蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

筆がふらふらあっちへ行ったりこっちへ来たり

2022-12-05 | 無題
前記事、裏自慢がぎゅぎゅっと詰まっていると感じられた方もいることだろう。
別に自慢したい気持ちはないのだが、悩みの中身がムカつかれる可能性、大。
もっと深刻な悩みなら感情移入していただけるかも知れないが。
けしからんことに、わたしは深刻な悩みはブログには書かない。
書いて未公開にすることも選択肢としてはあるが、書きながら未公開を頭の片隅に感じると、ちまちまスマホ入力する気力が萎える。
そもそも、たいした悩みはない。

病、貧困、戦争、災害、、、それらは、避けられない苦痛、不幸であり、絶望の淵に立つ。
自分ではどうすることも出来ない、逃げられない人間関係もそうだ。
それ以外は、命を脅かすほどのものではないかと想像するが、そんなことはなく、現代人のこころは、デリケートだ。
食べることが出来ても、絶望感に襲われることはあるようだ。
命さえあればどうにか(文字通り)生きられると考えるが、それはわたしが楽天家だからだろう。
希望がないと、人は生きられない。

もし、わたしがガラスのハートを持っていれば、現在のわたしはない。
タフといえば聞こえは良いが、無神経なわたしは、痛みに鈍感なのだろう。
だが家の食卓の隣で孫が、お皿を引っかけて料理の煮汁をこぼして、母親にものすごくキツく怒られていると、わたしはとてもキリキリこころが痛む。
彼はわざとしたわけではない。
注意力散漫ではあるが。椅子にちゃんと座らない癖はあるが。
しこたま叱られ、小2男児孫が泣くかと思いきや、平気な顔。
平常心。
わたしだけが痛く傷付いている。

「よくあんなに怒られても泣かないんやね」とわたしが感想をその場で漏らすと、すかさず3番目孫(5歳女児)が、「泣きそうな顔してたけどね」と言う。
叱責されている間、周りは何も言わずにフォローせず、しーーんとしていた。
なんと氷のように冷たい空気。助け舟なし。
怖い空気。
子供よりわたしが堪えるのは、わたし自身がよく失敗したり粗相したりするのは見えているため、自分が責められているような気になるのだろう。

5歳孫とわたしは、ほぼ同じ能力だと感じる場面に度々出会す。
苦笑。
発展途上、未発達の5歳と、スローダウン衰退途上のわたし。
これから先が上下に分かれて違うが、今はクロスしている交差点。
まだわたしには余裕はあるが、孫たちに対してそのうち暖かい目から、頼りにする目に移行していくことだろう。
5歳児も、わたしがだんだん衰えてくることがわかると、自然から学ぶ人間観察が出来て、ものごとの仕組みや成り立ちがわかって悪くない。
発芽し、若葉になり、青々茂り、やがて枯れていく。
そういうものである。自然の流れ、摂理。
人間の誕生、成長、衰え、終焉は、身近で見る生きた教え、見本。

ちなみに、この季節、年賀状自体の喪中ハガキが次々来る。
まあ皆さん、ハガキのお父さん、お母さん、ご長寿で、天寿を全うされている。
80代は若い、90代中頃が多く、100歳を超えて亡くなる方も少なくない。
と、毎年そう思っているが、年々強く思うようになった。
少子高齢化社会なんだと実感する。
我々高齢者は、まだ更に高齢の親の世話をしなければならない。
親子で一世代違うならまだしも、同世代の超高齢配偶者を介護する老老介護はもっと大変だ。

話は変わるが。
人間の苦には、病、貧困、戦争、災害の他に、老というのもある。
が、長生きすると皆、老いるわけで、それは避けられない「苦」の中に入るのか???

