蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

昭和亭主は達者で留守が良い

2023-08-20 | 暮らし
「仕事とアタシ、どっちが大事なの?」
こういって詰め寄る女性がいるとか。
昭和の時代に聞いたことがある。

「家事育児とボク、どっちが大事なの?」
自称、子供のなかで末子を平気で自認する、手のかかる夫。
さすがに、今時こんな夫がいたら、首を絞められるだろう。
ちなみに、不出来過ぎるわたし事でお恥ずかしいが、、、、
わたしの場合はそれに近かった。
昭和の夫は仕事オンリー。
家事、育児、教育は、妻まかせ。親まかせ。
でも、お金は家に入れていた。
入れないより、まだマシか。
家政婦代金、チャリ〜ン。
だが、暴力やギャンブル、女性、3拍子はしない。
(夫の麻雀の負け金【大金】を持って来いと言われ、わたしは車で現場まで走ったことはあるけれど)
昔の芸人みたいに、遊びは芸の肥やしだ、なんて堂々と主張するなら独身になってからどうぞ。
犯罪に手を染めなければ、人に迷惑をかけなければ、誰も止めやしない。

「誰のおかげでメシが食える?」
は、完全なモラハラNGワード。
今時、そんなことを言う人もいないだろうけれど。
仮に言われたら、答えは
「ワタシのおかげです」

40年近く前、子育て真っ最中、夫が帰宅すると憂鬱だった。
子供に手がかかるのに、夫に手を取られるからだ。
ワンオペ育児に、加えて夫の世話。
「夫が手伝ってくれる」の真逆。手助け加算プラスの逆で、マイナスしかない。
家に帰ってきて欲しくなかった。

時代は変わった。
変わらないのは夫だけ。
昔のままの価値観、感覚でいられると、言いようのない嫌悪感と絶望感に襲われる。
だが、相手の行動や中身を変えることは出来ない。
相手を替えることは出来ても。

再婚はあり得ない。(まだ離婚してないけれど)
誰かと一緒に暮らすのは嫌。(男性は嫌。女性も嫌)
台風や大雨の時は、同居人がいると心強いが。
よほど病気で弱って自立できなくなったら、毎朝、生存確認してくれる人となら暮らしてもいいか。 
それならセンサー付きロボットで充分。

弱い不甲斐ない自分を責めることはやめた。
わたしは生まれ変わった。
つるんと一枚、着ぐるみを脱いだ。
ゆで卵みたいに、すべすべつるつるしていたら良いが、シワシワ。
もう老後だし、仕事も家庭もリタイア。
卒業した。
親しい友達みたいな娘一家は、責任なく楽しいけれど。
わりと、清々しく気持ち良い。
坐禅もしないし、断捨離のDVDも買って勉強しないのに、無の境地。
どんなにガラクタゴミ屋敷でも、こころは断捨離済み。
辿り着くのは無常の世界。

毎日、つつがなく楽しく暮らしている。



挫折

2023-08-19 | わたし
誰しも挫折を経験したことがあるだろう。
その時にどう乗り越えるかがキーとなる。
乗り越えられない場合は、自己否定し、いつまでも劣等感に苛まれる。
時間が経つと傷の進行が止まるか、あるいは別のことに振り回されて、それどころではなくなるかも知れない。

わたしも挫折は何度か経験した。
と言っても、他人から見ると笑ってしまう程のものらしい。
当の本人は真剣で必死なのに、軽くあしらわれたこともあり、とても失礼だ。プンプン。
他人は、外側しか見ない。見えない。
経過や現状、実際の出来事、姿かたち。
よほど巧みに工作して自分を隠し、実際とは別の人生を作り上げている人なら、外側で判断されたら望みが叶うだろう。
小説家や、一般人の中に潜伏して息を殺して暮らしている犯罪者じゃあるまいし、普通の人ならそんなに意図して虚偽の人生を作らないだろう。

交通機関の時刻表を読み込んで、旅をシュミレーションして楽しむ人もいる。
図面を読み込んで、そこから立体化され建てられた建造物を想像して悦に入る人もいる。
想像の世界は人それぞれ。色々だ。

