蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

言葉も考えも通じないと、、、

2024-07-19 | 読む人々には興味ない話
わたしがとても興味を覚えることがある。

江戸時代あたりに、船が嵐が何かでトラブルがあり、漂流した人。
漂流した先は無人島で、魚を獲ったりサバイバルして生き延びた、、、という展開もさることながら、無人島の後に外国船に拾われ(発見され救助され)、未知の国に連れて行かれた人の話、、、これには想像力を掻き立てられる。

大人で知能もあり、目も耳も聴こえる人が、全く見ず知らずの国、土地に流れ着いたら、、、どうなるか。
現地の女性と結婚して住み着く人もいる。
(実際の漂流者が女性である伝説は稀であるが)
健常な肉体さえあれば、どうにかなる。

わたしが知りたいのは、、、
連れて行かれたアメリカやロシアから、日本に帰国した人。
知性ある人は見聞したことを活かせる。
見聞録を元に、幕府の役に立ったり出来る。
それは良いのだが、、、

耳も聴こえて、目も見え、話すことも出来る、(読み書きは出来る?)大人の人が、外国で体験したこと、見聞きしたことを日本人相手に日本語で伝えられないこと。
それは、見聞きしたことが体験したことがない、見たことも聞いたこともないことで、話を聞き取る相手も未知の世界だったら、話が通じない。
難破した船の乗組員の何人かは、聞き取りには知力不足で応じられなかったが、中には、ちゃんと話せる人がいると、その人は知性がひときわ優れていたということだろうか。
知性の中には、現状認知力、理解力、記憶力のインプットと同時に、人に伝えるアウトプット能力が必要だ。
自分の頭の中だけに物語が詰まっていても、それを表現できなければ、幕府の力にはなれない。
ストーリーテラーにもなれない。

考えをまとめて言語化することは、日常では何気なく行われている。
幼い子供は言語能力がまだ未発達だと、内面(こころの中)を絵にしたりする。
絵にすると、益々、見る人にはわからないこともある。
絵を描くことが苦手な子供もいるし。
それと、深くものごとを考えたり整理したりする力がまだ備わっていない。
たんに、語彙が少ないだけではない。
考える力は、成長と共に徐々に養われていく。
(大人でも自分の考えが整理出来ない場合は、感情表現の一つとして、暴力に走ったりする)

いくら思考力が備わっていても、見たことも聞いたこともない、想像も出来ない事柄を目の前の人にどう説明するのか。
面白い実験になる。

地球人との共通言語を話さない宇宙人のようなものなのだろうか。

訪れた外国の、その国の言語が全くわからなくても、どうにかなる。
(自衛しないと、痛い目を見るが)
ものすごい僻地で、どうにもならないこともあるかも知れないが、現代では秘境はほとんど知れ渡っている。
世界の果てでも、観光化されていると、観光客相手に色々整っている。
未知の文化に触れるのは刺激的で気付きがあるため、人々は外国を行き来する。
今は、ほとんど大まかに情報は掴める。

だが、自分から好奇心で自国を飛び出す場合と、そんなつもりはなかったのに行く場合がある。
しかも鎖国が長い時代だと、外国の情報など入って来ない。
混乱するだろう。
アイデンティティを見失い、揺らぐかも知れない。
というか、過去の伝聞が残っていないため、想像を張り巡らせる。
これが結構、楽しかったりする。

人生で後悔していること

2024-07-18 | 人生
シニア男性が後悔していること、、、WEBアンケート結果が、いつも読むブログで紹介されていた。
後悔面だけを切り取って抽出されているため、良かったことや感謝していることは、またこれとは別に存在すると思われる。

シニア女性が後悔していることも以前に読んだような気がするが、仕事面での後悔は男性のほうが多くを占める。

後悔の理由は、時間、労力、お金の無駄だった、徒労に終わった、というものが多い。
その間は一生懸命、頑張って取り組んでいたが、振り返ると、意味がなかった、ということか。
おそらく、嫌で苦しかったが、したくない思いに逆らって無理して自分を叱咤激励して行動したのに、その頑張りは成果はゼロ、むしろマイナス、ということに対して、自分が納得できないのだろう。
腹立たしい思いが残る。
人生で損をした部分、しなくてもいい辛酸を舐めた、ということか。