先週金曜日、NHK TV番組「アナザーストーリー」で豊田商事を取り扱っていた。
わたしの世代でもある会長(故人)。
暗い沼に入り込んだ気分になった。
宗教もそうだ。
弱い人のこころの隙に付け入る。

小2男児が、こっぴどく大人に叱られたとしても、環境的に普通の明るい温かい家庭に育っているなら、別に日常の一コマの断片だが、
親が離婚して親戚の家に預けられていたとしたら、しかも経済的に援助もなく、親戚も苦しい状態だとしたら、空気感も違ってくるだろう。
昔と今では価値観も変わり、時代の色も加味される。
だが、愛情や余裕があるのと、ないのとでは、雲泥の差である。
逃げ場があるか、ないか。
追い詰められるのは良くない。

本人の資質にもよるだろうが、犯罪に手を染める人はある程度の共通点がある。
同情の余地がある不幸な環境、背景。
犯罪者と、普通の家庭を同じ土俵で論じるのはお門違いではあるが、一歩、間違えると両者は背中合わせに接している。
いつ、ひょんなことで、幸せが不幸にどんでん返しになるか、可能性はゼロではない。
運、不運もあるだろう。
しかしながら、、、番組「アナザーストーリー」を見ていると気分が暗く落ち込む。

ごくごくどこにでもある普通の幸せが、壊れていくのは恐怖だ。
宗教にすがりつきたくなるのも、わからないでもない。
が、、、。

筆が、どんどん暗い方向に進んでいる。
別の違う方向に転換したい。
筆は気ままで好き勝手に進み、わたしを困らせる。


助け舟

2022-12-03 | 日々のこと
ぐっと冷えて来た。
寒い冬への移行。秋に惜別か。

今日は、次女一家がやって来る。
とある用事があり、身体の移動、身体を持って来るのが必要。
で、夕食を3家族、テーブルを囲むことに。
乳幼児を含め、総勢11名。

さてさて料理が大の不得意のわたし。
次女婿は、むちゃくちゃグルメ。
舌で味わった美味を自分で作って再現する。
次女宅の食事作り担当は、次女婿。
レシピ研究もさることながら、食材には手間暇、お金を惜しまない。
次女婿のお母さんは、畑で自然栽培の果物(プロ)や、手作り味噌や、なんやらかんやらを天然素材で自作する方。
近隣は海に囲まれた地域でもあり、ウニや帆立など、魚介類は豊富。
美味しいものに恵まれ囲まれた環境で育った次女婿。
(大勢の大人に囲まれた一人っ子)
しかも次女婿は、専門の農学研究を経て、食に関わる仕事。

メニューは何にすべき?
いつもアタマを悩ませている。
次女母娘だけなら何の気も使わないが、次女婿が来ると、どかんとアタマが重くなる。
一昨日、そう愚痴ったら長女婿が、「ボク、作りますよ」と助け舟あり。
なんと優しいお婿さんだこと。
幸せ。じわぁ。

なのではあるが、、、
正面から勝負しては絶対に負ける。
というか勝負にならない。
前回の夫&次女婿・合同誕生日パーティの時は、わたしはもう完全に試合放棄した。
勝負せずに、「おばあちゃんの懐かしの手作り料理」で行くことにした。
だが、郷土料理感ゼロ。食のこだわりゼロ。
わたしが子供の頃、祖母の毎日の料理の中で、滅多に作ってくれない、唯一の大ご馳走は、コロッケ。
地方都市の大規模団地に住む親戚のおばさんの家に遊びに行った時も、コロッケ。
高度成長の味、コロッケ。
女たちは、コロッケで全力を出す。
(手間暇はかかるが、材料費が安い)
ウケは狙わず、これで行こう!

たっぷりすぎるぐらいたくさんのミンチを使ったせいで、脂がすごく出て、ジャガイモと混ぜて丸めたらベチャベチャになり、焦った。
これ、メインなのに、失敗したら後はなんにもない。
もう作り直す時間も材料もなく、焦った焦った。
冷めると、ベチャベチャはどうにか落ち着いてきたが。
サブのトンカツに助けを求めながら、、、
まん丸の、縦横斜めどこから見ても同じのボール状の形の大きなコロッケを丸めていった。
スローな作業に手間取り、時間ギリギリ。
(たまたまその日は、長女婿が野菜のナムルを作って持って来てくれたから助かったものの)

どうにかピンチは切り抜けた。
娘の慰めの言葉は、、、
「今時、手作りコロッケって珍しいから、なかなか食べられないよ」
あんなボールみたいなコロッケは確かに売ってないなあ、、、

が、あれは前回。
今日はどうする?
一度に全力を出してしまうと、次回のクリスマスパーティはどうする?
手の内、隠し球ゼロ。
どうする?どうする?どうする?