だが、別の人生の創造は、わたしは小説家にお任せしたい。
自分は今更、別の人生は歩めない。
まだ人生時間は残っているから、(可能な範囲内で)好きなように歩もうと思えば歩めるが。
わたしは、このまま路線を変えず、脱線せず、延長線が理想と考える。
その先は天国。


それはそうと。
挫折の話。
挫折したまま、ほったらかしているかどうか。
大概は、対策を練ると思う。
少し後退して、道を変更する。切り替える。
挫折したままの道は、そのまま進めない。
日を改める、自分を改造して鍛錬を重ね、再チャレンジという手もある。
それは挫折とは言わない。克服だ。
挫折とは、、、途中で、ぽきんと折れること。
だから、もうその道はお終い。
いつまでも執着していては前に進めない。

わたしの場合、どうしたか。
30代前半の話。
諦めた。
すると、アタマの上にドカンと載っていた重いストレスが、ぱ〜っと無くなった。
それと引き換えに、やり遂げられない自分、甲斐性なしの自分がいた。
自分を追い詰めることが出来ず、困難から逃げた。
だが、楽になった。

その後、どうしたか。
自分の能力に見合った目標を探した。
高い目標は、取り下げた。
自分には無理なことは諦め、自分を見限った。
目標を下げた。
試行錯誤の一種。
高い目標に向けて自分を叱咤激励し、精進し、レベルを上げ自分を高めて行くのが理想だ。
が、自分に甘い根性なしのわたしは、負けを認めた。
やめとこう。
負けで行こう。
自分が出来そうなことを探した。
自分レベルでそれなりに頑張った。
自分の能力や適性を知ることは大事だ。
やりたいこと、出来ること、やりたくないこと、やるべきことの折り合い、調整をしなければならない。
自分にとって譲れないことは何か。
妥協点はどこか。
人によって違う。
状況も能力も気持ちも違う。

挫折は、切り替えに変わった。
進路変更だ。
自分だけが納得できるなら良いが、周りの事情もあるだろう。
そうやって経験を積み成長していく。大人になっていく。
挫折の対処の仕方で、その後の人生は変わって来るだろう。

夢を諦めた後、萎んだ風船のように長年、過ごすのか。
残念の気持ちのまま、恨みつらみを抱えて暮らすのか。
はたまた自己嫌悪に苛まれたまま、一生を終えるのか。
マイナスの長い時間は、もったいない。
人は再生出来るように出来ている(と思う)。
挫折の後は再生。

そうやって今日まで来ていても、あたかも、何も考えていない、脳みそシワなし、明るくノー天気な人間だと思われている。
実際、楽天家だし、まあそれはそれで、根暗だと思われるよりマシか。


何ごともなく幸せだ

2023-08-18 | わたし
さて、と。
とりあえず、ブログ、先に写真を選んでおく。

わたしは、、、、、
取り柄がない。
何をしても中途半端。
胸を張って成し遂げたと言えることは何もない。
自分なりに頑張ったとしても、目を見張る成果はない。
だが、強いて言えば、幸せだということ。
しょげることも、拗ねることも、ひね曲がることもなく、わりと明るく前向きに毎日を過ごしている。
不幸ではなければ、幸せなのだ。

長女が孫の進路について、一言、ぽろっと言った。
自分の道が自分で気に入るような、そんな道に進んで欲しい、と。
深い、、、。
わたしは早々に大枠を作り、保険をかけてミニ盆栽にしたかも?
だが、成人後は、各自のコース。

未来ある子供たちはさておき、
さて、わたし。
能力が劣っていても、別に構わない。
今更、何をする?
別に何をするわけでもない。
人によっては生き甲斐がなく、つまらないと思うだろう。
わたしはへんに使命感を持たされると、どっと疲れる。
何もしなくても、本人が良いなら、本人があえてその道を選んでいるなら、それでよし。
過去の思い出と、未来につながる毎日があれば、それでよい。 
つつがなく。何も起こらない幸せ。
わたしにとっては、それが幸せなのだ。
人が退屈するような状態が、わたしの幸せ。
この予定のない自由時間こそ、黄金の時間。
細いピアノ線のような、目には見えないけれど、しっかりした線、それが通っていると自分が感じられたら、それでいい。
他人にわかってもらわなくてもよい。
自分なりに内面にはスタンスがある。

