蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

アホ仲間

2019-07-12 | わたし
通っています、姑の入院先へ。
病院には大変お世話になっている。
あのような病人を家で看護、介護している家族の方々には本当に頭が下がる。

姑は、身体も病気だろうが、アタマが病気のようだ。
致し方ない。
何度も書くが、病院スタッフの皆さんには、深く感謝している。
神経を使い、重労働のキツイ仕事だ。

さて、それはそうと。
病院への行き帰りは、公共交通機関を使っている。
車内では、スマホべったり。
だが、病室ではスマホはいじらない。

助走、序章、イマイチ、ブログにパワーが足りない。
わたしが、一般的な普通のことを書いても、こころが満たされない。
こころに引っかかったことを書かないと一気にエネルギーが減退する。


ある人物。
わたしのことを完全な完璧なパープリンと思っている。
ほんのすこしでも、1ミクロンでも、クレバー、スマートなところがあるやも知れぬ、などとは、全く思っていない。
わたしが謙遜も含めて、「わたしのこと、すごいアホと思ってるんでしょう?」と尋ねると、躊躇なく間髪入れず、「うん」と答える。
わたしは、訂正のしようがなく、まあその通りなので、申し開きが出来ない。
ただ、アホを責めているわけではなく、アホ認定しているに過ぎない。
だから、まあ良いかと考える。

これが、「お前のアホには我慢がならない。生きている価値がない。さっさとこの世から去れ」と全面否定されたなら、落ち込むが。

さらに、理想を言わせていただくと、
「お前はアホだが、価値がある」なんて言っていただくと嬉しい。
望み過ぎか? 甘過ぎ?

「お前は一見アホ風だが、本当は賢く、やれば出来るんだから、頑張れ」と言われると、じつは、嬉しくない。
言ってほしくない。思ってほしくない。

「アホなお前が、そのままアホで、その自然体が良い」なんて言われると、すごくキャーキャー喜ぶ。

「あなたは賢い」なんて言われると、この人は何が言いたいのか、わたしの何を知っているというのか、何をわたしに求めているのか、腹の中を探る。
警戒する。

話を戻す。
バリバリにアホ認定されているから、やったぁ〜とばかりに、へらへら笑ってサボっていると、愛想を尽かされる。
動物、ペットでも、もっと賢い。
アホはアホなりに、自分のポジションをキープする努力を怠ってはならない。

わたしは、じつのところ、、、
わたしをアホ認定している人物のことを、わたしはアホ認定している。
つまり、、、お互いにアホで、アホレベルもほぼ同じ。
ただ、アホ分野が少し違うだけ、アホ部分の表に現れ方が違うだけ。
目くそ鼻くそを笑う、だと思っている。
だから、何を言われても大して何とも思わない。
アホにアホと言われて怒るのは、アホである。

じつはわたしは、賢い人とウマが合う。
全く逆方向のベクトルが引き合う。
なので、わたしの周りには、賢い人が多い。
アホとは仲良し、賢い人とも仲良し。
よかったね〜、である。


妻は女中か

2019-07-10 | 日々のこと
役割分担。
昨夜から一番下の2歳の孫を一晩預かった。
保育園に迎えに行き、うちでお泊まり。
両親は共稼ぎで、なおかつ、昨日は課外授業的な体験職業イベントに、上の孫二人を連れて参加している。
まだ2歳である一番下の孫は、イベント主旨に該当しないため、連れていけない。
で、預かることになったわけなのだが。

夫が、帰宅して夕飯。(といっても夕方ではなく21時過ぎ)
チビさんが、流しの蛇口を開けて水をじゃーじゃー流したり、イタズラ遊びに、わたしがアタフタしているのを目の前で見ているにもかかわらず、
出した惣菜を「温めてくれ」と言う。

電子レンジでチンするだけなのに。
なんで自分でしない?
わたしは、手が離せないのを1メートル前で見ていたら、わかるでしょう?