悩みながらエネルギーチャージに、スマホでブログ遊びしていたら、次女からLINE。
「トルティーヤの具は次女婿が作ってくれるって」
やったー。これで夕食準備は終わったようなもの。
しかも長女婿からは、パエリア作るとのLINE。
姑であるわたしは、婿たちに何も教えられない代わりに、手助けしてもらえて、しかも味わえて幸せ者だ。
お正月に息子が加わった時は、息子の手作り料理がプラスされたりする。
うちのパーティ食は男たちのチカラの上に立っている。

その分、わたしの夫は全く動かず、動かすのは自分の箸だけ。
婿たちのお給仕を平気で受けている。
わたしは教育を間違えた?




恥ずかしげもなく

2022-12-02 | わたし
帰りの電車は酔っ払っている。
なので、お酒の威勢にまかせて好きなことを書きたい。
が、書くことがない。
情熱を向ける対象がない。
不満もないということだ。

サラ・ブライトマン、素晴らしかった。
わたしの拙い文章、文字にすると、安っぽくなる。
生で芸術に触れると、まだインスパイアされるエネルギーが自分に残っていることを感じて、とても嬉しく喜んでいる。
自分の芸術?活動に活かそうと思っている、怖いもの知らずの自分。
たぶん、酔っ払っているから、そんな恥ずかしいことが書ける。
酔いも大事。
クールな自分に火を着けてくれる。



ブログ低迷の原因

2022-12-02 | ブログ
数ある素晴らしいブログがたくさんあるにもか関わらず、いつもお越しいただく方々、ありがとうございます。
(gooメイトのユメさん、ハルさん)

その数(閲覧数)をどうこう言うのは、身の程知らずなのだが、、、
閲覧数が少ない理由を推測してみた。

①内容に魅力がない
a)具体性がない
b)役に立たない
c)個人的なことに留まり汎用性がない
d)個人の世界観に感情移入出来ない

②ブロガーの個性が嫌い
a)裏自慢臭が臭う
b)ダラダラくどい、長い
c)いくら自虐ネタを連発しても、結局は自己肯定か。(自分大好き)
d)やぶにらみネガティブ色あり。他人の自己満足に水を差す無粋

③営業努力をしない
a)マメに訪問お返しをしない
b)マメに訪問しない
c)愛嬌、愛想がない(親近感が湧かない)

④世代傾向
a)主流はTwitterやInstagram、YouTubeやTikTokへと移る中、ブログは時代遅れ
b)同世代(シニア)のブログ離れ
c)他への貢献は終了し、下降していく人生時期
d)歳を重ねて諦観の要素が現れ、キレやヤンチャな面白さが消失。エネルギッシュなパワー不足。

⑤トレンドワードを入れない
a)アクセス数に影響がある、最も納得できる理由
(検索にひっかからない)

読者は何本ものブログを読んでいたが、数を絞る傾向にあり、その選に漏れる。競争に負ける。

そんなかんじかなあ、、、と。
書いても書いても閲覧数は伸びないどころか減少する、その理由は自己分析できる。
別に、閲覧数を目的にはしていないので、no problemなのだが。
継続は力なり、、、とは言え、なんの力になっているのか。
自分の生きる活力になっているのだが。
ブログ内容、テイストを見直すべきかと一瞬思ったが、売り物ではないし、商売しているわけでもないので、上司でCEOも兼任しているわたしにお伺いを立てると、、、
そのままで良いとのこと。

なので、自分救済の自分ブログは今日も続く。

追記。
いろんなジャンルの人に話を聞いてもらうカウンセリングがあるそうだ。
現役女子高生、ヤンキー、保育士、薬剤師、教師、サラリーマン、主婦、、、たちを相手に自分の悩みや愚痴を言って、日頃は何の接点もない人々の意見を聞くらしい。
30分3000円??(正確な金額は忘れた)
相手の話を聞く「傾聴」は、聞くだけだが、答えてくれるとのこと。 
価値観の違う人からの返答に、別角度からのヒントを得るとか。
わたしなら、そんな時間もお金も必要なし。
自分が聴いてくれ、自分が答えてくれる。
どんな人の言葉より確か。 
とは言え、最近、親身になってくれる他人の言葉に動揺したり、気付きを得たりする。