幼い頃のわたし。
お花畑に一人座らせていると大人しくニコニコしていた、という(母から聞いた)エピソードが大好きだ。
わたし自身は記憶にないのだが。
だけど、精神状態がそんなかんじ。
いつも安定して和んでいる。
とは言え、ブチキレて、ちゃぶ台返しもする。(今月の話)
しかし最近のちゃぶ台は、大きくて重い。
せいぜい、角度や向きをよっこらしょと変える程度。

さてさて裕さん。
磯がCのが目に浮かぶ。
自動車一台分の出費だそうだけど、間違いなく良い時間になると確信している。
次に帰国される頃は、晩年?
いや、もう少し前?
その頃には、日本のまだ未知の地をぜひゆっくり回っていただきたい。


方向音痴

2023-08-17 | わたし
地理音痴。
方向音痴。
全てに音痴。
生まれつきのわたしの特性である。
脳のどこかのパーツが、塞がれているのだろう。
地図が読めない女性の典型的パターン。
わたしは、どこ?
ここは、どこ?
ぐるっと一回転すると、何がなんだかわからなくなる。
いつも、これ。

ただし、究極の必要性を感じる時は脳みそが自動的にぎゅっと締まるようで、作動する。
例えば、知らない場所、初めて行ったところでトイレに行った時。
元の場所に戻れるように必死で覚える。
何気なく無意識で行くと、絶対にダメ。
何がなんでも道順を意識すること。

そもそも、わたしは小学校2年の時に、東西南北の概念を学校の授業で習った時に、意味がわからなくて瞬時、落ちこぼれた。
どうしてもわからなかった。
学年が上がっても、紙に書いて、平面図に、右が東、上が北、左が西、下が南、と、意味もわからず丸暗記。

この方向音痴は、育った地の地理背景にも影響が大きい。
だだっ広い平野なら、東西南北を覚えないと、わけがわからなくなるだろうけれど、、、
(太陽の位置と影、時間から東西南北を知る方法もあるようだが。
雨や夜、地下はどうする?)
後ろが山、前が海。それがずっと続き、電車の線路は海岸を前に東西に走る。
山を見て海を背景に、海は南、山は北、右は東、左は西。
それを丸暗記すると、平野に来ると、山も海もなく、東も西もさっぱりわからない。
電車の改札口も東出口やら西出口やら、はあ??となる。
山と海がセットで位置してないと、わからない。

小学校では電車通学の同級生もいたので、彼らは電車に乗るため、地理感覚が優れていた。
社会科の授業で駅名を順番に並べる場面があった。
電車通学の子たちは、学校がある駅を基準にすらすらと駅名を並べていた。
わたしは、、、学校のある◯駅の次は、いきなり大阪駅で、その次は東京駅、さらにその次は、なんとアメリカ駅だと思っていた。
が、さすがに子供ながらそれは無知なのではないかと薄々気づいて、口に出さなかったし、駅名も書かなかった。
いくらなんでも東京駅の次がアメリカ駅だと思っていたのは、もっと幼い頃だったかも知れないが。

当時、わたしにとっては大阪は外国だった。
東京は宇宙。
ではアメリカは?
おそらく架空の世界。
しかし、時代の影響が色濃い。
なんでアメリカ?
国際的にアメリカしか国は知らなかった。

はるか昔、半世紀以上前の昭和時代。 
20歳で初めてイギリスに行った時に、驚いた。
そもそも超田舎もんのわたしがイギリスを選んだ理由は、保守的であること、島国であること。
日本との共通点があると考えたからだ。
ヒースロー空港に降り立ち、初めて見る国、人々に、先入観が吹き飛んだ。
なんとイギリスは古き老大国だった。
アメリカが飛ぶ鳥を落とす勢いで繁栄している一方で、ヨーロッパはアメリカを成金的な目で見ていた。
重ねてきた歴史が違う。
が、ヨーロッパのホテルは趣きがあり重厚。
ではあるものの、ピカピカのデラックス新築に比べると、水の出が悪いところもあったりする。
どのランクのホテルに泊まるかで違ってくるが。