聞こえないフリをする。
チビさんにかかりっきりで、しばらくほっていたら、再度、「温めてくれ」と。

もし、これが30年前なら、確実にわたしは離婚に向けてスタートを切っていたことだろう。
すぐには離婚できないから、経済的自立に向けて努力しただろう。
だが、今、もう還暦も過ぎて、離婚はしない。
が、まだ頭のテッペンが沸騰する自分がいる。
ブチっとキレるのではなく、もっともっと太い大きなものが、一枚の分厚いものが音を立てずに、ばさーっと別れ別れに離れていくような感じか。

2度目の加熱要請を受け、無理やり耐熱容器に放り込んで加熱し、耐熱容器のまま食卓に出した。
一つの耐熱容器に、ぎゅーぎゅーに詰め込んだため、蓋を開けたら蓋にくっ付いて、ひっくり返っていたシュウマイも、ひっくり返ったまま。
食べる人の気持ちには全くなっていない、物理的に温めてただけ。
愛情など全くかけるわけもなく、怒りと太々しさと、嫌々ぶり、ふてくされ、無理やりやらされている感をそのまま出した。
なんで、自分でしないんだ?!
こんなに、てんてこまいしてるのに!
逆ギレは、恨みに変わり、負の感情は内へと向かい、お腹の中でドス黒さを増し、相手の不幸を願うまでになった。

わたしが一言、言えば済む話だ。
「ごめん、悪いけど自分で温めてくれないかなあ。今、手が離せなくて、悪いねえ」
と。
なぜ、それが言えない?
ひっくり返ったシュウマイなんぞ見せても、なんの効果もない。
言えない自分に、ほこ先が向いた。
今からは自省タイムに突入。

自分が不出来だから、不出来な人としかマッチングでなきない。
自分が完成され、高みに行けたなら、相手にも相応のものを求めてもよい。
しかし、自分は永遠に未来永劫に、完成されないし、努力もしない。
だとすると、ポジションを上げる努力をしないで、一方的に文句は言えない。
低いレベルでの向上心のない、負のスパイラルに陥る。
相手もダメ野郎、自分もダメ女。
そんなマッチング構図となるが、それはそれで認めたくない何かがある。
全てにおいて完璧ではないが、何かしら長所もある。
今日のところは、まだ気持ちとしては収まりがついていないが、理性で無理やり認めよう。
接着剤で無理やり補修しているようで、自分としても不自然さを感じる。
が、今日は追求する元気がない。
昨夜の孫預かりで、睡眠不足だからか。

夫とわたしは相性が良くない。
二人とも、すこぶる自他共に甘い。
甘々。
他の人はもっと厳しい。
甘さだけを享受するわけにはいかない。
他人に甘いのは、自分に甘いからに他ならない。
未完成で自他共甘い二人のこの先は、いったいどうなるのか?
若い人の厄介、お荷物にならなければよいが。
二人とも粗大ゴミになりそうだ。
誰がゴミを捨てる?
わたしは面倒くさいことを夫に押し付けて、自分が先にこの世にサヨナラしたいのだが、女性のほうが平均寿命が長いから、生物としては、わたしのほうが長生きしそうだ。
それはそれで、また悪くない。

閲覧数は信用できない

2019-07-07 | ブログ
ブログ村の評価や獲得ポイントと、自分のブログの閲覧数は、全くリンクしていない。
そして、アップした記事と閲覧数もリンクしていない。
ブログ・システムそのものが、架空の存在で、実は世間とはつながらず、自分の中だけの世界なのかも知れない。
折り込み広告チラシの裏に殴り書きしているのと同じ。
(最近は、裏が白紙のチラシは少ないように思うが)

架空でもよい。
が、ブログ運営会社に毎月支払っているお金、あれ、何か役に立っているのだろうか?
まあ、微々たるものだから、おまじないか、保険とでも思っておこう。
使用料、無料もあんまりなんで、チップか、自主的お賽銭?
が、積み重なるとチリも積もればなんとやら。
老後2000万円問題が浮上し、家計を見直す動きも出ている。
「自分で貯めろ(今後はその傾向に向けて年金システムを変えていく)」という政党まで出ていて、不安を煽られる。

その不安、ブログで発散するには、お安い金額かも知れないが、無料版と変わりがないようにも思う。
ブログ村は無料でやっていただいているから、何も言えないが、ほんの微々たる金額でも払っているブログ運営会社に対しては、閲覧数に不信感を抱くとなると、熱がさーっと冷めていく。
計測コンピュータ システム、大丈夫か?
これは自分の筆力を無視した感想だが、しかし、閲覧数もかなり、いい加減である。
全くといっていいほど、信用できない。