というものの、立場も価値観も属性も違う人に答えを求めても、「あんたに何がわかる?」と、素直に聴けないかも。
答えは自分にある。
いくら周りに説得してもらおうが、好きしたら?とほったらかされようが、決めるのは自分。
それまでの熟成期間の一つか。
ブログは、まさにセルフカウンセリングにピッタリのツールだ。

だから、他人が読んでも面白くないのは、最も当然だ。

ちなみに、最後に追加。
サラ・ブライトマンwithYOSHIKIのコンサートに行った。
世界の歌姫の美声にインスパイアされ、涙がはらはらと溢れた。



悪意記事

2022-12-01 | 読む人々には興味ない話
さて。
いきなり、始まる。

LINEに配信されるドキュメント記事で、悪意の塊を感じた。
記事で紹介されるAさん。
まあ叩かれても仕方ない行いをしているのではあるが。
本人が望み、法には触れていないなら、人に迷惑かけてないなら、なんでもいいの?の類い。
最後には、行為を介して移る病気に感染し、Aさんはこれではいけないと強く思い、悪癖を絶ったものの、次の、空虚を埋める手段も見つからず、満たされない時間を過ごしている、と記事では〆られていた。

まあ、記事的にはそんなものなのだが。
わたしは共鳴も賛同も同情もしないAさんであるものの、、、
書き手の目線、切り口が、わたしは気に入らない。
Aさんがやっている行いは決して良いとは思わないが、彼女を取り巻く環境についての記述が気に入らない。
(それがどうした?の感想で、すみません)

時代が変わり価値観は多様化した。
あくまでも多様化しただけであり、過去の一定の価値観を否定するものではない。
過去の価値観を含め、価値観は押し付けられるものでもなく、一つだけでもない。
国民が一丸となって同じ方向を向いていた時代は終わっただけである。
強制統一から解放され、自由に柔軟な展開になったのだ。

妻は家庭、夫は仕事。ほんの半世紀前までは。
今は共働き。
夫婦別姓はまだ国会を通過せずモタついている。
離婚はよくあることで、シングルマザーもゴロゴロいる。
後ろ指差されるなどは大過去の話。
結婚相手や恋人も同性だったりもする。
マイノリティもカミングアウト数が増え少ないなりに価値観が認められ、法制度が整い生活を守る。


価値観が多様化したのは結構だが、
公の大手サイトで広く読者に向けて発信する書き手は、気をつけなければならない。
多様化した選択肢の多い中、自分の価値観を基準にして、そうではない価値観を否定、糾弾しているかのような書き方には、違和感、不快感を感じる。
被害者妄想的にわたしが勝手に歪んだ受け取り方をしているのかも知れないが。
(現在の風潮をさらっと書かれているものに対して必要以上に行間を感じ取り、いじけているだけか?
今の時代の価値観を受け入れられないのか)

価値観が多様化したというのは、他の価値観を否定することではない。
一つだけの価値観ではなく、多くの価値観もあるという、選択肢があるということ。
自分の価値観からだけの発想で、決めつけてはいけない。
自分の価値観が自分にはあるなら、他人には他人の価値観がある。
同じではないからといって、自分以外を否定するのは、もはや多様化とは言えない。

なんだかな〜。
取材や手記による読みものが多いサイトなのに、、、著者によって色合いがころっと変わる。
読者個人の感想文ならいざ知らずに、発信側はニュートラルに構えて欲しい。
時代の風潮を、良い時代が来たにもかかわらず、わたしが反発して、時代遅れなだけかも知れない。

わたしは一見、ものわかりの良い老人のテイなのに、実のところは頭カチカチの、自分の価値観以外は認められない狭量な人間なのだろうか。
しかしそれは、芯だから。自分が生きる指針だから。
まあ、芯がないというのもグニャグニャで、よろしくない。

曲がるにしても、しなやかに、しなる強さが欲しい。