西洋への憧れは、キラキラ光り輝く面しか目に入らなかった無知による。
偏見と思い込み。
ではあるものの、普通の人々の暮らしは暖かいものだった。

今でも、どの部分を見て、どの部分を見ないかによって、感想は変わる。
全てをわざと見ないのか、見ようとしないのか、
好きなことばかりや刺激的なことを見ようとするのか。
目に入っても脳が素通りして、見えていないのか。
端から端まで、浅く広くなら見れても、深くは見れない。
総合的に俯瞰的に見るか、ピンポイントで見るか。
ピンポイントは、どれを選ぶか選択によって、ずいぶん変わってくる。
どんぴしゃり、真ん中、平均のピンポイントなど、あるのだろうか。
中央値は、必ずしも1番多いゾーン、層だとは限らない。

と、話がどんどん脱線している。
いつも、こう。

大人になるにつれ、見える景色が広がる。
見識が深まると、さらっと表面に現れているものしか見えない状態から一歩進む。
が、それが良いとは限らない。
曇ったメガネや、低視力の裸眼でさらっと見るだけのほうが良い場合もある。
わざと見ないのか、心がなく注視してないから見えないのか。
シーンシーン毎に、鮮明モードを切り替えられたらいいなあ、、、だが、意識して選択すると脳が疲れて休む間がなくなる。
なので、わたしに関しては、気の向くまま、気分次第でよい。
第一、コントロールできないし。
制御不能は、神様からのプレゼントだろう。


ちなみに。
裕さん、9月帰国!
さぞや、お忙しいでしょうね。

やれやれ、落ち着きの日常

2023-08-16 | 日々のこと
台風一過。
やれやれ。
今日から日常。

孫たちとの旅行も無事済み、お盆行事も事なきを得て、台風も、すーーっと過ぎて、よかった、よかった。
しかし、小5孫、相変わらず寝相が良くない。
湯布院の旅館の布団、夫の隣が一つ空いているにも関わらず、孫2人はテレビでクレヨンしんちゃんを遅くまで見た後、先に寝ていたわたしの布団に小5孫が入って来た。
彼が熟睡後、蹴るわ蹴るわで、わたしは痛いし、著しく安眠妨害。寝られない。
なんであんなにキックする?
夢で運動会でもやっているのか。
夜中にあまりにも蹴ってくるので、掛け布団で小5孫をぐるぐる巻きにして簀巻きにしたが、効果なし。
一晩中、蹴られる方は、かなわない。
翌朝、本人に苦情を言っても全く聞く耳を持たない。
聞いてない。
自覚もない。
蹴られ損だ。
前にも蹴られまくったのに、喉元過ぎれば熱さ忘れる、で、対策を怠っていた。
侮っていた。

それはそうと。
やっと日常に戻れて、安堵している。
予定行事は行われるまでは、前々から気になってしかたないし、実際に行っている時は、どうしよう?とか、めんどくさいな、などと言ってられない、まな板の鯉?(ちょっと違うか)、アドレナリン効果で乗り切っている。(疲れるが)
無事、終了すると、いつもの生活に戻る。
ぷしゅぅ〜〜と脱力。
これは、日常と非日常、メリハリのためにあるのではないだろうか。
つくづくそう思う。
日常に戻った時の安らぎ気分は言いようがない。
安らぐために、非日常をわざと行うのではないかと思うぐらい。
かといって、安らいでばかりでは活気がないし、間延びして退屈になることもある。
非日常は非日常で、興奮するし、大切な思い出作りになる。
一石二鳥。

そして。
お盆にまた、新しい気持ちを味わった。
今までとは違う新境地だ。
仏さんたちを迎える側になって、その役割やポジションに慣れて来たのかも知れない。
6年間も記載していなかった過去帳に、必要事項を書き入れた。
6年も、ほったらかしにしていたのか。
2017年からバタバタと忙しかった。
法要も一段落して、穏やかになった。

