを選択するなんて、
わたしには出来なかった。
家で世話しているほうが、ずっと楽だった。
スーパーへの買い物や、公園などにベビーカーで出かけることはあったが。

と書きながら、そういえば、デパートに1歳と2歳の2人を連れて、よく行ったような記憶が蘇ってきた。
電車には乗っていないが、バスには乗ったような・・・。
ベビーカー、どうしてたんだろう???
忘れている・・・。

他にも、分別ある大人たちに眉をしかめられるような、大胆な子育てをしていたような、
記憶の断片が次から次へと蘇ってきた。
若い頃は、怖いものなし。
だから、子育てができたんだろう。
よくぞ、無事にたいした怪我もなく、大きくなってくれたと、ヒヤヒヤしつつ、胸をなでおろす。

当時、ご迷惑をおかけした(かも知れない)大人の方々、失礼しました。

・・・

子宝とはよく言ったものだ。
まさに、宝だと感じる。

小さくて可愛いのは、当たり前。
わけがわからないので、手がかかるのは、当たり前。
それを過ぎると、だんだん子育てが難しくなってくるのも、これまた仕方ない。
やがて大人になって、身近にいなくても、遠くで自立して頑張ってくれていたら、それでよし。
自分がこの世を去った後、「あとは頼んだよ」、と、心残りなく、現世からサヨナラできたら幸せ。
孫も曾孫も、いろいろいて見送ってくれたら(家族葬でもなんでもいい)、けっこうこの上ないことだ。
押し付けられるほうは、たまったものではないかも知れないが。

押し付けるものをできるだけ少なく、軽くしたい。
義務と権利。
両方、ライト感覚で。

仏祭りと相続は、めんどくさくて、重くて煩わしいと思われるので、
逃げ出したくない程度に、キレイに片付けていたら、負担も少なくなることだろう。

小さい子どもの時は、わけもわからないけれど、だんだん大きくなるにつれ、
肩に圧し掛かる重圧に押しつぶされそうになることだろう。
子孫に美田を残すな、と、昔の人はいいことを言う。絶妙な表現だ。
この解釈の仕方も、ひとそれそれ、いろいろ分かれると思うが。


・・・

今日のブログは、キーを打つ指が遅いこと、遅いこと。
何度も止まる。
いつもは、一気に、たたたたたっと打つのだが。
自分のブログのあり方に、ちょっと疑問を持っているので、
ふと考えてしまう。


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天然

2014-04-07 | 暮らし
このブログ、もうやめようかと思った。
何度も、そういう時期がある。
でも、また持ち直した。
閲覧数に支えられている部分が、大きい。
ブログを書くことが、自分を救うのではなかったのか?
閲覧数が自分を救うのか?
またまた、考え方を書き直さなければいけない?

べつに支持してほしいとは思わない。
しかし、あまりにもベラベラと自分のことを(こころの声だけど)書きすぎている。
これがブログではなく、自分の秘密を握っている個人なら、この世から消し去ってしまいたい。
とは言え、とことん書いていないので、まあ、安心は安心。
それに、ちょっと美化表現もあるかも知れないし。

・・・

わたしは、こころを病んでいない。
病みそうもない。
楽天家で、天然なので。
ただ、限りなく認知症が目前。いや、もう、現実か?

そう考えると怖い・・・かと言えば、そうでもない。
なぜなら、楽天家で、天然なので。

しかし、認知症の症状と見られる発言を最近、したことがある。
だが、その発言を自分がしたことは思い出せなくても、わたしの話を聞いた人の証言や客観的事実から
どう見ても、わたしが発言しているとしか思えない。
「わたしには、そんな覚えはない」と言い切るが、覚えがないが発言していることを認めざるを得ない。

そこで、学習効果。
「自分には、発言したことを覚えていない前例がある」ということを覚えておくこと。
すると、それ以降は、メモするなり、覚えがなくても、状況証拠のようなものを残せばいい。
それで、判断する。
そして、覚えがない時の発言は、どういう状況の時に発せられるか把握する。
実例集としてインプットする。
状況が起こる原因分析をする。
それは、自分で考えて能動的に行った行動ではなく、
ふいに、偶然、受動的に相手からの働きかけで反応した場合に起こる。
すんなり自然な成り行きで事態が進み、気に留めてないのだ。
あるいは、気が動転して集中力に欠けている時。こころ、そこにあらず。
または、何気ない毎日の、ルーチンワークの一貫、ひとコマ。
気合が入っていない、当たり前のこととして、すっと脳を通り過ぎる。