苦労は買ってでもしろ、とよく言われるが、買ってまでしたくない。
たまたま、したくない苦労をともなうことが降りかかってきたら、じっと静かに最低限しか動かず行き過ぎるのを待つとエネルギー損失を最小限に食い止められる。
わたしは、いつもその方針。
実家にいた頃、鬼のようになって荒れ狂う母を前に、頭を低くして胸の中で数をカウントして、時が過ぎるのを待った。
晴れの日も、曇りも雨も台風の日もある。
今、思えば、母は、おそらく若い頃は躁鬱症傾向にあったのではなかろうか。
その若い母に育てられたなら、理不尽な雨風、嵐には相当慣れている。
抗体ができたようだ。

小さい時に大変な思いをしていると、それからの人生は、晴れ!!
日本ではわたしが生まれてからは戦争も起こらなかったし。
無駄なことなど何もないと考える。

嫌なことがあったり、嫌な人がいたり、嫌な局面に立っても、それが過ぎた後の、あの快晴、爽やか気分が待っている。
嵐の前の静けさ→嵐→台風一過
だが、嫌なことが通り過ぎるまでじっと我慢して待つ時間が、人生の大半を占めるとすると、、、
その先に何があるのか想像できないので、自分の未来がどんな展開になるのか、楽しみにしていくのも一案である。


周りに多大な迷惑をかけ、ものすごく嫌われている人がいた。
どうしようもない人だったが、一つだけ、貢献したことがある。
それは、その人が他界していなくなった時に、周りに喜びをもたらした。
これだけでも、存在意義がある。
そういう人、いる。実際に。
本人は周りのことなど考えず、忖度せずに辛抱せずに自由に生きていた。
自分はそれで、幸せ、満足な一生だと思う。 
1粒で2度美味しいグ◯コのアーモンドキャラメルように(軽く半世紀以上前の)、本人がいなくなってから周りに幸せをもたらすなんて、それはそれでプラス効果だ。


後悔は、「後になって悔やむ」、と書く。
文字どおり。
あの時ああしていたら、、、
その逆もある。
あの時、ああしなくてよかった、、、
したらよかったことと、しなくてよかったことは、半々ではないだろうか。
足して引いて差し引きゼロ。
相殺(そうさい)。

一般的には、人生を振り返ると、「して悔やむより、しなかったことを悔やむ」と言われるようだが。
ケースバイケース。
何がよくて、何がよくないのか、やってみないとわからない。
だが、わたしの場合、人生も終わりのほうに近づくと、何もないのが幸せと感じる。

だがしかし。
今まで書いてきたことは一体なんだったのかと、お叱りを受けそうだが、、、
わたしが後悔することは、、、
◯◯さんと結婚していたら良かった。
だが、おそらく今とたいして変わらないことになっていただろう。
わたしが良かったと思うことは、△△さんと結婚しなくて良かった。
たぶん、これは予想通りになっていると思う。

わたしは、自分を幸せにする無意識な選択が、たまたまうまく行っている。 
(とは言え、熟考するが迷ってわからなくなって、最後に決める時は、目をつぶって、えい、やっ、と、感覚、感性で)
だが、成功経験に溺れると、正しい状況把握が出来ず、次の選択を誤る。
とかなんとか、結果に合わせて自分を納得させているだけかも知れない。
初めからあまり期待しない。

鶏が先か、卵が先か。
どっちでもいい。


ブログの見た目と、中身

2024-07-17 | ブログ
文章が上手い人がいる。
ぐいぐい引き寄せられる。
リズム感や、言い回しがテンポよかったり、微に入り細に入り、痒いところに手が届くようにツボを抑えた描写がわかりやすかったり、、、胃袋をつかまれる、、、(胃袋→嘘。悪ふざけ。すみません)
こころをワシ掴みにされる。
引き込まれて読んでいると快適な脳内環境になる。
のではあるが、、、プロ、作家はそうだが、素人ブロガーさんはそういうわけにはいかない。
文章の上手さに引き込まれたものの、よくよく他の記事も読んでみると、、、、
やはり、無料の素人のお遊びに過ぎなかった。
知って間もないブログには、軽い失望を覚える。
だが、お金返せー、にはならない。
無料なので。
投稿された全てが自分の好みに当てはまるとは限らない。
売っているモノ全てがストライクゾーンとは限らないように。
ではあるものの、、、、どうしても相入れない価値観が見え隠れしてしまうと、受容しがたくなる。
クセや臭いが鼻につくこともある。
その時はカンタン。
そのブログから離れるとよい。
誰をも傷つけない。
別に挨拶はいらない。