過去のご先祖の皆さん、新米の姑をよろしく。



台風中、家で作業

2023-08-15 | 日々のこと
台風直撃らしく、電車もストップ、デパート、スーパーも休業。
ずっとテレビで台風ニュースをかじりついて見ていた。

それはそうと。
昨夜のNHK TV番組「ファミリーヒストリー」。
草刈正雄。
大泣きしてしまった。
「死んでいる」と母に聞かされていた実父が、じつは生きていた。(後に高齢で他界)
番組MCの今田が、「どんなお気持ちですか?」と野暮そのものに聞く。
複雑な顔で、言葉がないと言う草刈正雄。
涙が溢れる。

いやはや。
ずーーっとわたしは涙が流れっぱなしだった。
ずーーっと、ずーーっと。
お母さんの強さにこころ打たれた。
草刈正雄はわたしの兄と同じ歳なので、お母さんはわたしの母世代。
戦中派は強いと、しみじみ実感した。
籍の入らない、父不在の子供を自力で自活して育てる逞しさ。
アタマが下がる。本当に。
わたしなんかは、つくづくダメな甘い人間だと思った。
お母さんは赤ん坊の子供(草刈正雄)を抱いて電車に飛び込もうと何度も思ったが、無邪気な子供の動作に思いとどまった、と。
今、これを書いていても涙が流れる。

いくつも仕事を掛け持ちして、苦しい家計ながら一生懸命、子供を育てる立派さ、健気さ。母は強し。
牛乳配達や新聞配達のアルバイトをして家計を助けようとした草刈正雄も、素晴らしい。
しかし、お母さんは子育てには躾は厳しかったようだ。

草刈正雄もあんなに甘いマスクで、ルックスの良さだけでなく、よくぞ年齢を重ねても人気を保つだけの仕事をしたものだと感心する。
才能、努力、運。
お母さんの芯の強さも受け継いでいたのだろう。
いやはや、、、ただただ感服。

ふらりふらり「寄らば大樹の陰」スタンスの自分自身の甘さが恥ずかしくなるほどだ。


ちなみに、話はころっと変わるが。
台風ニュースを見ながら、雑巾をたくさん縫った。
孫たちの小学校に提出する分。
長女に8月中旬までに、と前から頼まれていた。
雑巾にする古いタオルは、夫の実家から一昨日、持ち帰ってきた。
姑が老人施設で使っていたタオル。
使い古してボロボロ具合が、雑巾にピッタリ。
前々から雑巾用に使おうと目を付けていた。

タオルには太いマジックインキで名前が書かれている。
別の人の名前が書かれたタオルも混じっていた。
同じフロアに入居していた人の名前と思われる。
名前が外から見えないように、中表にして縫った。
今は、わざわざ縫わなくても、100円で雑巾が売られている。
買った商品なら学校に提出するのには、キレイでカンタン、便利で、恥ずかしくない雑巾だ。
が、いかにも下手な手縫い、チクチク。
小中学の家庭科の授業でやった運針の練習を思い出した。
とは言え、孫や長女が、こんな雑巾、嫌だ、恥ずかしい、と学校に提出するのを渋るかも知れない。
綿の糸、たっぷり使ったが、糸だって安くない。
時間と労力と高い糸を使い、不細工なカッコ悪い雑巾を一生懸命、縫う。
手先が不器用。
兵隊さん、戦地で頑張って下さいという祈りを込めた千人針に近い気持ち。
(もちろん、そんな日が将来、絶対に来てはいけない)
孫たち、小学校で頑張ってね!
遠くから応援しているからね。
ではあるが、こんな雑巾、やっぱり敬遠されるかも?
キレイな新品のタオルで、ミシンがけした雑巾が、優等生雑巾だろう。
だが、誰がどの雑巾を持って来て提出したか、わからないだろうから、あれで良い。
毎年、提出する使い捨てなのだから。
と言い訳を考えてしまうほど、不細工な雑巾が出来上がった。

※写真は記事とは関係ありません。
@湯布院。





お盆と台風

2023-08-14 | 日々のこと
PPKピンピンコロリは理想だが、現実的にはNNKネンネンコロリになる場合もある。
ピンピンコロリのほうが、世の中で先に謳われ始め、後から、ネンネンコロリを耳にするようになった。
長期寝たきりの後、最期は寝たきりでサヨウナラ。
なぜ、理想が謳われていたのに、げんなり暗くなるようなNNKが言われるようになったのだろう。
理想はあくまでも理想ということか。
理想を持ち続けることが大事かと。
暗雲立ち込めるようになったら、その時、考えよう。