なら、信用しなければよいわけで。
信用しても、信用しなくても、たぶん、ずっと、下手すると一生、ブログは継続するだろう。
影響や効果は、外に向けて求めていない。
全く意識していないかというと嘘になるが、自分を救う、内なる解放である。
だが、もし、閲覧数が1日、1桁だったら続いていなかったかも知れない。
閲覧数とモチベーションは、切っても切れない関係にある。
だから余計に、まったくリンクしない閲覧数になっていると、信頼が根本のところで揺らぐ。
ニセモノの人参を目の前にぶら下げられて走っていた馬なのか。
まあ、いいですが。

自分で自分を救わなければ、誰も救ってくれない。


でも、確実に読んでいただいている人には、つながりを感じる。
ある意味、「わたし、今日も生きてます」という発信と受信のホットライン。
ありがとうの気持ちです。


先生、ありがとうございます

2019-07-06 | 日々のこと
姑が発病して入院した。
で、お見舞いに行った。
というか、嫁だからお見舞いというようなお客様仕事ではないわけで。
(入院時には、義姉が付き添った)
車の運転をやめているため、バスと電車を乗り継ぎ、時間と交通費が車に比べると2倍はかかる。
我が家も僻地、入院先も僻地。僻地と僻地をつなぐには、やはり車が一番便利だと痛感した。
免許返納をやめて、次からは車にするかも知れない。

車椅子に座った姑。
両者、ご対面。
姑の第一声。
「先生、お忙しいのに朝早くからすみません」
あれ?わたし、先生?
かなり急に昇格したものだ。
まあ、いいか、先生のほうがいいなあ。
そう思い、対応していた。

「先生、わたし、こんなところ、早く帰りたいんですけど、家に帰っても一人なんです。こんな状態、悲しくて悲しくて、、、」
と胸のうちを先生(わたし)に、話す姑。
ベッドに移り、眠るまで、ずっと先生。
「お嫁さんは、どうされているんですか?」なんて聞かなくてよかった。
どんな予期しない(いや、十分、予期できる)言葉が返ってくるか、わからない。
心臓に良くない。

姑も寝たことだし、帰ろうかな、と、帰りの病院発のバスの時間をチェックした。
帰りにもう一度、姑の様子を見ようと病室(観察室)に寄ると、義姉が来ていた。

義姉は病院に来る前に、姑が毎日、生活している部屋に立ち寄り、衣類や身の回りの品など、色々なものを持ち運んできてくれていた。
義姉と病室から出て、作戦会議を開いていたところに、夫登場。
義姉は、何曜日と何曜日、わたしは、何曜日と何曜日、と、お見舞いに来る日を振り分けただけに過ぎなかったが。

帰りの電車内では義姉とおしゃべりしっぱなし。
ず〜っとしゃべっていたから、前の人は、うるさく感じられたことだろう。
義姉の成人した孫との、昨日、今日、今の日常生活話やら、時計の針が逆に一気にグルグル急回転していた。
20年、30年、40年は、一瞬で過ぎた。

日頃は全く接触しないが、何かあると、過ぎた時間が圧縮される。
時系列で、キュっと、つながっている。

姑の家にあるアルバム。
その中に収まる写真。
同じ部屋でテレビを見る男性と、幼児。
構図は全く同じ。ポーズも同じ。
テレビ男性は、若い舅。幼児は甥たち。
庭で雪遊びをする子供たち。
同じ庭、同じ構図、同じスキーウェアを着て写真に写るある日の甥たちと、ある日のわたしの子供たち。
全く同じ。
舞台装置、衣装、背景、まるで同じ。
夫の実家では両親は、「嫁いだ長女」の子供たち(孫)を遊ばせ、「嫁を迎えた長男」の子供たち(孫)を遊ばせた。

その写真に写る当時の「幼児たち(姑の孫たち)の、子どもたち(姑のひ孫)」は、もう成人している。(わたしの孫は、まだ上が小学生)
わたしが甥たちに初めて会ったのは、甥たちが、今の「わたしの孫」の年齢。
繰り返される時間。
その姑に、「先生」と言われると、涙がこぼれそうになった。