なので、大事だと思えるようなことは、メモしておかなければ、後で自分の発言や行動に確固たる自信が持てない。
記憶に頼ると、どうも弱弱しい。

ストレスも溜めないけれど、記憶も溜めない。
一歩一歩、近づいてきているのか・・・。
でも、ストレスは病気の引き金になるが、記憶の喪失は、重症でない限り、天然の延長である。
記憶の喪失を苦にしてストレスを溜め、健康な体まで蝕んでいては、意味がない。

なので、明るく楽しく、少々のボケは、笑って見過ごそう!!
と、自分に無理やり言い聞かせる。


だが、ひとつ、良いことがある。
それは、母たち世代の人のボケに対して、非常に寛大になれることだ。
いいじゃない、いいじゃない、少しぐらい忘れたって、それで普通よ~、いえいえ、上出来よ~、
みたいに、まるで自分を擁護するかのように、母たちに言う。
すごく優しい気持ちになれる。
ましてや、わたしより優れていることも、かなりたくさんあり、いまだに、立派だと頭が下がる。

自分の出来ることを一生懸命やってくれる。
人の手を多少、借りることがあっても、自立して頑張ってくれている。
じつに、ありがたいことだ。

実母に関しては、性格的にどうしても受け入れられない嫌なところもあるが、
それは持って生まれた性格であって、一生直らない。
その嫌な部分より、評価できる部分のほうが上回っている。それで十分だ。
嫌な部分は、できるだけ表面に出ないよう、露出しないよう、刺激する事態を避け、そっとしておくに限る。
その嫌な部分と毎日、向き合って暮らしている人には、ほんとうに気の毒だが、
かといって、わたしが、その毒の部分を毎日、吸収すると、わたしが病気になってしまう。
緩和させるお手伝いをするぐらいしか出来ない。
わたしも、自分の身体、健康が大事なので。
良い部分を極力、引き出せるような、そういう環境づくりをしてあげなければ。
ただし、自分を犠牲にしてまでも、しない。
そこのところが難しい。


昔の人は偉かった。
同居。大家族。ストレスが、いっぱい。
だから、平均寿命が短かったのだろう。
それも、生命体としての人類維持の自然のセオリーなのだろう。
医療が発達することは、素晴らしいが、そうとばかりは言えない面もある。

同居しても、渋々、嫌々、ギスギス、已むに已まれず、仕方なく、選択肢なく、
他の方法が一切なく、ガス抜きもなく、そういう状態は、さぞや悲惨だろう。
それでも、現実として、そうせざるを得ない人々も大勢いるだろう。

同じ同居という事態であっても、こころの持ちよう、考えようでは、ずいぶん違う。
昔とは違い、介護保険をうまく利用し、できるだけのサポートをしてもらい、皆で協力しあっていけば、
多少は改善されるだろう。
煮詰まってしまっては、どうしようもない。

介護が絡まない、同居の場合は、シリアスだ。
介護保険も適用など関係ないし、家族・不仲保険なんか、立案されてないし。
うまく解決できない場合は、なんらかの病理となって現れる。
シグナルを発することはあるのだが、家庭内のことは、外には見えづらい。
徐々に蝕んでいく過程は、表面に現れにくい。

・・・

夫婦、親子、家庭内トラブルは、世の中にいっぱいある。
崩壊して不幸な結末に至る前に、どうにかして未然に防ぐか、被害を最小限に止めるには・・・
・・・小出しに、マメに、問題点の膿みを出していく、・・・そんなことぐらいしか
・・・考えても、最善の対策が浮かばない。

そこで、ふと思った。
案外、崩壊するのは、不幸な結末ではないのかも知れない。
離婚も、前向き離婚なんていうのもあるぐらいだし。
人は、必ず、生を受け、死を迎える。
最悪のストーリーとなったとしても、崩壊ではなく、進行なのではないだろうか。

人間は生まれた限りは、必ず死ぬ。
ずっと何百年も生きているとすると、肉体は消滅しても、人のこころの中で生きている。
せいぜい生きながらえても、120歳くらいまで。
120歳までのライフプランを考えると、どっと疲れる。
自然な流れに身を任すしかないのでは。