お盆。
不要不急の外出は控えてください、とニュースで、アナウンサーが深刻な顔で再三再四、言う。
が、お盆なので、不要不急のような気もするが、仏さんたちにとってはそういうわけにはいかない?
仏さんたちは、あの世に行っているのでもう時間の概念がないだろうけれど、現世に生きている我々は、そういうわけにはいかない。
時は金なり。
何かと忙しいのだ。
お坊さんも例年より遅めに、セカセカやって来た。
お坊さんは不要不急ではなく、お仕事。
仏さんたちと、お坊さんを家にお迎えするほうも、不要不急ではないということ。
だが、、、夫の実家とお墓は、うちから車で1時間。

お盆なのに台風。
長女一家はお婿さんの実家に昨日から帰省。
次女一家はお婿さんの実家から今日、空の便でリターン。
どちらも台風と追いかけっこ、ギリギリセーフ。
という我々も一昨日、台風6号に巻き込まれ、乗り継ぎ電車が動かず、指定席は無効になり、更に何時間も待ちぼうけ。
宿では、スマホが夫と同時に大音量避難緊急アラームが鳴り、ヒヤリ。

台風はお盆なんか、知ったこっちゃない。
今日も本格的に台風が来るスレスレ直前に、午後からお出かけ予定。
さっさと用事を済ませて切り上げるつもりだが、雨雲とわたしたちの足、どちらが速度が速い??
ゲリラ豪雨に見舞われる可能性があり、気が進まない。行きたくない。
雨雲や台風に追いかけられるのは、激しく憂鬱。






馬はエネルギッシュ

2023-08-13 | 
動力エネルギーに、「馬力」というものがある。
鉄腕アトムは、十万馬力!
この力強い馬力で、湯布院の街中をぐるりと回った。
近くで見ると、馬は立派だ。
GWに石垣島の近くの竹富島で牛車に乗ったが、牛とはまた違う。
将軍さまか騎士になって、パッカパッカと馬を乗りこなすのはカッコいい。
わたしの父は午(うま)年ということもあり、馬が大好き。
学生時代は乗馬部。
義姉も乗馬をしていた。
わたしは、とても乗れないので、馬に引かれてポコポコと西部劇の幌馬車の乗客気分。
行く場所、行く場所、観光客の皆さんが、にこにこ笑顔で手を振ってくれる。(馬に)
注目を集め、凱旋パレード中の大谷投手になった気分だが、皆さんは馬に釘付け。

ちなみに、何頭もの馬が駆け巡る躍動感溢れる大きな絵画を実家からもらってきた。
夫の実家をリフォームした際、リビングルームに掛けているが、しみじみ、、、父の活力をもらっている。

それにしても、湯布院は素敵なところ。
外国人だらけなのが少し気になるが。
世界ではあちこち心配事象がたくさん起こっている、、、
ではあるものの、インバウンド再開でまた、日本も世界も活気が出るといいなあと願う。



古い価値観

2023-08-10 | 読む人々には興味ない話
各国、なぜ少子化になっているか?
人口の多い国はこれから栄華の時代を迎える。
昔は貧乏人の子だくさんというイメージがあった。
産めよ増やせよの時代を過ぎて、やがて理想とする子育ては教育にお金がかかる。
質を追求して子供の数を減らす。

自分の生活や人生の質や充実を重視して、子供を産まない、結婚もしない。
少子化の波に歯止めがかからない。

価値観の変移か。
しかし夫婦で協力して子育てしている姿をよく見かける。
女性が普通に家庭外で働くようになって、家事、育児の協働が目立ってきた。

介護について。
老老介護もさることながら、わたしが知る範囲では、リタイア前後の男性が母親の介護を担うケースが増えてきている。
嫁ではなく、息子。
時代は変わった。

だが、まだ旧態然とした価値観は人によっては変化せずにそのまま。
特に前期・後期高齢者あたりの、昭和男性は、アタマの中が変わっていない。
今更、変えようにも無理。
周りは諦めている。
が、少し突くと、火薬庫の爆発が起きる。
啓蒙啓発は無駄なので、あたり触らず、そっとしておくしかない。