作戦会議を終えた我々、義姉、夫、わたしの3人が病室に戻ると、姑はきりっとした顔に戻っていた。
「○ちゃん、ありがとう、お世話になります」と、わたしの名前を口にした。
3人が揃うとその横の関係から、わたしのことを思い出すようだ。
「横のつながりから思い出したようですね」と義姉に言うと「時間帯にもよるのよ」とのこと。
雲がかかった時間帯と、はっきりクリアな時間帯があるようだ。
(これは、実母も同じ)

兎にも角にも、姑の入院生活が再スタートした。

涙が出るほど哀しいことは、考えないこと

2019-07-04 | 日々のこと
暗い愚痴を書いたところで、本人は多少救われても、読んだ人にヘドロを押し付けるだけ。
他人さんに迷惑をかけてまで、自分が楽になりたいか?
まあ、それほど深刻な場合は、記事を未公開にすれば良いわけで。

自分のことは、自分が熟知している。
バカを装って実は少しパワーを備蓄しているつもりが、米びつには米の一粒もなく、干からびた虫がいるだけだったり。
自分のポテンシャルを買いかぶっていると、しっぺ返しに見舞われる。
サボりを肯定ばかりしていると、細胞や神経は死に、機能していないことをチェックする機能まで、機能していない。
知らないうちに、ダメになっている。
イケている、と思い込んでいても、ある日、とっくにイケてない現実を知る。

痛みを感じない人は楽でいいなあ、と思っているが、痛みセンサーが働かないと、重症になっていて手遅れでも痛みを感じない。
人間の身体は、痛みアラームで異常を知らせるように出来ている。
アラームが機能しないと、、、ちーん。


今朝、何気なく地域のコミュニティ誌をパラパラ見た。
小さな地元記事かいっぱい掲載されていた。

地元で催される文芸、歴史、文化塾、開催告知。
面白そうだが、興味を覚えた1秒後、きっと受講しても、1分で寝てしまう自分が見えた。
教室の中で座って催されるものに対しては、わたしの脳みそ耐久時間は1分。
せめて、歩きながら見る、展示、展覧でなければ脳が機能しない。
外に出て、身体を動かして、実物を見て触って、というなら、寝ている暇がないかも。
しかし、孫(子供が幼い頃も)、食べながら眠ったり、歩きながら眠ったり、踊りながら眠ったりしていた。
いわゆる居眠り。
わたしも、だんだんそうなるんだろうなあ、と予測している。

日頃、エネルギーを蓄えていても、使わないエネルギーは、すでに放電されてしまっている。
つまり、エネルギーはチャージされていない。
(賃金が上がっても、物価上昇率のほうが高い。
貯金したつもりが、インフレ率のほうが高く、金庫を開けると紙クズ、、、に近いものがある。ちょっと話が逸れている、、、)
エネルギーを出し惜しみしていることによって、自分自身の持つエネルギーの容量サイズを下げている。
いつも自転車を漕ぐように、歯が伸びてきては困るネズミがいつも何かをかじっているように、いつもいつも、動いていなければならない。
ああ、しんど。

容量が小さくなってもよい。
サイズダウンは、エイジングである。
いざという時のためにエネルギーを貯めているはずなのに、その時が来ても頑張れないと思うから、哀しくなるし、涙が止まらなくなる。
老人鬱になるのは、そういうこともあるのだろう。(研究していないから知らないが)

米びつが空になっていても驚かないこと。
カップ麺や、お餅など、好きなものが食べられるじゃない?と、アタマを切り替える。
(あ、これ、マリーアントワネットだ。
「パンが無ければケーキを食べるといいわ」。
わたしも無意識にマリーアントワネットになっている、、、愕然)

運転ミスによる事故防止のための、素敵な小さいオモチャみたいなクルマも、開発されているようで、見ているだけで楽しくなる。
でも、炎天下や風雨が強い時は乗れそうもない。
大きなクルマに当てられたら、イチコロだろうし。
まあ、いいんじゃない?
(イチコロが、いいわけではない)


話がコロコロ変わる。
昨夜、暗闇の中、トイレに駆け込む大きな物体を見た。
ちなみに、掃除が大の苦手なわたしの家にしては、非常に不思議なのだが、ゴキブリがあまりいない。
だが、昨夜の大物はゴキブリだった。
知らん顔しても良かったのだが、、、