こうやって、長い年月の間に、わたしのブログからも何人何十人の人が離れて行ったことだろう。
第一、年がら年じゅう同じことを書いていたら、読む側はうんざり。
飽きる。
だとすると、やはりプロの作家さんは凄い。
プロにはプロのスキル、力量、能力がある。

書き方スキルもさることながら、やはり内容が重要だ。
どんなにキレイに書かれていても、中身が薄いものがある。
人間の外見と同じ。 
どんなに美しくても、肝心なのは、中身である。
ではあるが、容姿に惑わされることは、古今東西、人間のやらかすこと。

(ちなみに、ブログの別アプローチとして、写真で見せる、さらっと事実を紹介する、という手法もある)

魂の底から湧き上がってくるものを嗅ぎつける。
SNS新人プロフィールに、「ハマっていることは、海外旅行、興味あることはおカネ、グルメ、オシャレです」と自己紹介されていると、近寄りたくなくなる。
同じ海外旅行でも、バックパッカーだったり、多くの人は見向きもしないかも知れない、こだわりコンセプトがしっかりあるものなら、わたしは興味を抱く。
札束で頬っぺたを叩くような、お金さえジャブジャブ使えば、ゴージャスに楽しめる、というようなコンセプトのものは、軽薄に感じる。
「こんな(あり得ないレアな)ことに、こんなにお金や時間、労力を使うか?」なら、後学のために好奇心を抱くかも知れないが。
究極の未知への冒険を求めて、命を落とした人も少なくない。
命と引き換えにするほどのものは、どんなものか、知りたくなる。
が、研究不足、調査不足、準備不足、認識不足、甘く見ていた、などの理由で命を無駄にするは、イタイ。

もっと軽い分野では、、、
オシャレ女子が大人になって、身の丈に合った人生を楽しむは、素晴らしい。
のではあるが、、、ただ、超個人的わたしの趣味、好み、偏見からすると、外見、外側しか見ていないと思われる内容に触れると、ちょっとため息が出る。
浅い。薄い。軽い。
とは言え、自分の経験を通してしか深い考察が出来ないわけではない。
書物がある。
しかし、例え読書好きであっても、好きなジャンルは偏るだろうし、自分が求めている答え、言い切ってほしいものを探して本を読み漁ることもある。
やはり、個人的好みは人それぞれなので、自分が好きなものに近寄る。
わざわざ苦手なものを克服するより、得意分野を掘り下げるほうが楽しくいける。
そして、思考が浅いと感じるものに触れると、気づきに繋がる。
自分を見つめる、対峙する、内省する気持ちがこころの底にある人の書くものに共鳴を覚える。

それと、、、これは最近やっと目覚めたのだが、、、、想像力は大事、必要不可欠である。
自分以外の、人の気持ちになって考える、想像する。
頑張って想像出来ない内容もあり、それは、「理解できない」箱に入れる。
(悪い意味で)気になる場合は、蓋を閉める。
時が経てば気持ちが変わることもあるし、変わらないこともある。


それはそうと。
追記。
今日の蝶ブログ記事をアップしてから10時間ぐらい経った今、ふと思った。
今日の記事でまた、何人かの読み手でもあるブロガーさんたちが、蝶ブログから去って行ったことだろう。


笑顔でニコニコ引退

2024-07-16 | 
次女に言われた。
「おかあさん(わたし)は、自分自身の力で稼げるお金と、自由にできるお金に差がある」と。
「世の中にはいろんな集団があり、その集団内でどうこう言っても始まらない」と。

ハッとした、、、わけではない。
ホッとした。
なぜなら、、、あらまあ、わかってるじゃないか、この子。
40歳を目前にして、もう大人、真っ最中。
わたしは、ダラダラベラベラどうでもよいことは話すが、あまり真髄的なことは言わない。
つまり本質は語らない。 
自分の胸の中にしまっているということだ。