いくら目の前で若い婿が家事・育児をしていても、自分には直接関係がなく、映画を観ているようなもので、自分事として捉えていない。
その状況が許されているわけではなく、アタマのカタイ人は、居ないもの、存在しないものとして扱われている。
特別な地位、特権を与えられているわけではない。
治外法権の例外区。
経済発展区なら良いが、限界集落のようなもの。
再生などには手付かずで、やがて朽ち果てるのは時間の問題。

ちなみに、我が家があるのは、半世紀前に大規模開発された地。
我が家の近所周り、土地家屋の新旧移り変わりが著しい。
開発、分譲当初、安い値段で買って入居した人々は90歳近くなっている。
家を手放し、駅近くのコンパクトなマンションに引っ越しているか、老人ホームに入っているだろう。
綺麗に区画され整列していた各邸は、歯抜けのように、どんどん古い家が更地になっていく。
そして、新しい家が建つ。
ちょっと家の周りを散歩すると、あちこちに動きが見られる。
1番の動きは、わたしが寝ている2階の部屋から見える風景が変わったこと。
今まで何もなかったのに、窓から全面にドーンと大きな家が立ちはだかり、こちらの2階と目線の位置が同じになった。
うちの1階からは見えないのだが、2階から見ると存在感を現している。
なぜ、1階からは見えないのに2階から見えるのか。
というか、2階からしか見えない。
うちの玄関の反対側(背後)の家の、更に道を隔てたお向かいの家。  
何十年も手付かずの空き地だった。
裏側の筋を一つ進んで足を運ばなければ、家が建っているのが1階からではわからない。
そして、うちの2階から見えるのは、大きな家の横側。横姿。
道路側の間口より奥行きが広く建っている。
道路側の横から見ると幅が狭いが、直方体の大きな家。
大きな家が建ったと思っていたら、それは横側から見た姿で、実際はもっと大きかった。
(書いても書いても、うまく表現、描写できない。
図面か、写真なら一発でわかるのだけど。
なぜか、この家の形状、形態を表現したい)

その家が新築されている同じ筋には、南側、一軒飛ばして1軒、さらに南側、1軒飛ばして1軒、合計2軒も家の取り壊し。
そしておそらくその取り壊される家と家の間の1軒も取り壊されることだろう。
すると3軒連なって全部取り壊し。
北側4軒目(うちの2階から突如、姿を現した家)は新築ということになる。
そのお向かい東側の家も潰して別の人が新築。
新築主は、その隣家の娘さん。
親子で2軒続きになる。
すごい。
(だらだら同じようなことばかり書いて、自分ばかりが、興奮している)

新旧入れ替わり。
新しい人や、新しい世代、2分割にされたりして若い世代が入ってくる。
活性化され、若返って良い。
半世紀でこんなにも一戸建て(建売ではない個別オリジナル注文建築)の住人は、丸々家ごと入れ替わるのだ。
それに引き換え、夫の実家やわたしの実家地域は、全く入れ替わりがない。
新しい人が入って来ない。
閉鎖されているから停滞して衰退していく。
住民の精神と、行政の遅れ。
高齢化は進む一方。

考え方が古く、いつまでも旧態然としていると衰退、退廃する。
老人たちが自分の蒔いた種。

若い人が結婚しようという気にもなれない、昔の価値観。
価値観が今の時代に合っていないことに全く気づいていない。
少しでも古い価値観に触れると、逆上する。
古い価値観の人がこの世からいなくなるか、新しい価値観と闘わなければ、古い価値観はなくならない。
やがて、徐々に社会は変わっていくだろう。
が、時代が移っても、次世代に伝えるべき良いことは踏襲すべきだと思っている。

同じことを何度も書き散らしている。
シツコイわたし。

わたしも40年、古い価値観と闘ってきたが、大元がこの世からいなくなり、解放されたと思いきや、古い価値観そのものの幽霊が残存していた。
古い価値観の親の価値観をそのまま受け継ぎ引き継いでいる子供が歳を取り、親がいなくなったその後も、亡霊が乗り移っている。