かつてわたしは、ゴキは瞬間技で宮本武蔵の如く、叩き潰していた。
後のリアル処理を考えるより先に、仕留めることに集中していた。
しかし、、、ゴキ退治専用の噴霧剤の存在を知り、それにしたところ、わたしが受ける衝撃が減少した。
で、昨夜は最初は新聞紙を丸めて刀がわりにして宮本武蔵だったが、いや待てよ、と、噴霧殺虫剤を取って来た。
シューッとひと吹き、あら、ころり、というわけにはいかず、二吹き、三吹き、、、
ゴキの詳しい生々しい描写は控える。
わたしは殺生をしてしまったのだから。

と、歳を重ねるともう、自動的に瞬間的に、宮本武蔵にはならない。
なんて便利なの、、、とわたしは薬の効力に驚いたわけだが、、、

自然に加齢に伴い、マインドも行動も変わるということだ。

さらに、
地域コミュニティ誌の求人欄を見ると、わたしはどの仕事もできないと思った。
70代でも働いている人には本当に頭が下がる。
人には人の適性がある。
(年齢の次に、今度は個性を持ち出して、自分擁護にかかっている)
しかし、こころの病気になるほど、自分を追い詰めてはいけない。
平時、何事もないことに感謝して、毎日を送りたい。
と、唐突に〆ている。


ゴキ事件、書き足しは、蛇足だった感あり。

蛇足とはこのことか

2019-07-03 | 思い出
今朝、早起きし過ぎて、(行動パターンとしては)いつもの朝の時間がやってきて、二回目の朝を迎えている。

で、アタマが天国の人が、さっき朝ごはんを食べたばかりなのに、「まだ今日は食べてない」、といって、さらに食べ始める、そんな感じで、二回目のブログ記事を書いている。

でもブログは、文字で残るから、いくらまだ書いてない、と言い張っても、、、
「いや、これはわたしが書いたのではない」なんて、言い出しやしないかしらん、わたし。

まあそれはいいとして。
早く起きたご褒美はケーキだったわけだが、洗濯、二杯目コーヒーを挟み、二度目のブログに取り掛かっている、ハッピー・アタマのわたし。

さて、夫。むかし、むかし、、、。
彼はわたしとの新婚旅行の帰り、飛行機を降りて、一言。
「こんなに(スローが)アホやったなんて、、、知らなかった」
ぼそっと漏らしていたが、わたしはその瞬間だけ、あ、こりゃいかん!と、ピリッと緊張したものの、いつもモードに戻ってしまうのに時間はかからなかった。

言わせていただくが、
新婚生活を始めてすぐに、わたしは夫がこんなに幼稚だとは知らなかった。
まあ、お互い様である。

「アホ」と「ガキ」の結婚。
(でも、子供たちや孫たちは、まともだ)
わたしがなぜ、夫のことを幼稚だと思ったか。
マンガとテレビが大好き。
少年漫画誌を毎週、購入して読んでいた。
成人漫画誌ならまだしも、少年誌!
まあ、手塚治虫みたいな尊敬すべき人もいるので、頭ごなしに否定はできないが。

日曜日の日中は、囲碁のテレビ。あとは、水戸黄門さん。
全く接点がないことを知った。
それは、夫もだろう。
懐かしいと言えば懐かしいが、それが二人の原点であり、現在も同じなんじゃないかと思う。
人は一人一人違う。
自分と同じであるわけがない。
共通点を探すには、目が二つ、鼻が一つ、口が一つ。
共通語は日本語で、共通貨幣は円。
それぐらいかな〜。
同じ空気を吸う、同じ星(地球)の住人である。
全く違う個性の二人は、お互いを理解できないまま、異分子として今日まで来ている。
アクシデントでもない限り、きっと来世まで続くことだろう。

て、これが、二回目のブログ記事?
ケーキ効果が明らかに薄れてきている。
二杯目に飲んだコーヒーも二番煎じで薄かった。(淹れ直そうか)

余計なエネルギーは、時として、出さずにしまっておいたほうが、駄作を生み出さなくて良いという、典型のような内容になっている。
まだまだ続きを書こうと思っていたが、突然、嫌気がさしてきた。
出し惜しんだところで、たかが知れているので、アップしてしまおう。
「蛇足」とはよく言ったものである。
(「駄作」が正しい?)