というつもりだったが、実はダダ漏れだったかも知れない。
本音を喋りまくっていたのだろう。
実は(、、、またまたこういう演出的文言)、姑とは、本音そのもので話していた。
なぜなら、わたしたちは、同志であり、同じ方向を見て協力し合い、努力していたから。
お互いの欠点をちくりちくり責めあったとしても、ものごとを進行するにあたって、改善するためならいざ知らず、ただただ自分の感性や好みでバトルしても、目標に到達する時刻が遅くなるだけ。
無駄。
俯瞰的に見て、本筋から逸れていることに対して時間やエネルギーを割くのはタイムパフォーマンスがよろしくない。
なので、立場は序列や年齢は違っても、ほぼ戦友のようなかんじだった。
先代の姑と、姑も、2人で力を合わせて同じ方を見て頑張ってきた。

とは言え、時代は進み、移り変わる。
また違う新しい価値観が生まれる。
が、底流にあるものは繋がっているように感じる。

時代遅れの本音を聞かされ続けていたわたしの娘たちは、ある意味かわいそうでもあるが、自立していく上では、よいスパイス、刺激になっていると思う。
反面教師でもよい。
次世代への何かしらの叩き台になっている。

次女は、姑(次女にとっては父方祖母)に、色々教わっていた。
わたしが知らないことも教育してもらえて、大変助かった。
自分が足りない面は、人の力を借りるというのは、とても良いことだと思う。
分かち合ったのはDNAだけでなく、それぞれが持っている力を集結させて繋いでいく。

その次女に、本質を見抜かれ、ぼそっと一言、言われるようになった。
わたしも歳を取ったものだ。
すっかりもうお役目は終了したと感じた。
後は、ニコニコ前を向いて、静かにじわじわ後退していく時期だ。

皆さんのブログ、楽しませてもらっています

2024-07-15 | ブログ
先週に初めて訪れた、令和元年スタートの40代主婦ブログ。
面白い、、、のではあるが、、、読み進めると、当たり前なのだが、意見や感覚の相違が見えてくる。
まずなんといっても、年代の違い。
育った時代背景が絶対的に違う。
時代や育成環境による価値観も違って来て当然。
何を隠そう、、、(隠す必要はないが、つい演出癖)、彼女はわたしの娘たちと同世代なのである。
個性はそれぞれだとしても世代は同じ。
わたしには娘は2人いて、お互いに逆の性格、行動パターン。
それから見ると、今回の主婦は、どちらにも偏っていないとは思えるが、共通点はあるし、相違点もある。
息子の嫁、みたいな感じか。
(嫁、いないが。兆しも全くないが)

まず、ブロガーさんがご自身を一言で表現するプロフィールが「主婦」であること。
兼業主婦の場合は、「兼業主婦」と明記すると思われる。
娘世代で専業主婦は、どれぐらいいる?
それを自分を端的に表すワードとして、一番前面に押し出す人は、どれぐらいいる?
ブログを読む限り、どうも専業主婦のようだ。
主婦はたくさんいる。
が、プロフィールとして専業主婦とするには、それなりの本人の自負があると想像する。
多分、「専業主婦」とは明記されず、「主婦」と書かれていたと記憶するが。
ではあるものの、ハウスキーパー的なプロ家事人的な面は感じられない。
仮にちゃんと家事はこなしていても、あまり精神的に力を入れていないだけかも知れないが。
美容やファッションには興味がおありなようだ。
まだお若いので、自然なことだが。
お子さんも大きいし、都会のマンション住まいの核家族。
有り余る自由時間をご自分のためにたっぷり使っているんだろうなあと推測する。
取り上げる題材には少々偏りがあるものの、人のことは、全く言えないわたし。
言う資格ゼロ。

娘たちとの大きな違いは、、、やはり、興味の対象が、彼女とは同世代ではあるが、わたしの娘たちが持つ興味とは違っていること。
時間の使い方が違うこと。
ではあるものの、膨大な自由時間を惜しみなく使って、いろんな考察、調査を交えた記事を書いてくださるので、わたしが調べる手間暇を割愛できる。
その中から興味ある部分をチョイスして、いいとこ取りをさせていただき、享受している。

わたしの蝶ブログはひどいものだが、それを自覚した上で、確信犯的に言わせていただくと、、、(言わなければよいものを)
と、ここで筆が止まる。(江戸時代的表現)

やっぱり、やめておく。
自己制御。
なんでも言えばよいものではない。
胸のうちにしまっておこう。
だがしかし、わたしの自分に対する理想は、この、ケシカラン感想が自分の内面から自然に湧いて出て来ない、器の大きな、こころのキレイな寛容な人間になること。
なれるかな?
生きているかぎり、自分の短所、欠けている面と格闘し続けるだろう。
それが「生きている」ということに他ならない。