※写真は、今日の大分・別府。
台風の影響で遅くなり疲れているのに、旅先で、全く関係ない内容のブログ記事。

キレた人

2023-08-08 | 日々のこと
夫がキレた。
何にキレたのか、ここに書くのも馬鹿馬鹿しい理由でキレた。
アタマが壊れた。
老化が原因か?
キレる老人そのもの。

やっぱり理由を書こう。
夫が好きなTV番組の感想を「姉がこう言っていた」とわたしが言った。
それは世の中で発信されている論評とピタリ重なる。
なので、わたしが特別変わりモノで、ひね曲がった歪曲した持論を持ち、自分を正当化しているわけではない。
文字数にして18文字ぐらい?(パワハラ、モラハラ、セクハラ、ワンパターン)
時間にして30秒もない?
すると、突然、キレた。
ドッス〜ン!!と、重い大きな音がした。
モノを投げつけた。
わたしは、何が起きたのか、わからなかった。

「オレの好きな番組に、なぜそんな嫌なことを言うんだ!!」

夫は、そのTV番組が好き過ぎて、否定されると自分を否定された気になるようだ。

誰がアナタのことだと言った???
しかも、番組を否定したわけではない。

一種の宗教である。
しかも世の中ではこう言ってるよ、という意見すら受け入れない、受け付けない。
時代錯誤の封建時代ドラマなので、現代とのあり得ないギャップを誇張してあるところが漫画より更に面白く、視聴者は楽しんで見ていると思う。
わたしは、そこまでは言っていない。
他の封建時代のドラマや歴史小説を読んでも人権が軽んじられているが、当時としてはあれがスタンダード。
絶対的権力の前には民主主義も平等もなにもない。
それが封建時代。

それにしても、言いたいことも暴力で封じ込める夫婦なのか。
わたしは絶望感に襲われた。
1番最初にアタマをよぎったのは「離婚」の2文字。
しかし、夫の実家に置いているわたしの荷物や、わたしの実家から運び込んでいる大型家具など、どうすればいい?
さらに、人生終盤の晩年、夫の実家の古いモノを調査、研究、時代考証したり、できれば記録しようと老後の最終趣味の世界を楽しみにお取り置きしているのに、それが無くなる。
あと、台風や大雨の時、一人では怖い。不安だ。
さらに、わたしは社会的弱者なので、離婚してもデメリットしかない。
とかなんとか、、、離婚は選択肢から外す方が良い理由が次から次へと出てきた。

離婚は却下。
離婚の次に思いついた対策。
それは秘密。書かない。
書いて言霊が宿り、そのようにコトが進むと、自責の念に駆られそうで良くない。

3番目に思いついた対策は、、、。
具体策はない。
が、次の日から、夫が脱いだまま床に放置しているホームウエア半パンを通り過ぎる度に、足で上から踏みつけた。
何度か通ったので、何度も踏んだ。
だいたい、そもそも床に脱ぎ散らかすこと自体が悪い。
夫の母親が、夫に対して、自分の身の回りのことを自分でする「暮らしの自立」の躾をして来なかった。
引き続きわたしも躾をし損ねたことに自省、自責の念を強く持っていて、常に自分を責めている。
にも関わらず、悪意を込めて復讐心たっぷりに踏みつけた。
意外と効き目はあった。
このヤロー、バカやろー、と。
ボコボコにやっつけた気分。
姑息で卑怯。
だが、知らぬが仏。実害なし。

願掛けには、お百度を踏む。お百度参り。
信仰否定は、踏み絵。
同じ踏むにも、全く真逆の思い。
では、半パン踏むのは、踏み絵に少し似ている?
憎しみの陰険、踏み半パン。
スッキリはしないが、しかたない。

「大好きな大好物の苺をけなされ、キレた!」
に近い、今回の流れ。
苺が好きな人の気が知れない、だとか、苺が好きな人にはろくな人がいない、だとか、苺ばかり食べていたらいずれ病気になる、だとか、
そんなことは、全くわたしは言っていない、、、にも関わらず、何故キレるのか、まるでわからない。理解できない。
老化?病気?
理解できないということが、わかった。

だが、古今東西、世の中にはこういう出来事はよくあるように思う。
歴史の転換や事件の引き金になったりしている。