朝から、やたら人差し指の運動

2019-07-03 | 日々のこと
今朝は早くから目が覚めた。
6時には、コーヒーを淹れて、なんとケーキタイム。
わたしの体内時計は少しズレている。
でも、早朝のケーキは、優しい甘さでわたしを包んでくれた。
ああ幸せだぁ〜。

と、なんだか、へんに甘ったるい軽めの文章で始まった。
今朝のケーキ効果だろう。

チマチマ、スマホ入力していると、目がおかしくなる。
パソコンに戻りたいのだが、もう三年以上ホコリをかぶっているところに加え、一番下のイタズラ孫が、マウスを投げつけたり悪さのし放題で、マウスが壊れている。
ピアノを弾くように入力していた頃が懐かしい。
頭で考えるより先に、指でキーボートを打っていた。
今は、チマチマ、チマチマ、、、作業が疲れるものだがら、文章の書き直しや、消えたりすると、大ダメージを受けて、しばらくは立ち直れない。(大げさ)

趣味関係の別SNSの自分のページからも日記をアップしているが、なぜか、筆が止まらず、連日に近い頻度でアップしてしまう。
一週間に2回が限度、と自主規制しているのだが、どんどん思いが膨らみ、スマホの指が止まらない。
電車の行き帰りが退屈だということもあるが。

書く内容は、ほとんど何も考えていない。
思ったことを吐き出すのみ。
ダーッと頭の中からゴミだか、なんだかわからないものを一気に排出して、お掃除、清掃、クリーンアップ。
エステやマッサージで、凝りをほぐしてもらうかのように、結構気持ちいい。
自分でできる、手軽で便利なリフレッシュ法である。

話はコロリと変わるが、
ブログ村、注目記事で、お墓のことが書かれていた。
誰も後に続く縁者がいないと、楽でいいなあ、と思った。
宗教然り。
戒名無用の白洲次郎みたいに、すかっと行きたいが、残った人がしやすいようにしてもらえばよい。
家、イエと懇々切々とアタマに叩きこまれ、嫁の役割、役目を唱えられてきたが、マインドコントロールの一種であるように思う。
絶対的なこと、不動のことであり、理屈ではないものとして、嫁の役割がある。
しかし、江戸時代じゃあるまいし、選択肢はある。
地域を離れ、周りを見れば、皆さん、割と自由。
自由な中でも選択して、わざわざ厳格な自分の道を選ぶのなら良い。
選択肢がない、という方法、考え方に疑問を感じる。なんで、ないわけ?
有無を言わさない方針に、とてつもなく反逆精神を掻き立てられる。反感の塊。
真っ二つに意見、方針、方向が分かれ、全く交わらないが、生活していく便宜上、摩擦が大き過ぎるので、とりあえずは風波を立てないようにしている。
どうしようもなくなった時に、崩壊するなり、破綻するなり、なんらかの現象が起こることだろう。
普通はそうならないように、平時からなんらかの策を講じて備えておくもの、なんだが。

とりあえずは、今までの流れ通りにやる。
なあんだ、、、同じか。
でも別に次世代には期待もしなければ、もちろん強制もしない。
わたしがこの世にいないのに、いても息をしているだけなのに、口出ししようがない。
こころを込めるのが信心のはず。
これは、信心なのか?
わたしにとっては、形骸化した行事に過ぎない。
でも日本人は、ごちゃ混ぜ文化。
キリスト教信者でもないのに、クリスマスやバレンタインデー、神父さんに愛を誓うウエディング。
お葬式は、仏教が多い。神式も。中には違う宗教もある。
これからは、家族葬が増え、かたちは変わっていくことだろう。
宗教にとらわれず、愛する気持ちをこころに刻みたい、、、が、なかなか難しいようだ。
古今東西、宗教は要。
強力なこころの拠り所は、違う宗教を受け付けない。
お互い、触れてはいけないカテゴリーの一つである。

大きな不幸に見舞われると、こころの拠り所を求める。
人間のこころは弱いから、神に助けを求める。
(困った時の神頼み、なんて、ちゃっかりしたのもある。神様と共存共栄)
その神は、色々あってよいと思うが、そこらあたりが難しい。
自分のこころの中にある神と、自分ではない人のこころの中にある神が、同じとは限らない。
家族なら同じかも知れない。
企業の自社社屋の屋上に神様を祀っているところもある。
繁盛店にはふと見あげると神棚があったりする。
こころを一つにして、自然に同じ神が宿るなら良いが、強制は良くない。