なんて、すぐ大袈裟に大層に、締めくくろうとするのは、蝶ブログの軽薄さの裏返し。
とかなんとか、「卑下自慢」というのがあるらしい。
どきっ。
過度な謙遜は鬱陶しいらしい。
蝶ブログ全編、底流には卑下自慢が蔓延しているかも知れない。
見て見ぬふりをしよう。


最近の自分ブーム

2024-07-14 | 日々のこと
用事で都会に出たついでに、映画を観た。
都会の映画館は、用事があったビルからほんの少しのところにあるのに、辿り着くまで、ものすごい人。
インバウンド観光客をかき分けかき分け上映時間に間に合うように急足で向かった。
用事はアポ時間は決まっているが終わる時間によっては、映画に間に合わない。
時計を見ながら綱渡。
間に合わなかった場合、次の別の映画の上映時間は1時間半後で、しかも内容があまり乗る気ではない。
さらにその次は2時間半後。
これは、まあ悪くはないが、あのインバウンド観光客だらけでムンムンむせ返る街で、2時間半も待つ気がしない。
なので、第一希望の映画の、好みの席(これが重要)で観られるよう、焦った。
用事が終わるや否や、WEB予約&決済をしたかったのだが、用事が終わったビルを出たすぐの路上で、クレジット決済に2回トライして、上手くいかなかった。
焦っているせいで、クレジット番号記入を間違えているのだろう。
こりゃあラチがあかん、と、直接、映画館まで行き、鑑賞チケットを自販機でクレジット購入。
なんだ、出来るではないか。
つい最近、前回「フィリップ」を観に行った映画館なので、館内の様子はよくわかる。

なかなか良い映画だった。
「ホールドオーバーズ 置いてきぼりのホリディ」(PG12)
PGって、何?
R15と、どう違うの?
気になって、Googleで調べたりした。
ちなみに、この作品は、後から知ったが、アカデミー賞主演男優賞ノミネート作品らしい。
涙が静かに、つつつーと流れた。
(ついでに言うと、わたしは、毎朝、平日は、涙を朝連ドラマ、「虎に翼」でも流している)
余韻が残る、後からじわじわ来る、静かな映画は好きだ。

今のところ、用事や運動を兼ねて、映画館に足を運んで映画を観るのがマイブームとなっている。

それと、初めて出会ったブログに少しハマっている。
一つは令和元年から書き始めたという40代主婦のブログ。
もう一つは、これは30代後半?(夫さんは40代前半?)の、バックパッカー世界旅ブログ。
若い人はエネルギッシュだ。
アーリーリタイアして10年ぐらい経つ50代男性のブログも、彼が打ち出す「幸福論」が好きでよく読んでいたが、安定した安らぎ幸福も良いが、やはり動き、活力、内から燃え上がるエネルギーのようなものは、一息ついた人からは出ない。
まだ完成されていない人生途上の人には熱情を感じる。
年齢は正直だ。若い人には敵わない。

安らいでしまうと、それはそれで良いのだが、内なる炎まで燃え尽きて残火で温まっているような気がして、毎日、新しく生み出す炎が欲しい。
お金に例えると、貯金は貯金として元金や利息や年金で暮らすのはとても落ち着きがあるが、それ以外に独自で別に生み出す力があるといいだろうなあ、、、と理想的思い。
自力ではなかなか限界があるので、映画やブログ、読書などで、自分の中に眠っている湿気ている固い薪に少しでも火をつけたい。


たかが呼び名、されど呼び名

2024-07-11 | 無題
夫はわたしのことを「おかあさん」と呼ぶ。
は?
わたしには、こんな歳上の息子はいませんが。
子供にとって、おかあさんは母親である。
夫にとって、おかあさんはわたしではなく、姑(故人)である。
いったい、いつまでわたしは、おかあさんなのだ?

娘たちには、わたしは、おかあさんと呼ばれる。
わたしは娘たちの母親なので、ツジツマが合う。
死ぬまで、いや、死んでからも、わたしは、生物的な遺伝子関係は、子供たちのおかあさんである。
にもかかわらず、、、
なんでわたしが、夫に「おかあさん」と呼ばれなければならない?