病気にならないためには、どうしたらいいか、と、
あれこれ考えて、ストレスを溜めて病気になったら、本末転倒だ。

しかし、今日は昨日の延長で、明日は、今日の延長。
過去、現在、未来は、一本の線で、つながっている。
あまりにも何も考えなさ過ぎては、方向性が定まらない。

・・・

楽天家で、天然。
アタマは限りなく心配だけど、ストレスは溜まらなさそう。
せめて、毎日、つつがなく、平和に無事に、暮らしたいものだ。


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閲覧数

2014-04-04 | ブログ
まったく同じようなテイスト、同じようなノリなのに、昨日分は、いつもと閲覧数がまったく違う。
がくんと激減。
閲覧数に一喜一憂するのはバカらしい、と書いたばかりなのだが。

なんで、こうも、違うのか?
gooさんの集計システムに疑問を感じるほどだ。
なぜなら・・・
gooブログが百何万あるうちの、全体の何位という順序も出るのだが、
訪問数が半数以下になっている記事の時、訪問数が倍近い記事の順位よりぐっと上だったりする。
(例・・・訪問数100IPの時、全体の1500位  訪問数200IPの時、全体の2000位)

これって、多少の誤差はわかるが、どう見ても、納得できない。
いつも、疑問は抱いているが、今回ばかりは、「信用するべからず」と御達しが出たかのごとく。

しかも、更新した時よりも、更新しない時のほうが、訪問数が2倍ぐらい多いときもある。
これって、更新してもしなくても、あんまり訪問数には変化がない、というか、むしろ、無関係に近いような・・・。

訪問数に振り回されるのは、滑稽だと自身で思っているくせに、
いざ、いろんな数字が踊ると、はてな???と共に、自分にも集計数の真偽にも、ため息が出る。

いつもブログ村の人気記事ランキングに、いくつもの複数記事がランクインされている、ある常連さんは、
訪問数がわたしが思っているほど多くない。(ご本人のブログで、閲覧数を書いておられることがある)
これも、不思議のひとつ。

まあ、気にしないことにする。
(あれ? 気にしてなかったのじゃないのか?)

・・・

今日は、月曜日のような気がしてならない。
ボケかけている。
ゴミ収集の日なので、ゴミを出そうとしたら、我が家の45Lのゴミペールに、
誰か他人が、ジュースの空き缶2つと、コーラのペットボトル2つを入れていた。
誰だ??
気持ち悪いこと、このうえない。
ゴミペールは、ガレージ横に置いているが、ガレージのシャッターはいつも閉めているし、
その場所に行くには、門扉を通り抜け、わざわざ、うちの敷地内に進入しないと入れない。

人の家に入ってきて、そんなことしないでください。
というか、ぞっとした。
想像するには、お隣の子どもさんの友達ではないだろうかと。
それぐらいの想像にしておかなければ、気持ち悪すぎる。

タバコの吸殻がガレージに落ちていることもあり、家族は誰もタバコは吸わないので、
これまた不審者の侵入跡が、はっきり、くっきり。
なにをしようと言うのだ? なにがしたいのだ?
タバコの吸殻をわざわざ捨てる、その真意がわからない。

・・・

空き缶、空きビン収集の日は、玄関前に出していると、必ず、どこかの誰かが、市の収集車が来る前に、
ビールのアルミ缶のみを抜き出して持ち去る。
ビンやアルミ缶やスチール缶をごちゃ混ぜにしたり、
ビニール袋で、ぐるぐる巻きにしたり、結び目をきつく結んだりしても、
必ず、ビール缶だけを抜き出して持っていく。
最近は、気にならなくなったが、以前は、お持ち帰りの瞬間に、その人物と鉢合わせした。
あちらは、まったく気にしていなかったようだ。
市の収集のために出したゴミの権利は、市にあるらしい。
が、いったん、出したゴミは、誰が持っていこうが、もはや手を離れたので、
トラブルになっても嫌だし、あれこれ関与したくない気持ち。
ただ、気持ちいいものではない。

・・・

訪問数を気にしないことに(実質的に)したら、するすると急に書く内容に、熱が入らなくなった。
気持ちの入らない内容になっているかんじがする。
やはり、目標なり、手ごたえなり、閉塞感を打ち破るものなり、モチベーションアップのスパイスが必要なようだ。
たかだか、コンピューターが自動的にカウントしている数値なのに。

振り回されている。
他人に振り回されるな、と、昨日、書いたばかりなのに、
いちばんに、自分が振り回されている。
まして、バーチャルなブログは、「虚」の世界と、書いたばかりなのに。
まったく、ころころ変る。

でも、少しずつ、振幅幅は狭まってくる予定。
あるいは、幅は大きいほうが、いいのかも。
なにごとも、バランスをとって、必ず、もとのニュートラルな位置に戻って来さえすればいい。


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