皆んなが幸せになれば最高だ。
が、世界で幸せの絶対量が決まっていて、人数で分け前を奪い合う図が出来ているように思う。
奪い合わないようにするには、幸せの中身、質を変えるしかない。
天然物質が枯渇するなら、代替え化学物質を作り出す?
だが、化学も科学も、テクノロジーも、くせ者。
人間の欲を変化させないと、満足を追求すると破滅しそうだ。
映画の見過ぎ(居眠りしながら)、老人の冷や水だろうか。

長々と、延々と続き、なかなか終わらない。止まらない〜。
〆結論なしで、ここで終了しよっと。


「嫌いな人」を振り返ると

2019-07-01 | 日々のこと
昨日は、ある教室のダンスの発表会があった。
私は、その教室の生徒ではないので、観るだけでお気楽そのもの。
私は、出るのは嫌いだ。
だから、プレッシャーもなく、上達もしないんだろう。

ずいぶん前、ガメツイ先生の教室主催の発表会が有名ホテルで行われた。
それにはレッスングループの一員として出たが、見るに耐えない、つまらないものだった。
くだらない!と、吐き捨てるように言って、それ以来、姿を見せなくなった、生徒の中では比較的若い生徒(女性)もいた。
わたしは、彼女の潔さに、心の中で拍手を送った。
他にも、たぶん無報酬で「人に教える機会を与えてあげる」名目で、素人インストラクター的な女性がその教室にいて教えていたが、彼女も怒りと不満の火を吹いてやめた口だと思う。
彼女(推定70歳)は、発表会でわたしの近くにいた時に、「生徒さんたちに、ホンモノのダンスはどんなものか、見せてあげたいわ」と嘆いていた。
「今、やっているのは単なるお金儲けのお遊戯だ」という、言外に彼女の言いたい趣旨を受け止めた。

なにしろ、教室主宰の男先生の奥さんであるS女先生が、大嫌いだった。
こき使われて辞めるのは、何かしら思いがある人。
残っているのは、S先生とギブアンドテイクで、うまく便利に使われている人ばかり。
当時から、イソギンチャクみたいにくっつき回っている女性は、わたしの後輩なんだけど、彼女の踊りのどこがいいのか、さっぱりわからない。
競技会で出場している姿を見た時は、周りの一流プロたちとの格段の違い、違和感に恥ずかしくなった。
ウマが合わないまま、根に持ったまま、もう7年以上の歳月は経っているが、今もとても近い場所で、彼女たちは活躍されている。
相変わらずの、自己PRに、実態を知らない人は寄って来るんだろうなあと、げんなりしている。
が、べつにどうでもよいので、場所は近くても、精神的には遠くから見ている。

たんなる相性かも知れないが。
あんなに嫌いな人は、たぶん、今まで4人ぐらいしかいない。
1人は、30年以上前、当時からお付き合いもほとんどなかった、同じマンションに住んでいたママ友。
1人は、20年ぐらい前の職場後輩女性。
1人は、7年ぐらい前の上記ダンス女先生。
1人は、2年前のダンス男性。

1)子育て、兼、地域住人
2)仕事
3)趣味
4)趣味

ジャンル、時期分けすると、子供時代や学生時代の嫌いな人が抜けている。
あまりいなかったみたいで、やれやれだ。
というか、考えなしで、忘れているだけか?

子供時代と学生時代のベースは、家庭と学校。
イジメがあったわけでもなし、ちょっと暗くて、ちょっと成績が振るわなかったぐらいだったので、たいして不幸な要素はナシ。
人生は背負うものであり、切り拓くものではないと、受動的に考えていた。
まあ、子供だし。
時間が進むと、ステージも進む。
トコロテン方式で押し出され、同じところには停滞しない。

大人になっても、受動的な姿勢は、相変わらず、あまり変わらなかった。
受動的だが、前に進んで行った。

仕事や趣味で、やっと、能動的になったかなあと。
今は、能動的に自ら選んで、流れのまま、流れに逆らわない受動的姿勢になっている。
元に戻っている。
そうやって、最初の頃のように帰っていくのだろうか。
赤ちゃん返りでは、周りに迷惑をかける。
迷惑をかけない、自然な流れで静かにやっていきたい。

「嫌いな人」を検証したものの、たいした結論、総論も出ず、たんなる思い出、羅列となってしまった。