よく街で、そこのおにいさん、おねえさん、という声を聞く。
当然、姉妹でも、兄弟でもないのはわかった上での、若い人に対する呼びかけ総称のようなもの。
おとうさん、ご主人、おかあさん、奥さん、と、お店などではお客さんに対して呼ばれているのを聞く。
ある程度の年齢になると、そう呼ばれる。
おじいちゃん、おばあちゃん、という声もあるが、おじいさん、おばあさん、とは街ではあまり呼ばれないように感じる。

小さい子供に呼びかける時は、ぼく、わたし、なんていう声もある。
名前がわからないので、年齢、性別から見た呼びかけの一般的名称だ。

ちなみに、わたしは、大手チェーンのダ◯コク薬局の老薬剤師さんに、「奥さん」と呼ばれる。
難はないが、独身の可能性もあるのに。

話を戻す。
一般的な場合は置いておいて、
自分の家庭で自分の夫に、おかあさんと呼ばれるのに違和感がある。
「違和感」という、意識的にトゲがない表現にしている。
本音としては「不快感」である。
もうとっくに、おかあさんの役割は終わっている。
どうしても家庭のポジションを表現したいなら、おばあさん、である。
だが、夫に、おばあさん、と言われるとその瞬間、わたしのアタマから湯気が出る。
誰が、おばあさんやねん!!
あきらかに因縁、イチャモン、筋の通らないクレームである。
じゃあ、なんと呼べばよい?

最近、おかあさん、と呼ばれた後の、わたしの不機嫌ぶりに恐れをなして、夫はその場だけ別の呼び方にするが、時間が経つとまた、おかあさんになっている。
まったく学習能力がない。
その度に不機嫌、不愉快、嫌な気持ちになる。

おかあさん、が、なぜ、そんなに嫌なのか。
時代が変わり、役割も変わり、状況も気持ちも変わっているのに、全く厭わず、考え方を更新しない姿勢にムカつく。
変わらないのは貴方だけ。
普遍のものには、不動だと信じて疑わないのだろうけれど。
貴方だけがそう思っている。
貴方以外は、どんどん変わっている。

良いものが変わらないのはウェルカムだし、試行錯誤を重ねて改善されるのは結構なことである。
だが、時代や周りに対応出来ないカチンコチン石アタマだったりすると、柔軟性の無さにヘキヘキする。
家族は、石アタマを石として扱う。

石は石として、それはそれで存在する権利がある。
存在価値を否定することは、いかなる人に対しても出来ない。




映画「先生の白い嘘」

2024-07-10 | 映画
R15の映画「先生の白い嘘」を観た。
コミックが原作のよう。
Eテレ番組「ハードネットTV/フクチッチ」でMCをしている風間俊介が、すごく悪いオトコ役で出ていた。
風間俊介は、ずーーっと前、2012年度、NHK朝ドラ「純と愛」のメインキャストで出ていた時に初めて知った。
あの朝ドラは、大阪の中之島、それはわたしの庭(→つまらないジョークです)がよくロケに出て来ていたので、親近感をもって観ていた。
よくまあ、今回、あんな役に、、、複雑な心境の涙を流す母の気持ちだ。
というか、老婆心。

役柄をよく理解してちゃんと演じていたから、母としては胸を撫で下ろすところではあるが、何しろヒール役なので、わたしのかわいい聡明で純粋なボクちゃんが、なんであんな役を?!と、監督の胸ぐらを掴みに行きたい気分である。
と、冗談はさておき。
ウェブで無料で読める原作コミック(電子版)が映画チケットと引き換えに、付録に付いていた。
少し読んだが、まったく原作に忠実に映画が作られていた。

それはそうと、上映された館内の、わたしの前に座っていた高齢男性。
男女の際どいシーンが続く中、彼が右腕を肘から上に挙げて、顔の近くで手首を回したりひらひらさせる動作をするのが、すごく気になった。
平日、昼間のためか、わりとガラガラだったので、目障りで目障りで仕方なかった。
なんであんなに手をチャラチャラ動かす?
後ろの席の人に見えないように動かしていただくと支障がないのに。
高齢の男性には、刺激が強過ぎたのか?
お客さんには、お一人様男性の姿もちらほら。

何を書いてもネタバレになってはいけないので、書かないことにする。
ただ、監督が映画紹介のアウトラインの一部分を勝手に?削除したようで、気になった。
だが、わかるような気もする。
なぜなら、原作者が意図していたことに添ってないと感じたから。
所詮、監督は男性だから、女性の気持ちを100%理解するのは無理だろうけれど。
でも作品を手がける監督なのだから、そのあたりは、かなり重要である。
実写化にあたってインティマシー・コーディネーターを入れなかったことなどが問題視されているという見方もある。

原作はセンセーショルな漫画で発売と同時に注目を浴び、爆発的に売れたとか。
高齢者のわたしは、ナイーブな問題は既に終了してしまって平和に生きているが。
女性ではあるものの、時代が、昭和、平成、令和と移ってしまい、時代の流れの速さに着いて行けていない。
毎朝の連ドラ「虎に翼」なら、時代が変わっていく事態に感動してほぼ毎回涙を流しているが。
と同時に応援している。
昭和なら共鳴するが、令和は、どうも、、、というか、わたしが年齢が行ってしまって、悩みや痛みを自分なりに調整し、克服して、女性であることの良い面だけを吸収してしまっているため、同性の苦痛の叫びに対して、鈍感になっている。
女性は不平等だと感じながらも、自分なりにマイナスをプラスに変換して、良いとこ取りをしていると思える。
ある意味、乗り越えたのかも知れない。
開き直ったのかも。

「虎に翼」も、仕事の悩みは女性に限らない、性別には関係ない部分がある。
仕事と家庭、世の中の矛盾、男性も悩むところのものだろう。
虎に翼では、「男女の差別なく助けていきたい」といつも寅子が言っているが、わたしはとても賛同している。

今日の記事は生煮え、中途半端な感がある。
自分のこととして重ね合わせて捉えられず、想像力欠如のため、深く考えられないからだろう。

※写真は、義甥の作った料理をここ3日間、アップしてきたが、今回はその奥さん、つまり、姪にもらったクッキー。

暑い汗だく、日中の外出

2024-07-09 | 日々のこと
暑い最中(さなか)、お出かけ。
なんと、アポは太陽が頭の上からジリジリと威圧してくる、真昼間の12:00。
終わるのが13:00。
最も暑い時間帯、、、は良いにしても(良くないが)1日の、ど真ん中に予定が入ると、あとが空白の場合、ものすごいタイムロス。
あちこち、銀行回りを入れたり、時間を少しでも有効に使おう頑張ったが、14:20過ぎには用事が終わってしまった。
都会のアスファルト・ジャングルは、太陽の照り返しが強く、むわぁ〜んとしていた。
仲間と涼しいカフェで、かき氷でも食べて、さらにお茶も追加して、エキサイトすれば一石二鳥なのだろうけれど、、、。
いつものごとく、お一人様。
わたしは1人で、カフェには入らないタイプ。
それなら、いち早く家に帰って、ホームウエアで、のんびりしたい。
ただし、ごろ寝は、しない。
(眠くなることもあるが)

ごろ寝をしない、その大きな理由の一つは、ダニ。
最近、ダニが出現している。
ついにやってきた、宿敵。
毎年、夏になると、悩まされる。
どこにも安易に寝転べない。
巷にはダニ退治薬品やグッズ製品、色んな種類が、売られている。
ダニに悩まされるのはウチだけではないようだ。
ダニが出ない季節は、いたって平和だ。
全然、噛まれない。
夏になると、蚊の被害など、ほんのカワイイもので、ダニは強烈。
痒さが強烈。
しかも、いつまでも、強い痒みが続く。

ちなみに、涼しくて気持ちいい電車、命の洗濯タイムが、終わる。 
次の駅で降りなければならない。
まだ、外は灼熱地獄。
図書館に行こうにも、行き帰りが暑いので、足が鈍る。
地元エリアの銀行、第二弾で、お茶を濁して、帰ろう。
おそらく、商業施設には、エアコン涼み客(お金にならない)が、結構いるだろう。
店に入ってお客はお金を落とさなければ、お店もエアコン代はバカにならない。

自宅最寄り駅で、気持ちいいクールエアコンとサヨナラして電車を降りた。
地元商業施設で時計の電池を入れ換えてもらう間に、本屋さんでブラブラして待ち時間を潰した。
池上彰氏の色々な本がたくさん発刊されていた。
彼はTVでも引っ張りだこ、超人的に時の人、売れっ子のようだ。
他の著者の本も、良いことがいっぱい書かれていて、読めば賢くなりそうだが、タイトルと紹介文だけ読んだら全巻読んだ気になった。
というより、多分、集中力がなくて教養本は読めない。
他の作家?の「文章はカタチから入れ」みたいな本もあり、パラパラと目次を見て、もうやめた。
良い文章の書き方、指南書だが、ビジネスの企画書ならいざ知らず、、、、、
文章ぐらい、優秀なお手本に囚われず、好きに書きたい。
「頭の良い人の説明は、なぜわかりやすいか?」のような本もあり、ざざざざーっと粗っぽく要所のみ読んだが、どうやら、わたしの真逆をすればよいようだ。
わたしは、悪い見本。反面教師。
わかってはいたが、、、いつも同じ結論に辿り着く。
わたしは、アタマが良くない。
血の巡りが悪い。
ところどころ、詰まっていると思われる。
一気に流れることもあるので、それはそれでよいのか悪いのか、振り回される。

とウロウロタイムを経過し、時計の電池交換は無事済んだ。
性格の良さげな好感度の高いスタッフさんではあるが、時計(電池交換)技術には若干の不安が残るものの。

・・・小学生蝶日記は書き出すと全部書かないと止まらない。
で、バスに揺られて自宅に到着したが、それからが、一仕事。
ダニ退治!
今夜、噛まれないように必死である。
直近に(たぶん昨夜)噛まれた噛み跡が、あまりにも痒くて、何が何でもダニを阻止しなければ。
全力で頑張った。
(「全力」をイージーに多用、使い過ぎか?)

※写真は、引き続き、義甥の手作りチーズケーキ。
ふんわりと、やさしく、とても美味しかった。




友人について

2024-07-08 | お付き合い
蝶ブログでは今まで散々、「わたしは友達がいない」と書いて来た。
これは嘘ではない。
ちょっと知っている人は、「知り合い」「知人」と表現した。
こちらから親近感を一方的に抱く人にも、「顔見知り」と書いた。
友人、特に、親友など、1人もいない。
なので、虚偽ではない。

が、近頃の記事には、「友達」が、ちらほら登場する。
新しい人に出逢ったわけではない。
かつて、「知人」と表現した人を、格上げしたまで。
といっても、1人ではなく、複数。
知人から友人に、わたしの中で、移行した。
付き合い方の距離はまるでそれまでと同じ。
急接近したわけでもなんでもない。

こちらから、こころを開くと、友達になれるようだ。
わたしは、孤独が好きなわけでもなんでもなく、たんに単独行動が好きなだけ。
大勢でワイワイガヤガヤは苦手ではあるが。
孤高では決してない。
孤高にも色んな意味がある。
協調性を欠き、迎合しない面もある。
集団行動には適さない。
人に合わせすぎるわたしは、自分の意見を言えないが、集団を離れると自分軸で考え、動く自己中だから、それは一つの個人の特徴である。
付き合いが苦手だったけれど、多少、他者と自分との折り合いがついたのだろう。
だが、元々、人間嫌いではない。
好ましいと感じる人と、お近づきになりたい。
なので、強く広く張り巡らされていたバリアは少し取れてきたようだ。

人間的なあたたかみ、ぬくもりを感じる人と、感性を共有したい。
シャープな尖った人には、研ぎ澄まされた感覚は興味深く、インスパイアされる。 
外側から観察して眺める。
内側にいる人だと、ピリピリビリビリして、ゆったりこころ穏やかにはなれない。ぶつかる。
暑苦しいのは苦手だが、存在感がある温度は好ましい。
そういう気持ちで、近頃は周りと接しはじめている。
歳が行くと、人間関係が煩わしい、という傾向の、逆行だ。
歳が行ってからこそ、緩やかな人間関係を欲する。
多分、自分をそれなりに確立出来たからだろう。
怖い顔をした、おじいさんは、ほっておいて、にこやかなおじいさん、おばあさんに吸い寄せられるように、近寄って行く。
太陽と北風。
北風より、ぽかぽかお日様がいい。

とは言うものの、ここのところ体温を上回る酷暑、ヒーハーヒーハーいっている。
ネックウォーマーならぬ、ネッククーラーを巻いて、冷房の効いた場所へ足を運んでいる。
ただし、冷房対策ストールをカバンの中に忍ばせて。

※写真は、昨日に引き続き、義理の甥、お得意のスペイン料理。